【アンネ・フランクの日記】なぜ隠れ家から収容所へ連れて行かれたのか?アンネが世界に与えた影響とその生涯

「あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうか私のために大きな心の支えと慰めになってくださいね。」
これは、第二次世界大戦(1939年~1945年)下のヨーロッパを生きたユダヤ人の少女「アンネ・フランク」が遺した「アンネ・フランクの日記」の序盤に書かれていたものです。「キティー」という架空の人物に宛てた手紙形式の日記。ナチスの迫害から逃れるため、家族と一緒に隠れ家で暮らしていたアンネは、毎日の出来事を日記に書きました。そして強制収容所でわずか15年の短い生涯を終えましたが、後に残ったこの「アンネ・フランクの日記」は世界中の人々に知れ渡ることとなり、世界に大きな影響を与えました。

アンネ・フランクたちはなぜ隠れ家で生活し、隠れ家ではどんな生活を強いられていたのでしょうか。そして、なぜ収容所に連れて行かれてしまったのでしょうか。そのせつない生涯を、彼女の名言や「アンネの日記」とともに追ってみたいと思います。

アンネ・フランクの生涯~どんな人だったのでしょうか

幼少期のアンネ・フランク

アンネフランクは1929年6月12日、ドイツ・フランクフルトにてユダヤ系ドイツ人の父オットーと母エーディトのもとに生まれました。名前は「アンネリース・マリー」といい、短く「アンネ」と呼ばれるようになりました。アンネは3歳年上の姉マルゴットとの二人姉妹でした。父は銀行家で一家は比較的裕福でありましたが、銀行業も世界的な不況から立ち直れずに業績は悪化していました。
アンネは活発で知りたがり屋の可愛い女の子でした。親戚ともみんなと仲がよく、週末になるとアンネたちは母の実家を訪ねたり、アンネより少し年上の従兄弟ともよく遊び、日帰り旅行に出かけたりもしていました。

アンネは明るくて活発な、よく遊ぶ子でした。それに物分かりもよくて利口でした。
ーアンネの従兄弟バディー・エリーアスがインタビューにこたえてー

アンネたちはこうして、この頃は幸せで楽しい毎日を送っていました。

ヨーロッパのユダヤ人

アンネが産まれた頃、ヨーロッパには900万人以上のユダヤ人が暮らしていました。ヨーロッパのユダヤ人の暮らしはあまり楽ではなく、数世紀にわたって反ユダヤ主義にさらされ町から町へ移り住んだり、キリスト教から引き離されてユダヤ人居留地に住むことを無理じいされた時代もありました。それでも19世紀中ごろにはドイツに住むユダヤ人は他の人々と同じ法律上の地位を手に入れることができました。
ところが、これまでに例のないほど残酷な形で反ユダヤ主義が再び現れたのです。1919年に新しく結成された過激な政党は、1920年、ドイツ国家社会労働党(ナチ党)になりました。党首のアドルフ・ヒットラーはユダヤ人を毛嫌いし、ヒットラー指示のもと、ナチ党はユダヤ人を迫害し始めました。

二度の引っ越しを余儀なくされる

ナチ党はさらに支持をのばし、1933年に党員は200万人まで膨らみました。アドルフ・ヒットラーはユダヤ系の人々を非難する演説を繰り返し、反ユダヤの感情をあおりたてる宣伝を続けました。
アンネ達が住んでいたアパートの家主はナチ党を支持していたため、自分のアパートにユダヤ人がいることを良く思っておらず、1931年3月、アンネが2歳になる頃、一家はアパートを出るしかなくなりました。新しい引っ越し先はガングホーファシュトラーセ24番地にあるアパートで、この辺りは「詩人地区」とも呼ばれていました。

そしてその後、父の銀行の事業が傾きかけており、アパートの家賃が高すぎたため、一家は父方の祖母の家に引っ越し暮らすこととなりました。

ヒットラーによる独裁政治~ユダヤ人の苦難

ヒットラー首相が独裁者となる

1933年、ナチ党党首アドルフ・ヒットラーは大統領の指示で内閣を発足させ、ドイツ国首相に任命されました。そして間もなく、民族国家保護法と授権法という法令を議会に通して独裁者となりました。この2つの法令は、国民から表現の自由や報道の自由といった基本的人権の尊重を奪うという恐ろしいものでした。また、様々な反ユダヤ人法も導入しました。これによりユダヤ人が事業をすることは認められず、ユダヤ人の子供は他の子ども達と同じ学校に通うことすら禁じられました。

危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人は次々と国外へ亡命しました。アンネの父も、

アンネの父
これ以上ドイツで暮らすのは危険だ
と、家族を連れて国外へ移住する計画を始めました。すると、既にスイスへ移住していたアンネの叔父から、オランダへの亡命と叔父の会社のオランダ支社の経営を勧められました。アンネの父は申し出を受け、フランク一家はオランダ・アムステルダムへ移住します。

アムステルダムでの学校生活

こうして、オランダ・アムステルダムでの生活が始まりました。アンネが4歳の頃でした。
姉のマルゴーとアンネはとても対照的な性格をしており、マルゴーは物静かな子でしたが勉強がよくでき、両親も先生からもとても優秀な子だといわれていました。対してアンネは、勉強では苦労しましたが性格はとても活発で、おしゃべりでじっと座っていることができないアンネは、自由な教育を特徴とするモンテッソーリの小学校へ入学。陽気なアンネは男子からも人気がありました。姉妹ともに体はあまり丈夫ではありませんでしたが、アンネは体育の授業も楽しんで受けたり、放課後に水泳やアイスホッケーを習ったりとスポーツも楽しんでいました。

「まだ普通の暮らしをしていた頃は、とにかくあらゆる事が素晴らしかったんです」
ーアンネ・フランク【覚えていますか】よりー

クリスタルナハト

水晶の夜(クリスタルナハト)

1938年頃には、ドイツ国内にいるユダヤ人の生活はとても危険になっていました。市民権を奪われ、軍隊からも追い出され、様々な種類の仕事や公共の場所への出入りを禁止されました。ヒットラーはドイツから全てのユダヤ人を追放すること決め、1938年にはドイツに長年住んでいた1万7000人ものユダヤ系ポーランド人が追放されました。その時の国外追放者の息子で、パリに住んでいた「ハーシェル・グリンズパン」が、両親を追放されたことをパリのドイツ領事館に抗議しに行き、ナチ党の将校を殺してしまうという出来事が起こりました。

ナチ党はこの出来事をきっかけに、ドイツ系ユダヤ人へのさらなる攻撃を開始しました。1938年11月、歴史上「クリスタルナハト(水晶の夜)」と呼ばれている二晩で、ドイツ親衛隊はユダヤ人が経営する事業所7500か所を破壊し、ユダヤ教会に火を放って神聖な書物を焼き払い、ユダヤ人の墓地を荒らしました。そしてユダヤ人に残忍な暴力をふるいました。死者は91人、2万6000人もの人が逮捕され強制収容所に送られました。

クリスタルナハトこそ、ユダヤ人大虐殺の始まりである。という歴史家もいます。

第二次世界大戦と侵略

1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まります。オランダは中立を宣言しましたが、1940年5月、ドイツ軍がオランダへ侵攻。ドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、オランダ政府は降伏文書に調印しました。侵攻からわずか一週間足らずでドイツ軍占領地となってしまいました。占領当初、ドイツは穏健な態度をとり、しばらくアンネの生活に大きな変化はありませんでしたが、徐々にユダヤ人迫害を強化していきました。

1940年12月、アンネの父は事業所をプリンセンフラハト263番地に移しました。父は会社がドイツ人の手に渡るのを防ぐため、会社名をオランダ風のネーミング「ヒース商会」に変えました。

1941年5月、新しい法令が出て、ユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止されました。アンネと姉マルゴーは、ユダヤ人学校以外に通えなくなり、アンネもユダヤ人中学校へ転校を余儀なくされました。

 1940年の5月から後は、いいときはほんの少し。ごくたまにしかありませんでした。まず戦争が始まって・・・それからドイツ人がやってきて、ユダヤ人に本当の苦難が訪れたのです。
ー「アンネ・フランクの日記」 1942年6月20日ー

ナチス一家、隠れ家へ

1942年までに、ナチ党はオランダのユダヤ人を集め強制収容所に送るようになっていました。ユダヤ人は収容所で過酷な労働を強いられ、最後はガス室で殺されるのだという噂が広まりました。アンネの父は、家族で移住する許可をイギリスに申請しましたが許可は出ませんでした。そこで、強制輸送されぬよう、父は一家で身を隠すことを計画し始めました。ちょうど事務所の裏手に、隠れ家に使えそうな建て増し部分があり、父の会社の社員も増築の手助けをしてくれました。

1942年6月、アンネの13回目の誕生日には、ささやかなパーティーをしました。アンネは父から贈られたプレゼントの日記帳(のちの「アンネの日記」)をとても気に入り、父はそのあとすぐ「隠れ家」の計画を打ち明けました。

1942年7月5日、姉のマルゴーに強制輸送の通知が届き、「隠れ家」の計画はただちに実行に移されました。みんな大急ぎで荷物をまとめ、翌日の朝早くにアパートを立ち去りました。ユダヤ人がスーツケースを持って歩くのを人に見られると危険なので、アンネは何枚も服を重ね着しました。

「アンネの日記」を綴っていた隠れ家での生活

隠れ家にはフランク一家を含む合計8人で同居していました。それ以外の人たちは、フランク家はスイスに行ったのだと思っていました。アンネの友人でさえ、アンネたちがまだアムステルダムにいるとは知りませんでした。

ヒース商会(父の会社)の従業員がみんな隠れ家の事を知っているわけではなかったため、アンネたちは勤務時間にはできるだけ音をたてないようにしました。朝早く起きて社員が来る前に顔を洗って朝食をとりました。その後は忍び足で歩き、縫物や読書、勉強などそっと静かにやりました。昼食は会社のお昼休みに合わせて支度をして食べました。午後や休むか読書をし、アンネはたいていいつも日記を書いていました。

大好きなキティー
アンネは日記を、キティーという想像上の友達に宛てた手紙として書いていたので、書き出しはいつも「大好きなキティーへ」でした。
この名前はおそらく、お気に入りの本「ヨープ・テル・ヒュール」の登場人物からとったのだろうといわれています。このシリーズはその頃オランダの少女たちにとても人気がありました。

 

隠れ家でいつも日記を書いていたアンネ

隠れ家にいるわたしたち8人は、黒い暗雲に囲まれた青空のかけらのように思えます。
ー「アンネ・フランクの日記」1943年11月8日ー

 

人に見られるといけないので、外出はできませんし窓を開けて外を見ることさえできませんでした。アンネは時々屋根裏の窓からそっと外を眺めたり、空を見上げたりしました。建物の中にずっといるのが嫌で、友達や飼い猫に会いたくてたまりませんでした。

隠れ家に通じる入口を隠した回転式の本棚

日中、トイレは使うことができませんでした。水を流すパイプが、表の事務所を通っていたからです。そこでみんな、ベッドの下にオマルを置いていました。ブリキの桶をお風呂代わりにしましたが他の人に見られずに使うのは難しい。(とても狭い隠れ家でした)そこでアンネと姉のマルゴーは、土曜日に誰もいない事務所で行水することが多かったそうです。カーテンを閉めたままなので、薄暗い中で体を洗いました。食べ物は限られていました。隠れ家にはいくらか保存食がありまししこっそり地元の食料店で調達はできていましたが、戦争が長引くにつれ、新鮮な食べ物は少なくなりました。朝食はどんぐりで作った代用コーヒーとパン一切れ、夕食はレタスかほうれん草とじゃが芋だけということもありました。アンネとマルゴーは痩せてしまい、外に出ないせいでとても青白かったそうです。

アンネ 大人の女性へ

隠れ家にいてもアンネはおしゃれで、いつも素敵でいたいと願っていました。「アンネの日記」には、思春期の体の変化のことを記し、時には男女の交際、好きな人のことについても書いていました。隠れ家での生活をしていても、心の中は歳相応の普通の女の子でした。時々、アンネは一人ぼっちの気がして、心を開いて話せる相手が欲しいと思っていました。1944年にはペーター(同居する家族の息子)を頼りにして、二人は隠れ家の中で一緒にいることが多くなっていました。

アンネ
自分は恋をしている!ペーターのことが好きなのかも

とアンネは思い、その気持ちを姉と父に打ち明けましたが、数か月も経つとペーターへの恋心は消えていました。

 

愛するペーテル(ペーター)。いままでこれほどはっきりと彼のイメージを心に描いたことはありません。写真なんかいらないほどです。目の前にこれほど鮮明にその姿を思い浮かべることができるんですから。     ー「アンネの日記」1944年1月6日-
 
アンネはまた、考え込むことも多くなっていました。
そして両親と自分の関係を分析したり、神や信仰について考えました。特に母に対する不満・悪口は、日記のあちこちに、しょっちゅう顔を出しています。時には、母と仲よくしなくてはと反省するのだけど、長続きしない。ソリの合わなかった母親に対するこのような愚痴や不満も、包み隠さず率直な言葉で日記に綴られています。

とにかくママには我慢がならないんです。ママの前では、ただただ自分をおさえて、毎度荒い言葉で言いかえしたりしないよう、辛抱しなくちゃなりません。そうでもしないと、ついママの横っ面をひっぱたきかねませんから。
どうしてこんなにまでママのことが嫌いになったのか、自分でもさっぱりわかりません。パパは、ママの気分が悪いときとか、頭痛のするときには、おまえも進んでお手伝いぐらいしたらどうだ、そう言いますけど、わたしはごめんです。
ママのことは嫌いだし、とてもそんな気にはなれませんから。パパのためだったら、いくらでもやってあげられるんですけど。このことは、パパが病気になったときにはっきりわかりました。
それに、いつかママが死ぬときのことだったら、たやすく想像もできますけど、それがパパのこととなると、いつかパパが死ぬなんてこと、とても想像できません。
ずいぶんひどい言い草ですけど、これは本音です。ママにはぜったいにこれ、見せられませんよね。『これ』も、あるいはほかのどんな記述も。
-「アンネの日記」1942年10月3日ー

 

アンネたちはなぜ収容所につれていかれたのか

隠れ家が発見される

アンネが最後に日記を書いたのは、1944年8月1日です。アンネはその時15歳でした。その三日後にドイツの秘密警察、ゲシュタポがやってきて隠れ家が見つかってしまうのです。

なおも模索しつづけるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるのかを。きっとそうなれるはずなんです。 -「アンネの日記」の最期の日記 1944年8月1日ー

 

1944年8月4日午前10時頃、プリンセンフラハト263番地で車が停まり、男たちが降りてきました。それはナチ党員でした。隠れ家に入ってきた男たちにより全員居間に集められ、両手を頭の上に上げて立たされました。姉のマルゴーは激しく泣きましたが、アンネは何も言わずただ黙って立っていました。男たちは部屋にあった書類鞄を拾い上げ、中にあるアンネの日記や紙を床に捨てました。アンネはそれを見ても何も言わず、日記を拾おうともしませんでした。

そして隠れ家に潜み住んでいた8人は町の中心にある刑務所に連れて行かれると、寝棚が並ぶ部屋に押し込まれました。部屋にはバケツがいくつもあって、それがトイレでした。

なぜ収容所に連れて行かれたの?裏切り?不注意?
誰がフランク家を裏切ったのかは、今も分かっていません。戦後に2回正式な調査があり何人かの名前が挙がりましたが、証拠はなく断定までは至りませんでした。隠れ家の人々が少しずつ気が緩み不注意になっていたのかもしれない。それに関しては真実が明らかになることは今後はないのだろうと考えます。

ヴェステルボルク収容所

ヴェステルボルク収容所

逮捕から4日後、アンネ達は他のユダヤ人と一緒にオランダ北東部にあるヴェステルボルク行きの列車に乗せられました。ヴェステルボルクは、強制輸送する囚人だちを集める終結収容所です。
ヴェステルボルクに着くと、アンネ達は尋問されました。そしてずっと隠れていた事から「罪のある」ユダヤ人とみなされて自由がほどんどない懲罰舎に入れられました。アンネの髪は短く刈られ、青いつなぎ服を着せられました。そして古い飛行機のバッテリーを解体する仕事をさせられました。とても汚い仕事で、アンネはバッテリーの埃でせき込みました。

ヴェステルボルクに来て一か月ほど経った頃、アウシュヴィッツに輸送される者のリストが出されました。1000人以上もの名前が呼び上げられ、その中にフランク家など、隠れ家に住んでいた8人も入っていました。翌日、全員が列車に詰め込まれてアウシュヴィッツに向かいました。

死の収容所~アウシュヴィッツ

アウシュヴィッツに到着すると、ユダヤ人は2グループに「選別」されました。

・左側の、まっすぐガス室に送られる者
・右側の、収容所で暮らす者 
とに。
ガス室グループに入ればすぐにガス室で殺されます。たいていは、赤ん坊や幼児・病人や老人でした。そして収容所グループに入ればとりあえずは生きられました。
アンネたちは、右側の収容所グループに入れられました。
隠れ家に住んでいた8人のうち、ファン・ペルスは1944年10月にガス室に送られました。

ヴェステルボルク収容所

 

さらに男女は別々になり、引き離される家族は泣き叫びました。アンネは、父とはそれっきり会えませんでした。
アンネたちは髪の毛を剃られ、粗末な服を与えられて、腕には番号を入れ墨された。寝起きする小屋は汚くて凍えるように寒くて、ベッドは木の寝棚でした。食べるものさえほとんどありませんでした。トイレは、穴がいくつも空いた長い台を溝の上に渡しただけでした。毎日、一日中草地を掘り起こす作業をさせれました。アンネとマルゴーは衰弱していき、疥癬(ダニが寄生して発疹ができる病気)にもおかされました。

1944年10月28日、また「選別」が行われ、アンネとマルゴーは別の収容所に送られることになりました。あとに残ったアンネの母は、1945年1月6日に亡くなりました。

フランク家の姉妹は二人きりでいることが多くて・・・見るからにひどい様子でした。手や体には一面に発疹やただれがありました。
ー生き残った囚人の話ー

次なる地獄の収容所~ベルゲン・ベルゼン

アンネとマルゴーは、600人の女性と一緒にドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に輸送されました。ベルゲン・ベルゼンに着くと、他の女性たちと一緒にテントに入れられました。ここでの生活はみじめとしか言いようがありませんでした。生きるために最低限必要な物ーーー食料や水・トイレなどは無いも同然でした。
古靴をバラバラにほどく という何の役にも立たない仕事を毎日させられました。つらい仕事で手から血が滲み、そこから病気に感染しました。シラミが伝染させる発疹チフスにかかる者も多く、高熱を出しひどい下痢に苦しみました。シャワーを浴びることはできず石鹸も薬もトイレもありません。亡くなった人の遺体は、山のようにただ積み上げられていました。

アンネの最期

1945年2月、アンネの友達のリースがベルゲン・ベルゼンに送られてきました。同じ収容所の別の場所にいた二人は、泣きながら、有刺鉄線ごしに再会しました。
アンネはリースに
アンネ
二年間隠れ家にいて、スイスには行かなかったの。今わたしがいる地区では何も食べる物がなくてツライ
と話すと、リースは、上着とビスケット、砂糖とイワシの缶詰などの包みを有刺鉄線まで持ってきてくれて投げ入れてくれました。でもそこで、他の女性がその包みを横取りしてしまったのです。
翌日の夜にリースは再び包みを有刺鉄線に投げ入れてくれ、今度はアンネが受け取ることができました。そしてリースがアンネの姿を見たのは、それが最後となりました。

 

私はみんなの役に立つか、みんなに喜びを与える人になりたい。会ったことのない人に対しても。私はずっと、死んだ後まで生き続けたい。
ー「アンネ・フランクの日記」1944年4月5日ー

 

この頃、マルゴーは赤痢にかかってひどい下痢を起こし、見る間に衰弱していきました。アンネとマルゴーは病人や瀕死の人が入れられる宿舎に移され、そこには食べ物も、水さえもありませんでした。
収容所ではチフスという、高熱や発疹を伴う細菌感染症が流行しました。アンネもマルゴーも高熱を出し、重傷のチフスで苦しみました。小屋は凍りつくように寒く、アンネは「ドアを閉めてほしい」としきりに頼みました。マルゴーは寝棚から石の床に落ち、その後、亡くなりました。服がシラミだらけになったアンネは、服を脱いで薄い毛布1枚だけにくるまっていました。そして1945年3月、アンネは姉の死から数日後にこの世を去りました。15歳でした。

「アンネの日記」の行方

隠れ家に住んでいた8人の中で唯一生き延びた父オットー・フランクは、日記を読めばつらい思い出がよみがえる。それでもアンネの日記の出版を決意しました。最初、あまりにも個人的な部分は省きましたが、あとになってそれも入れることにしました。こうして1947年に出版された「アンネの日記」は、その後も世界中で出版され続けました。

まとめ

いかがだったでしょうか。聞くに堪えないほどのつらい生涯だったアンネですが、日記の中で「死んだ後も生き続けたい」と記していたとおり、その願いは叶ったのではないでしょうか。アンネの日記は世界中の人々に読まれ、映画や演劇にもなりました。