麒麟がくる【明智光秀】なぜ織田信長を裏切った?「本能寺の変」について分かりやすく解説!

来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公である明智光秀は主君の織田信長を裏切った人物として有名です。

本能寺の変を起こした人物ですので多くの人が知っているかもしれません。しかし、そんな明智光秀ですがとても謎の多い人物でした。

今回は明智光秀の経歴やなぜ織田信長を裏切ったのか、そして天海=明智光秀説についてご紹介いたします。

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謎の多い明智光秀の生い立ちと経歴

明智光秀の生い立ち

明智光秀は実はとても謎に包まれた人物です。清和源氏の土岐氏支流の明智氏のもとで誕生したとされていますが、いつどこで誕生したのか、誰の子供なのかはっきりと分かっていません。

明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明などが父親候補としてあげられていますが、最も明智光綱が明智光秀の父親として有力視されています。

現在は享禄元年(1528年)または永正13年(1516年)に誕生したと考えられており、生地は

  • 岐阜県可児市広見にある明智城
  • 近江国犬上郡
  • 岐阜県瑞浪市
  • 岐阜県大垣市上石津町

などと考えられています。

 

斎藤道三に仕える

いつ、どこで誕生したのかはっきりとわかっていないため、幼少期、青年期は不明ですが、美濃国の守護・土岐氏の一族出身で美濃の国主となった斎藤道三に仕えていたとされています。

斎藤道三斉藤道三肖像画出典画像:Wikipedia

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しかし、弘治2年(1556年)、主君であった斎藤道三が自身の息子・義龍と争いをはじめます。この戦いは長良川の戦いと呼ばれ、明智光秀は斎藤道三に味方しました。結果、斎藤道三は息子である斎藤義龍に敗北し、斎藤義龍は明智城を落城させ、明智光秀やその一族たちは離散したとされています。
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一族と離散した明智光秀は諸国を放浪することとなり、貧困生活を送ることとなりました。明智光秀は天文22年(1553年)頃に妻木広忠の娘とされる煕子(お牧の方)を正室に迎えていました。諸国を放浪し、貧困生活を送っていた頃、妻の煕子は自らの髪を売り明智光秀を支えていたとされています。

 

朝倉義景に仕える

その後、明智光秀は約10年もの間、越前国の朝倉義景に仕えました。

朝倉義景朝倉義景肖像画出典画像:Wikipedia

 

足利義昭に織田信長を勧める

永禄9年(1566年)5月9日、室町幕府第13代将軍・足利義輝が三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久通によって暗殺されます。(永禄の政変)

直後、暗殺された足利義輝の弟である足利義昭も自身の命が狙われるとして京都を脱出し姉婿である若狭国守護・武田義統のもとで保護されることとなりました。

足利義昭足利義昭肖像画出典画像:Wikipedia

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京都から脱出した足利義昭でしたが、幕府再興を願い織田信長など各地の武将たちに上洛の手助けと、自身の将軍擁立を促しました。

足利義昭
上洛の手助けをしてくれませんか?

織田信長は足利義昭の要請に協力することとなりましたが、永禄9年(1566年)8月、対立していた美濃国の斎藤氏が織田信長の土地である尾張国に侵入してきたため、織田信長は上洛の手助けよりも自身の領国の安全を優先し、斎藤氏との戦闘を再開しました。

上洛の手助けを1度受けたにも関わらず、斎藤氏との戦闘を優先した織田信長に不信感を募らせた足利義昭は明智光秀が仕える朝倉義景を頼ることとなりました。

しかし、足利義昭が上洛をしよう!と促しても朝倉義景はなかなか行動を起こさず、たまらず明智光秀は足利義昭に対し

明智光秀
「朝倉義景は頼りないですが、織田信長は頼りがいのある男ですよ。」

と織田信長を勧めました。

この明智光秀の助言を受けた足利義昭は永禄11年(1568年)6月23日、斎藤氏を破った織田信長に対し明智光秀を通して再び上洛の手助け、自身の将軍擁立を要請しました。

この頃、桶狭間の戦い以降勢いに乗っていた織田信長。そんな織田信長に足利義昭は頼ることとなったのです。

織田信長織田信長の肖像画画像出典:Wikipedia

 

足利義昭、織田信長に仕える

その後、明智光秀は朝倉義景のもとを去り、足利義昭、織田信長、両属の家臣となり、永禄11年(1568年)9月26日さっそく足利義昭の上洛に加わることとなりました。上洛を果たした足利義昭は数日後の10月18日、将軍宣下を受け第15代将軍に就任することとなります。

永禄12年(1569年)1月5日、足利義昭が仮御所としていた京都本圀寺が三好三人衆らによって襲撃を受けます。この襲撃は本圀寺の変と呼ばれ、明智光秀は三好三人衆らと戦うこととなりました。この戦いは結果、足利・織田方の勝利に終わります。

本圀寺の変の後、同年4月頃から明智光秀は木下秀吉(後の豊臣秀吉)や、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長が支配下に置いていた京都での政務にあたりました。

同年10月、足利義昭と織田信長が意見の違いから衝突を起こします。それによって織田信長は領国である岐阜へと戻ってしまいました。その後も足利義昭と織田信長の関係は悪化をたどるようになります。

 

元主君である朝倉義景との戦い

この頃、織田信長は以前、明智光秀が仕えていた朝倉義景と対立していました。

織田信長徳川家康と手を組み永禄13年4月20日(1570年)、3万の兵を率いて朝倉義景に向け挙兵します。4月25日、織田・徳川連合軍が朝倉義景領に攻撃を仕掛けたものの、織田信長と同盟関係であった浅井家が朝倉氏に寝返り挟み撃ちの攻撃に合うこととなりました。織田・徳川連合軍は撤退に追い込まれ、その撤退の際、明智光秀は豊臣秀吉とともに防衛戦に参加します。この撤退は金ヶ崎の戦いと呼ばれ、織田・徳川連合軍の撤退は成功に終わりました。

その後、撤退した織田信長は元亀元年(1570年)6月、再び徳川氏と手を組み、朝倉・浅井連合軍に攻撃を仕掛けました。この戦いは姉川の戦いと呼ばれ、織田・徳川連合軍の勝利に終わります。

浅井長政浅井長政肖像画画像出典:Wikipedia

 

足利義昭と決別、室町幕府の滅亡

姉川の戦いの後、織田信長と足利義昭は対立関係となり、ついに元亀4年(1573年)2月、足利義昭が織田信長に対し挙兵しました。

織田信長、足利義昭どちらにも仕えていた明智光秀は織田信長の直臣となり、足利義昭と決別します。その後、足利義昭は織田信長に降伏をし、京都から追放され室町幕府は滅亡となりました。

室町幕府滅亡後、明智光秀は織田信長に仕えた明智光秀は

  • 高屋城の戦い(織田信長vs三好康長、石山本願寺)
  • 長篠の戦い(織田信長・徳川家康vs武田勝頼)
  • 越前一向一揆(織田軍vs越前一揆衆)
  • 天王寺の戦い(織田軍vs石山本願寺・雑賀衆)
  • 有岡城の戦い(織田信長vs荒木村重)

などの戦に参戦しました。

 

織田信長に信頼されていた明智光秀

天正7年(1579年)には細川藤孝とともに丹波国を平定し、織田信長から褒美が与えられます。天正9年(1581年)には織田信長が京都で行った大規模な軍事パレードである京都御馬揃えの運営責任者に任命されるなど、織田信長から厚い信頼を受けていました。

この頃になると織田信長の天下統一事業は進み、残すは北陸の上杉氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏の支配となっていました。

明智光秀は上洛予定であった徳川家康の接待役に任じられましたが、天正10年(1582年)5月、わずか1か月も立たないうちにその任を解かれます。そして、中国地方の毛利氏を攻めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の援軍を命じられるのでした。

豊臣秀吉豊臣秀吉肖像画画像出典:Wikipedia

 

なぜ織田信長を裏切った?

本能寺の変

中国地方の毛利氏を攻めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の援軍に命じられた明智光秀。天正10年(1582年)6月2日の早朝、明智光秀は中国地方向け出陣します。

しかし、その道中、明智光秀は考えを変え重臣たちに

明智光秀
織田信長を討とうと思う。

と伝え、そのまま京都の本能寺に宿泊する織田信長に出陣しました。重臣たちには織田信長を討つことが伝わっていましたが、下っ端の兵たちには伝わっておらず

兵たち
京都に戻るのは、織田信長の命令を受け徳川家康を討つためなんだな!

と勘違いしていたとされています。

こうして本能寺に到着した明智光秀一行は織田信長が宿泊する本能寺を包囲し攻撃を仕掛けました。この時明智光秀の軍勢は13,000人。それに対し織田信長を守る兵はたったの100人だったとされています。織田信長は懸命に奮戦するも、自ら火を放ち自害しました。

「本能寺焼討之図」「本能寺焼討之図」出典画像:Wikipedia

 

織田信長を裏切った理由

織田信長から信頼されていた明智光秀がなぜ織田信長を裏切ったのか、その理由は実はまだ分かっていません。

そのため明智光秀が織田信長を裏切った理由として

  • もともと明智光秀は天下統一を目指していたため、織田信長を裏切った
  • 織田信長を恨んでいたため、裏切った
  • 織田信長は期待に沿った活躍ができない重臣を容赦なく解雇していたため、自身や一族の将来を不安に思い裏切った
  • ノイローゼなど精神的に追い詰められ、冷静な判断を行えず裏切った
  • 信頼されていたというのは形だけであり、もともと織田信長とは仲が悪かったため裏切った
  • 天下統一を果たした織田信長が神格化されること嫌ったため、裏切った
  • 比叡山焼討、長島一向一揆など大量虐殺を行っていた織田信長は暴君であるとし、暴君を排除するため裏切った

など様々な理由があげられています。

他にも

  • 実は明智光秀は事件に関わっておらず、豊臣秀吉や徳川家康、斎藤利三といった人物が黒幕であった
  • 朝廷が明智光秀に織田信長を抹殺させた
  • 亡き足利義昭の権力を取り戻すために足利義昭の旧家臣が明智光秀に織田信長を抹殺させた
  • 豊臣秀吉が織田信長の抹殺計画を企て、明智光秀が実行した
  • 明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康が織田信長の抹殺を計画し、明智光秀が実行した

などの考えもあげらています。

様々な考えがあげられていますが、その答えは分かっておらず、本能寺の変は日本史最大の謎とされています。

 

山崎の戦い

織田信長が亡くなると明智光秀はその後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠と従兄弟の斎藤利治らを討ち取ります。さらに織田信長の本拠地である安土城に入城するため近江へと向かいますが、山岡景隆に抵抗されなかなか思うように近江を平定することはできませんでした。

京都が混乱する中、明智光秀は金銀を朝廷に送り織田信長の殺害の正当化を訴えますが、朝廷は明智光秀を謀反者として扱いました。

中国地方で毛利氏と戦をしていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は明智光秀によって織田信長が討たれたことを知ると、すぐに毛利氏と和睦を結び大急ぎで京都に帰ってきました。そして本能寺の変から11日後の天正10年(1582年)6月13日、急いで中国地方から戻ってきた羽柴軍と明智軍は衝突することとなりました。

この戦いは山崎の戦いと呼ばれ、羽柴軍2万7千人に対し明智軍は1万7千人の兵力であったとされています。兵力の少ない明智軍は羽柴軍に圧倒されることとなり、山崎の戦いは羽柴軍の勝利に終わりました。

山崎合戦の地 石碑山崎合戦の地 石碑出典画像:Wikipedia

 

明智光秀の最期

羽柴軍に負けた明智光秀は数少ない護衛を抱え、坂本城へと逃げます。

しかし、その道中落ち武者狩りを行っていた百姓に竹やりを刺され、そのまま死を悟った明智光秀は天正10年6月13日、自害しました。明智光秀の首は本能寺で晒されたとされています。

 

明智光秀=天海?

明智光秀は実は天海だったのではといった考えがあります。

天海とは安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した天台宗の僧侶です。徳川家康の側近として徳川幕府の朝廷政策や宗教政策に関与しました。非常に優秀な僧侶でしたが出自に関して詳しく分かっておらず明智光秀と同様に謎に包まれた人物です。

いつ生まれたのか、誰から生まれたのかなど分かっていないため明智光秀の他に第12代将軍・足利義晴の子供、古河公方足利高基の子供であるといった説があります。

天海天海肖像画出典画像:Wikipedia

明智光秀=天海であるといった根拠として

  • 日光にゆかりのある天海が明智平という地名を日光につけた
  • 明智家の家紋である桔梗紋が日光東照宮で使用されている
  • 明智光秀の重臣の斎藤利三の子供である春日局が徳川幕府第3将軍・徳川家光の乳母として、明智光秀の重臣・溝尾茂朝の孫である三沢局が徳川家光の子の徳川家綱の乳母に採用されている
  • 天海の墓が、明智光秀の居城のある近江坂本にある
  • 天海と明智光秀の筆跡が似ている

などがあげられています。

しかし、これだけの根拠で天海=明智光秀とは言えないため、歴史の専門家・小和田哲男は天海=明智光秀は史実ではないと述べています。

 

まとめ

明智光秀はとても謎の多い人物でした。

織田信長から信頼されていたとされていますが、なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのでしょうか。裏切った理由が様々考えられていますが、誰も答えを知ることはできません。

来年の大河ドラマ「麒麟がくる」では俳優の長谷川博己さんが明智光秀を演じられます。謎の多い人物をどのように演じられるのか楽しみですね。

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