「私には特別な才能があるわけではない。ただ燃えるような好奇心が備わっているだけだ」このような名言を残したのは、光の進み方と重力を扱った「一般相対性理論」で知られるアルベルト・アインシュタインです。
アルベルト・アインシュタインといえば、舌をペロッと出した【あっかんべー】の写真が浮かぶのではないでしょうか。今では誰もが知る20世紀最大の物理学者といわれていますが、幼少期から言語において障がいを持っていたり、大学卒業後に定職のない時期もありました。「燃えるような好奇心」を十分に満たせる働き方にたどり着くまでには10年弱を要してます。
そんな苦悩もあった天才アインシュタインですが、一体、どんなきっかけでその才能が開花し数々の発明を残したのか、彼のすごさを生い立ちから探ってみたいと思います!
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目次
アルベルト・アインシュタインの凄さはどこから?幼少期を探る
アインシュタインの生い立ち
1879年ドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市で、ユダヤ人で商人である父ヘルマンと母パウリーネの間に長男として生まれました。ウルム市にいたのは1年間だけで、当時ドイツの中心都市であるミュウヘンの郊外へ、父と叔父のヤコブが電気化学工場を設立するために引っ越します。(この叔父が後にアインシュタインに最初の転機を与えてくれます)
アインシュタインは5歳まであまり言葉を話さない子供で、両親から発育を心配されていたようです。(一説では、9歳までしっかりとした会話ができなかったともいわれています。)
その時代ユダヤ人は、キリストを殺した民族と言われ嫌われていました。また、アインシュタインは動作も鈍く、小学校の同級生に「のろま」と呼ばれたり、仲間外れにされていました。後に20世紀最大の物理学者となるアインシュタインですが当時は勉強もあまりできる子供ではなりませんでした。
母親がピアニストだったため、その影響で6歳からバイオリンを弾き始めるようになり、楽器に触れている時間を何より楽しむ少年だったそうです。(余談:彼の好きな作曲家は、シューベルト、モーツァルト、バッハ、ビバルディでした)
勉強は苦手なアインシュタインでしたが、唯一、 数学に関しては早くから傑出した才能を示していました。そしてそれを知った叔父のヤコブが、熱心に数月の勉強を教えてあげていました。この事が、彼の人生の最初の転機だといえるでしょう。
9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知って夢中になり、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、自力で定理を証明しました。さらに12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独学。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれています。このころから、アインシュタインは周りから「天才」扱いされるようになりました。
小学生からの学生時代
小学生時代~天才的な数学の能力
当時のドイツは、マルクス政権で軍国主義でした。
アインシュタインがギムナジウム時代に一家はイタリアに引っ越しました。
1985年、スイスのチューリッヒ連邦工科大学を目指しますが、ここで苦難の道が待っていました。数学や物理においては天才的な能力を発揮する一方で、言語や歴史などの分野においては点数を取る事が非常に困難でした。大学はスイスのチューリッヒ連邦工科大学を目指しましたが、苦手な分野が足を引っ張ってしまい不合格でした。
しかしこの受験で、得意な数学や物理で一位の点数を取っていたため、ギムナジウムに一年間通うことを条件に、翌年度の入学を許されました。
変わり者扱いだった大学生活

出典:Wikipedia
チューリッヒ連邦工科大学では講義にはあまり出席せず、自分の興味がある分野だけ出席していました。そして快適な学生生活を過ごしていましたが、興味のある分野の研究に没頭するあまり爆発騒ぎを起こしてしまったり、教授によく反抗したり、相変わらず苦手な分野においての評価は最低ランクだったりと、 大学時代のアインシュタインもなかなかの変わり者だったようです。
また、この大学で、アインシュタインは最初の妻となるミレヴァ・マリッチと出会いました。4歳年上のセルビア出身の女子学生で優秀であり洞察力に富み、学術的な議論もできるミレヴァにアルベルトは惹かれていきました。また、ミレヴァの方も、アインシュタインに音楽の趣味があることを知り、彼に魅力を感じていきました。そして彼女とは相対性理論の発明において議論を交わす仲となります。アインシュタインの手紙には何度も「ぼくらの研究」という言い回しが使われてる上、相対性理論に至るアイデアについてミレヴァと手紙でやりとりしていた証拠も残っています。
大学卒業後~特許庁への就職~論文の発表
1900年、チューリッヒ連邦工科大学を卒業しました。最終試験に失敗したうえ妊娠したミレヴァは、故郷のセルビアでアインシュタインの就職が決まるのを待ちましたが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバーと仲が悪かったために、大学の助手になれませんでした。他の学校の教師になろうと、手紙を書き送りますが受け入れてくれるところはありませんでした。
仕方なくアインシュタインは、保険外交員や臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得て、日々を暮らす生活を余儀なくされました。
そうしているとき、友人の父親から特許庁への就職を紹介されます。 ちょうどその頃、 ミレヴァと結婚をし、翌年に子供も産まれています。
ミレヴァの協力を得ながら、寝る間を惜しんで次々と論文を書いていきました。特許庁の仕事で忙しくするかたわらで、正業のない不安定な状況にあっても、「物理学者になる」という意志は全く揺らぎませんでした。
そして1905年に、現代の科学の発展にも大きな影響を与える事となる「ブラウン運動の理論的解明」「光量子仮説」「特殊相対性理論」とそれぞれに関係する5つの論文を次々と発表しました。 (特殊性相対理論:時間と光についての革命的な発見)
この時26歳でした。
大学教授となる
1909年には、チューリッヒ大学の教授として初の常勤研究職に就く機会に恵まれましたが、最初は辞退しました。なぜなら給料が、特許庁の給料よりも少なかったからです。大学側から高い給与を提示されてようやく、アインシュタインはその申し出を受けました。アインシュタインは、研究職に就くことを友人に知らせる手紙の中でこう述べています。
また、


偉業を達成した天才
一般相対性理論
1914年に第一次世界大戦が勃発しました。その頃妻ミレーバとの夫婦仲も良くありませんでしたが、アインシュタインはそんな状況下でも、20世紀の科学界における最大の偉業を成し遂げました。 1915年に一般相対性理論を発表したのです。
光量子仮設の発表~ノーベル物理学賞の受賞
そして一般相対性理論の発表から三年後、 43歳の時に「ノーベル物理学賞」を受賞することができました。でも、アインシュタインは先ほど記した「相対性理論」でノーベル賞を受賞したのではありません。アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞したのは「光量子仮説」という研究によってなのです。なぜこれほど有名な「相対性理論」でノーベル賞を受賞しなかったのでしょうか?
離婚~再婚
アインシュタインは、世界でもっとも有名な科学者になったその年に、最初の妻ミレヴァと離婚しました。はじめは離婚を渋るミレヴァに対し、離婚届に署名してくれたら、自分がノーベル賞を受賞した時に受け取る賞金をミレヴァに譲ることを提案し説得しました。ノーベル賞の賞金は、ミレヴァの年収の推定37倍以上でした。ミレヴァはアインシュタインの提案に同意し、2人は離婚しました。
そしてそれから4カ月としないうちに、アインシュタインは二番目の妻エルザと結婚しました。エルザとは7年ものあいだ、不倫の関係にあったのです。
アメリカへの亡命

出典:Wikipedia
1933年、54歳の時、ナチス・ドイツが政権を手に入れたことをきっかけにしてドイツ国籍を放棄し、家族を連れてアメリカに亡命します。ヒトラーがユダヤ人を迫害し始めたからです。ユダヤ人であるアインシュタインは身の危険を感じ、安全なアメリカで暮らすようになります。
この頃からアインシュタインは悩み、苦しむようになりました。

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そして、広島県・長崎県に原爆が落とされました。(第二次世界大戦)

アインシュタインは本来、科学の平和利用を主張する平和運動家だったのです。
平和運動家としてのアインシュタイン~彼の最期まで
戦後、アインシュタインは、科学者が先頭に立って平和を実現しようという委員会を発足しました。世界全体で核兵器を管理する体制が必要だと訴えます。終戦から3年、アインシュタインは、アメリカに来ていたある日本人を訪ねます。日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹でした。部屋へ来るなり、手を固く握って涙を流し、

晩年、アインシュタインは、統一理論と核管理の実現に全てを注ぎました。しかし、そのどちらも達成することなく1955年4月18日 76歳で亡くなりました。そんなアインシュタインの葬儀は、驚くほど簡素なものだったそうです。参列したのは、家族や友人など僅か12人・・・遺言によって墓は作られず、遺灰は川へ。シンプルな美しさを追い求めたアインシュタインらしい最期でした。
まとめ
幼い事から目には見えない世界の仕組みに深い興味を示し、言語に不自由がありながらも自由な発想で思考を続けたアルベルト・アインシュタイン。
彼のその半生は、ただ言葉を記号として暗記することや、目に見えるものだけをそのままの形で認識することよりも、自身の感性や想像力がいかに大切なのかに気付かせてくれます。
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