日本の鎖国は一般的に寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から始まったとされ、嘉永7年(1854年)日米和親条約締結まで約200年間もの間、続けられることとなりました。
その鎖国に踏み切ったきっかけとなったのが島原の乱とされています。
島原の乱とは幕府軍と一揆軍による争いなのですが、その一揆軍のリーダーとされたのが天草四郎でした。島原の乱は幕府軍の勝利に終わり、天草四郎は討ち取られ最期を迎えることとなります。
天草四郎は謎の多い人物で、出身地や誕生日など今も分かっていないことが多くあります。謎の多い人物だからこそ、多くの伝説を残しました。
そんな天草四郎の生い立ちや死因、ハーフでイケメンだった?といった説や、「実は生き延びていた」説、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の落とし子であった?という説 という、天草四郎の多岐にわたる謎についてもご紹介いたします。
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目次
天草四郎の生い立ち イケメン説
天草四郎がいつ誕生したのかは詳しくは分かっていません。
月岡芳年が描いた天草四郎画像出典:Wikipedia
天草四郎の出身地
また出身地も
- 天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)
- 肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)
- 長崎
など、様々な説があり詳しくは分かっていません。
キリスト教を信仰
天草四郎の本名は益田四郎と言います。
キリシタン大名で関ヶ原の戦いで戦死した小西行長の家臣・益田好次の嫡男でした。
母や姉もキリシタン
父とされる益田好次はキリシタンであったとされ、洗礼名はペイトロと言いました。父がキリシタンであったため、天草四郎や長女・お福、次女・つる、三女・蔓もまた後にキリスト教を信仰することとなります。
父・益田好次が仕えていた小西行長が亡くなると、天草四郎たちは百姓となり肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)に移り住んだのではと考えられています。
肥後国宇土郡江部村(現在の宇土市)で育った天草四郎は、学問を学ぶため長崎に何度か訪れたとされています。そこでキリスト教に入信したとされています。
天草四郎たちの洗礼名
- 嫡男・天草四郎ー洗礼名:ジェロニモ、のちフランシスコ
- 長女・お福ー洗礼名:レシイナ
- 次女・つるー礼名:リオナ
- 三女・蔓ー洗礼名:マルイナ
天草四郎の奇跡な伝説や豊臣秀頼の子供?ハーフ?様々な伝説が
天草四郎の実家は比較的経済的に恵まれていたとされ、学問を学ぶ余裕がありました。そのため幼少期から学問に親しんでいた天草四郎は優れた教養を身に着けることができたのです。
天草四郎がどのような青年であったのかは詳しく分かっていませんが
- 盲目の少女の視力を回復させた
- 海面を歩いた
など様々な奇跡を起こしたという逸話が残されています。
他にも、豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼の落とし子であるといった伝説が残されていました。
このような様々な逸話があったため、天草四郎は小西氏の旧臣やキリシタンの間でカリスマ的な少年、救世主として擁立されていました。
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天草四郎はイケメン?ハーフ?

天草四郎
天草四郎は色白で、目が青かったなのど逸話があるため、天草四郎はハーフでイケメンだったのでは?と思う方もいることでしょう。
しかし、益田好次と渡辺伝兵衛の娘との間に誕生した嫡男という記録が残されているためハーフという可能性は低いです。
天草四郎がどのような顔立ちをした少年であったのかが分かる資料はほとんどないのですが、数少ない資料で見ると確かに端正な顔立ちをしていたのではないかと感じます。現代でいう「塩顔」といったところでしょうか?羽織・マント・襞襟を纏った姿が天草四郎の一般的なイメージとされていますが、実際、羽織・マント・襞襟を纏っていたのかが分かっていません。
謎の多い天草四郎ですので、本当にイケメンであったかどうかは謎に包まれています。
このようなイメージは様々な創作作品からつくられたものなのかもしれませんね。
島原の乱
寛永14年(1637年)江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆とされる島原の乱が勃発します。
島原の乱
- いつ起こったか:寛永14年(1637年)12月11日から寛永15年(1638年)4月12日
- どこで起こったか:原城(長崎県南島原市南有馬町乙にあった城)
- 交戦戦力:徳川幕府vsキリスト教徒
- 結果:徳川幕府の勝利
なぜ島原の乱が起きた?
島原の乱とは松倉勝家が領する肥前島原半島と、寺沢堅高が領する肥後天草諸島の領民が藩に対し一揆を起こしたものです。
島原藩の松倉勝家、唐津藩の寺沢堅高は、領民に対し過重な年貢を負担させたり、百姓を酷使する、また年貢を払えない者を処刑するなど行っていました。

松倉勝家が統治する島原はもともとキリスト教徒が多く住む町でした。
なぜ島原に多くのキリスト教徒が住んでいたのか
日本にキリスト教が布教され始めたのは天文18年(1549年)からのことです。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた
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フランシスコ・ザビエルが日本に来日して以降、多くの宣教師が日本に来日しキリスト教を布教しました。日本ではキリスト教徒が増えますが、当時天下を統一していた織田信長は特にキリスト教を弾圧するなどの政策は行いませんでした。
フランシスコ・ザビエル画像出典:Wikipedia
豊臣秀吉がバテレン追放令を発布
しかし、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉はキリスト教を危険視するようになり、天正15年(1587年)キリスト教宣教の制限を定めたバテレン追放令を発布します。ですが、発布されたものの、処罰などの刑はなくキリスト教の布活動はその後も行われていました。
徳川幕府がキリスト教の弾圧を強化
慶長17年(1612年)、徳川幕府は再びキリスト教の布教を禁止する禁教令を発布します。これによってキリスト教の弾圧は強化されることとなりました。

島原の大名・有馬晴信はキリシタンであった
キリスト教が日本に持ち込まれて以来、島原にも多くのキリスト教信者がいました。ですが、島原の大名・有馬晴信がキリシタンであったため、キリスト教信者の弾圧は行われませんでした。
そのため、島原の地はキリスト教信者にとって非常に居心地の良い場所であったのです。このようなことから島原には多くのキリスト教信者が集まるようになりました。

有馬晴信画像出典:Wikipedia
松倉親子の厳しい弾圧
島原の大名・有馬晴信がキリシタンであったため、キリスト教の弾圧は行われませんでしたが、所領代えによって島原は松倉勝家が統治するようになると、松倉勝家はキリスト教信者に対し厳しい弾圧を行うようになります。年貢を納税できない者だけではなく、キリスト教信者も処刑するなどを行いました。
しかし、寛永7年(1630年)11月16日、キリスト教信者を弾圧していた松倉勝家が亡くなります。これで弾圧は収まるかと思われましたが、次代の松倉勝家(松倉勝家の息子)も厳しい弾圧を行うのでした。
反乱を決意
この厳しい仕打ちに対し、島原の人々は疲労困憊となっていました。そんな中、寛永11年(1634年)悪天候による大飢饉が起こります。しかし、松倉勝家は領民を救出することもなくさらに年貢の取り立てなどを行い続けたのです。この状況に領民の暮らしは限界に達し、ついに

と反乱の計画をたてはじめます。
天草四郎を一揆軍のリーダーに
湯島(談合島)で計画をたてていた領民たちはキリシタンや小西氏の旧臣の間でカリスマ的な存在として崇められていた天草四郎を一揆軍の総大将、つまりリーダーとし、反乱を起こすことを決意しました。
当時、天草四郎は16歳。若くして一揆軍のリーダーとなったのです。

そして始まった島原の乱
寛永14年(1637年)10月25日、天草四郎をリーダーとした一揆軍の反乱が始まります。
キリスト教信者たちは代官所にいる代官・林兵左衛門を殺害し、これによって島原の乱が始まりました。
数日後に肥後天草でも一揆が起こります。そこには弾圧を受けていたキリスト教信者や領民だけではなく、離反した武士なども含まれていました。
原城に籠城
島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城跡に籠城することとなった島原の一揆軍。
そこには、天草の一揆軍も合流することとなり、その数は約37,000人であったとされています。一揆軍は原城趾を修復し、食料武器を持ち込むなど、籠城に備えました。
一揆軍が籠城した原城址画像出典:Wikipedia
討伐軍による兵糧攻め
一揆軍の反乱に対し、徳川幕府は板倉重昌、石谷貞清を派遣します。幕府の討伐軍は一揆軍が立てこもる原城趾を攻撃しますが、城の守りは堅く、討伐軍はことごとく敗走となりました。
その後も幕府は討伐軍を派遣し攻撃させますが、失敗に終わりました。
出陣を命じられた松平信綱率いる討伐軍は、陸と海から原城を包囲し一揆軍の行動を監視しました。討伐軍に属する甲賀忍者が原城に忍び込んだところ、原城には食料が不足していることを確認します。これによって討伐軍は攻撃を止め、作戦を兵糧攻めに切り替えたのでした。

兵糧が尽きはじめる
さらに幕府軍は、天草四郎の母と姉妹を生け捕りにし、籠城する天草四郎に対し降伏を呼びかけます。しかし、天草四郎は応じませんでした。
城内では食料が尽きはじめ、海藻を兵糧の足しにしていたとされています。松平信綱が城外に出た一揆軍を討ち、胃の中を調べたところ、胃の中には海藻しかなかったとされています。
原城が落城
城内の食料が尽き始めたと同時に、寛永15年(1638年)2月24日討伐軍の総攻撃が始まりました。
兵糧攻めの効果で城内には食料が全くなく、また武器となる弾薬もつき始めていたため、この総攻撃で原城は落城し、一揆軍のリーダーである天草四郎は捕らえられることとなります。
天草四郎の最期と死因
捕らえられた天草四郎は討ち取られ、天草四郎は16歳という若さで亡くなりました。死因は戦死ということとなります。
また一揆軍は皆殺しとなり、これによって幕府軍と一揆軍との間で行われた島原の乱は終わりを迎えたのでした。
実は生きている…? 謎多き天草四郎
島原の乱で敗北し、討ち取られた天草四郎ですが、実は生き延びていたといった伝説が残されています。
討伐軍によって一揆軍は皆殺しとなりましたが、天草四郎の首が見つからなったとされています。また討伐軍は天草四郎の顔を知らなかったため、天草四郎が亡くなったとは断言できませんでした。
そこで、幕府は天草四郎の母親を呼び出し、討ち取った数多くの首を見せたとされています。討ち取られた首の1つを見た天草四郎の母親が泣き崩れたことから、その首を天草四郎と断定しました。
天草四郎が討ち取られたという根拠は乏しいため、そこから天草四郎は生きているといった噂が流れるようになりました。
他にも、そもそも天草四郎は存在しなかったのでは?といった説もあります。出自が謎に包まれている天草四郎ですので、このような説が出てもおかしくはありませんね。
島原の乱後、鎖国がはじまる
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島原のキリスト教信者の多くはこの島原の乱で命を落としましたが、一揆軍に参加せず生き残ったわずかなキリスト教信者たちは隠れて暮らすようになりました。これを隠れキリシタンといいます。
島原の乱が終わると、徳川幕府はキリスト教は幕府を揺るがす存在と考え、キリスト教の弾圧をさらに強化し、鎖国政策を進めるようになしました。
そして寛永16年(1639年)のポルトガル船入港禁止から一般的に鎖国は始まったとされ、嘉永7年(1854年)日米和親条約締結まで、約200年間もの間、鎖国は続けられることとなりました。
徳川幕府が行った鎖国のきっかけは島原の乱だったのです。
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まとめ
鎖国のきっかけとなった島原の乱と、その一揆軍のリーダー・天草四郎の生い立ちや伝説、最期についてご紹介しました。
島原の乱で最期を迎えた天草四郎は謎に包まれた人物であるため、多くの奇跡を起こした、ハーフであった、豊臣秀頼の子供であったといった説が残されました。しかし、どれも信憑性に欠けるため事実であるとは言えません。
熊本県上天草市にある天草四郎ミュージアムでは天草四郎の生涯や、島原の乱、当時のキリスト教伝来の様子などを詳しく知ることができますよ。
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