新井白石は6代将軍・徳川家宣に仕え、間部詮房とともに幕政を主導した人物です。
5代将軍・徳川綱吉が行った生類憐み令は幕政を圧迫する結果となり、荻原重秀は改善策として貨幣改鋳を行います。しかし、結果、インフレを招くこととなりました。
新井白石はそんなインフレを改善するために、徳川家康の時代に作られた慶長金銀と同じ品質に戻した正徳金銀を作る。賄賂を受け取っていた荻原重秀を批判し辞任に追い込む。などの政策を行いました。この政策は正徳の治と呼ばれています。
新井白石はインフレの改善に努めましたが、結果デフレを招くこととなり、幕閣や譜代大名から強く非難されることとなりました。
新井白石は一体なにをした人なのか、正徳の治とはどのようなものなのか、新井白石の政策や功績についてご紹介いたします。
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目次
新井白石の生い立ち
新井白石は明暦3年(1657年)2月10日、上総久留里藩に仕えていた父・新井正済と母・森谷恵子の子供として誕生しました。
新井白石が生まれたのは明暦の大火の避難先であったとされています。
幼少の頃から学問の才能があった新井白石は、3歳にして父・新井正済が持っていた儒学の書物を書き写したとされています。
明暦の大火画像出典:Wikipedia
藩主・土屋利直から可愛がられる
学問の才能があり、聡明であった新井白石でしたが気性が激しかったとされています。
怒った際には眉間に「火」の漢字に似た皺が浮かび上がることから、上総久留里藩の藩主・土屋利直は新井白石のことを「火の子」と呼んでいました。可愛がられていたことが分かるエピソードですね。
新井白石を可愛がっていた藩主・土屋利直でしたが、新井白石が18歳の延宝3年(1675年)69歳で亡くなります。
土屋家から追放される
土屋利直の後継者として土屋利直の長男である土屋直樹が藩主を継ぐこととなりました。しかし、土屋直樹は性格に難があり、父・新井正済は1度も土屋直樹に仕えることはありませんでした。
そのため父・新井正済と新井白石は2年後の延宝5年(1677年)、土屋家を追い出されることとなります。
土屋家を追い出された新井白石は貧困の中、勉学に励みました。
大老・堀田正俊に仕える
その後、藩主・土屋直樹から改易を受け自由の身となった新井白石は、天和3年(1683年)、大老・堀田正俊に仕え始めます。
新井白石は大老・堀田正俊に仕え始めましたが、貞享元年(1684年)8月28日、堀田正俊は若年寄の美濃青野藩主・稲葉正休に刺殺されます。理由は発狂のためとされていますが、今だ分かっていません。
浪人となる
堀田正俊が刺殺されると堀田家は財政難に陥りました。そのため新井白石は自ら堀田家を退いて浪人の身となります。またもや自由の身となった新井白石は独学で儒学を学び続けました。
この間、新井白石は豪商の角倉了仁から

や
河村通顕から

などの誘いを受けていました。しかし、好意に感謝しつつもその誘いを断ったとされています。
木下順庵に入門
浪人となり独学で儒学を学んでいた新井白石は貞享3年(1686年)、朱子学者・木下順庵に入門しました。
普通入門には入学金が必要となりますが、新井白石は免除され、さらには弟子としてではなく客人として木下順庵に迎え入れられたとされています。
新井白石の他に後に学者として活躍する雨森芳洲、室鳩巣、祇園南海などが弟子としていました。
木下順庵画像出典:Wikipedia
加賀藩への仕官
師の木下順庵は新井白石の才能を見込んで加賀藩へ仕えるよう勧めます。当時、加賀藩は学問を好んでいた前田綱紀が藩主でした。学問好きな前田綱紀は学問の普及を進めていたため加賀藩は学問に盛んな藩でした。
そのような藩に仕えるよう新井白石は勧められましたが、同じく木下順庵の弟子である岡島忠四郎が

と頼み込んできたため、新井白石は岡島忠四郎にこのポストを譲りました。
甲府徳川家へ仕官
その後、元禄6年(1693年)、木下順庵は新井白石に甲府藩主である甲府徳川家に仕えるよう勧めます。
この時、新井白石は37歳でした。甲府徳川家の藩主・徳川綱豊(後の江戸幕府第6代将軍)の将来性を見込んだ新井白石は甲府徳川家に仕えることを決意しました。
徳川綱豊画像出典:Wikipedia
徳川綱吉が生類憐み令を発令
徳川綱豊に仕え始めた頃、江戸幕府の将軍は徳川綱豊の叔父である徳川綱吉でした。
徳川綱吉画像出典:Wikipedia
将軍・徳川綱吉は徳を重んずる文治政治を勧め、生類憐みの令を発布するなどの政策を行っていました。しかし世継ぎに恵まれず悩んでいたとされています。
なかなか世継ぎに恵まれない徳川綱吉は、兄・徳川綱重の子供である徳川綱豊を世継ぎとし宝永6年(1709年)1月10日、麻疹によって亡くなります。
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~生類憐みの令とは~簡単に
生類憐みの令とは天和2年(1682年)頃から始まったとされる生類を憐れんだ趣旨の政策です。
戦国時代の殺伐とした雰囲気がまだ残り、安心して暮らせる世の中ではありませんでした。それを改善しようと文治政治を勧めた徳川綱吉は儒学を教えたり、学問を広める学問所を設置したりと問題解決に力をいれました。
しかし、学問所を設置したり、儒学を広めたりするだけでは問題は解決されず、徳川綱吉は生類を憐れんだ趣旨の「生類憐みの令」を発令したのでした。
- 鷹の献上を禁止
- 将軍が御成する際は猫や犬を鎖で繋ぐ必要はない
- 貝や鳥、海老などを料理で使うことを禁止
- 野良犬に餌を与えることを禁止
- 病気になった馬を放棄してはいけない
- 病気の犬にも餌を与えなければならない
- 捨て子は養育しなければならない
- 趣味としての魚釣りを禁止
などの法令がだされました。
中には厳しい法令もあり、守れなかった者は流罪や処刑、切腹など厳しく処罰され庶民や武士に混乱を招く結果となりました。
庶民や武士に混乱を招く結果となった生類憐み令は幕府の財政を悪化させる原因となりました。
徳川家宣の側近として
徳川綱吉が亡くなり、世継ぎと指名された徳川綱豊は宝永6年(1710年)、「徳川家宣」と名を改め江戸幕府第6代将軍に就任しました。
将軍となった徳川家宣は、側用人の松平輝貞・松平忠周を解任させると儒学者・林信篤を迎えます。新井白石は職務の大半を任されることとなりました。
引き続き徳川家宣の側近となった新井白石は側用人の間部詮房らとともに実権を握ることとなり、新井白石は儒学思想を基に文治政治を推進しました。
文治政治とは儒学などの思想を用いて社会の秩序を安定させるといった政治傾向のことを言います。
一方で、文治政治に対し武力や財力で問題を解決しようとする政治傾向を武断政治といいます。
新井白石が行った正徳の治
荻原重秀が貨幣改鋳を行うも、インフレを招く
勘定吟味役の荻原重秀はこれまで財政の改善のため慶長金と呼ばれる金を回収し金銀含有率の低い元禄小判を発行しました。簡単に説明すると、金の質を落として小判を増やしたということです。
徳川家宣の代でも生類憐み令による経済の混乱を改善するため無断で宝永小判を発行し、財政の改善をすすめました。
しかし一時的に幕府の財政は改善されたものの、インフレを招く結果となります。
元禄小判画像出典:Wikipedia
インフレとは?
インフレとは物価の上昇が続くことで、通貨の価値が下がることです。例えば、今日みかん1個の価格が50円であったにも関わらず、翌日には1個の価格が100円になっている状態です。景気がよくなることでインフレは起こりやすくなります。しかし、収入が物価以上でなければ生活は苦しくなってしまいます。
荻原重秀を追放
インフレを招いた荻原重秀はこの貨幣改鋳に関して膨大な利益を収めていました。また以前から御用商人などから賄賂などを受け取っているといった悪い噂がありました。
インフレを招いたうえに、賄賂まで受け取っていたという噂を聞いた新井白石は

と批判し、将軍・徳川家宣に辞任させるよう申し出ました。しかしなかなか受け入れられず、ついには

と怒りを露にします。
これを受け徳川家宣は正徳2年(1712年)、荻原重秀を辞任させました。
貨幣改鋳を行うもデフレを招く結果に…
荻原重秀を辞任させた新井白石は荻原重秀が行ったことに対し、徳川家康の時代に作られた慶長金銀と同じ品質に戻した正徳金銀を作りました。

と新井白石は期待しましたが、急激に改鋳を行ったためにインフレに対しデフレを招いてしまいました。
世の中に流通する通貨の価値は高くなったものの、経済は低迷してしまい、不況となってしまいました。
デフレとは?
一方でインフレに対し、物価の下落が続くことで、通貨の価値が上がることをデフレといいます。例えば今日、みかん1個の価格が100円であったのに対し、翌日、1個50円となっている状態です。物価が安くなることはいいことですが、物価が安くなることで商店などの売り上げは下がり、これによって給料が払えない、解雇せざるおえないなどの状況を招くこととなります。給料カットや解雇されることによって、人々の購買意欲は低下し、そうなることで商店などの売り上げはさらに減少してしまいます。
鬼と恐れられた新井白石
インフレを改善するために行った新井白石の政策は理にかなったものでした。しかし、新井白石のやり方を大老・大老格と老中・老中格の幕閣は気に入らず、両者の間に深い溝ができてしまいます。
自分の行動に自信があり信念を貫く新井白石に対し、反対意見を言う者もいましたが、新井白石は全く気にしませんでした。そんな新井白石を幕臣たちは「鬼」と呼んでいたとされています。
政治活動から身をひく
将軍・徳川家宣が亡くなると、徳川家宣の四男・徳川家継が7代将軍となりました。
徳川家継画像出典:Wikipedia
新井白石は再び間部詮房とともに側近として政権を任されることになります。将軍となった徳川家継はまだ4歳と非常に幼く幕政は新井白石、間部詮房が主導することとなりました。
新井白石は幕政を主導しつつ、幼い徳川家継に帝王学を教えていたとされています。徳川家継は非常に聞き訳がよく、才能もありました。
徳川吉宗が将軍に
幼い将軍を守り支えていた新井白石でしたが、次第に幕閣や譜代大名の抵抗を強く受けるようになります。
将軍・徳川家継が幼くして亡くなると、徳川吉宗が8代将軍となりますが、新井白石は失脚し政治活動から身をひくこととなりました。
徳川吉宗画像出典:Wikipedia
新しく将軍となった徳川吉宗は、新井白石が将軍権威を向上すべく改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度などをことごとく覆し、また新井白石が提出していた膨大な政策資料は全て破棄しました。
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新井白石の最期
新井白石は享保2年(1717年)幕府から与えられた千駄ヶ谷の土地に隠棲し、享保10年(1725年)5月19日、69歳で亡くなりました。
新井白石の著書
新井白石は学問の才能があり
- 朱子学
- 歴史学
- 地理学
- 言語学
- 文学
などを学んでいました。
- 様々な大名の家系図をまとめた『藩翰譜』『読史余論』
- 古代史についてまとめた『古史通』
- 西洋事情をまとめた『西洋紀聞』『采覧異言』
- 回想録『折たく柴の記』
などが残されています。
新井白石が行った改革、功績のまとめ
新井白石は6代将軍・徳川家宣に仕え、間部詮房とともに幕政を主導した人物でした。
5代将軍・徳川綱吉が行った生類憐み令は幕政を圧迫する結果となり、荻原重秀は改善策として貨幣改鋳を行います。しかし、結果、インフレを招くこととなりました。
新井白石はインフレを改善するために
- 徳川家康の時代に作られた慶長金銀と同じ品質に戻した正徳金銀を作る
- 賄賂を受け取っていた荻原重秀を批判し辞任に追い込む
などを行いました。新井白石の行った政策は正徳の治と呼ばれています。
新井白石の行った正徳の治ですが、インフレを改善するつもりが結果、デフレを招く結果となりました。
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