【足利尊氏】はお人好しなお坊ちゃま!?後醍醐天皇との仲や関係にもせまります

室町幕府を開いた足利尊氏は、幕府を開いた人物にしてはちょっと変わった性格だったと伝えられています。

尊氏と同じように征夷大将軍になり、幕府を開いた源頼朝、徳川家康と比べると、どちらかというとお人好し、欲がそれほどなかったのではないか、と思われる行動が多いのが足利尊氏です。

後醍醐天皇の求めに応じて倒幕の兵を挙げ、後に後醍醐天皇と敵対した尊氏ですが、崩御した後醍醐天皇のために天龍寺を作ります。

敵である後醍醐天皇のためにお寺を作ってしまう足利尊氏。彼はどんな人物だったのでしょうか?

足利尊氏の名前は、当初足利高氏でした。後醍醐天皇から文字(尊治)をもらって尊氏となりますが、ここでは混乱を防ぐために「足利尊氏」で表記します。

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足利尊氏は性格の良いお坊ちゃま?

足利尊氏の騎馬像

出典:Wikipedia

足利尊氏は1305年、足利貞氏の次男として生まれます。元服の際に、当時執権であった北条高時の高の字をもらい、高氏と名乗ります。

兄がいましたが尊氏の元服前に亡くなっていたため、跡継ぎとして育てられます。

元服と同時に官位ももらいますが、北条一門と同格の待遇であり、足利氏が当時どれだけ重んじられていたかがわかります。

元服後幕府に出仕し、幕府内の雑用をしますが、この時に執権、内管領、御内人と雑談をすることが多く、尊氏の周りには徐々に人が多く集まるようになったと伝えられています。

人を非難したり疑うことがない、自分の意見はしっかり言う、というお坊ちゃま育ちの良い面が出る人物だったらしく、幕府内では人気がありました。

足利尊氏の性格

後に足利尊氏の命によって天龍寺建立に関わる夢窓疎石は、足利尊氏の性格をこう評しています。

無想漱石の肖像画

出典:Wikipedia

夢窓疎石
尊氏様は、「慈悲深い」、「心が広い」、「心が強く潔い」

足利尊氏はすばらしい性格に思えますよね。しかし、武士の上に立って事を成そうとすると、こういう性格も短所になってしまう場合があります。

裏切っても許してくれる

部下の武士
尊氏様を裏切った武将が降参してくると許してしまう。これでは示しがつかないではないか。

慈悲深いために、裏切った武将でも許してしまいます。 裏切っても許されるんだし、有利なところに味方しよう 、と考えていた武将もいるかもしれません。

褒美を出し過ぎて大混乱

部下の武士
気前よく褒美をあげるのはいいが、別の人に褒美としてあげた領地を、また別の人の褒美にしてしまう。大混乱だ。

気前よく褒美を分け与えても、その褒美の領地が重なっていると後になって争いの種です。

そう簡単に死んでもらっては部下が困ります

部下の武士
戦で危機が訪れると、すぐに自害しようとする、潔いのはわかるが、やりすぎだろ

心が強いことから、戦では先頭で戦ったそうです。しかし、危機になるとすぐに「自害する」と言っていたため、周囲の部下を困らせました。

尊氏は、周囲に気は使うがその場だけ、後のことはあまり考えないのかもしれません。深く考えずに行動していたような感じです。そしていろいろ無頓着で、すぐに投げ出す傾向もあったのではないでしょうか。

友達としてはいいかもしれませんが、一緒に仕事をするとなったら大変かもしれませんね。

後醍醐天皇との関係

そんな足利尊氏と後醍醐天皇の関係はどうだったのでしょうか?

後醍醐天皇は鎌倉幕府倒幕の時には、武士の中で有力だった足利氏を頼りにしており、 その棟梁である足利尊氏にはかなり信頼を寄せていました。

一方で尊氏は、鎌倉幕府を倒すという目的は後醍醐天皇と一致していましたが、倒幕後は自分がある程度日本を仕切るつもりだったようです。

そんな目的の微妙な違いから、尊氏と後醍醐天皇は北朝と南朝として戦うことになったのですが、その戦いの間でも尊氏は後醍醐天皇に対しては敬意をもっていた形跡があります。

尊氏は、後醍醐天皇の名前である”尊治”の尊の字をもらって高氏から尊氏に改名しました。

南北朝の戦いが始まった後も、 尊氏は名前を変えることなく、敵である後醍醐天皇からもらった尊氏という名で戦い続けました。

そして、後醍醐天皇との対立が明確になると、 それに悩んで出家しようとします (ここも潔いですね)。後醍醐天皇を敵にする、ということについてかなり悩んだようです。

最後に、後醍醐天皇が崩御した後、 天龍寺を建立して菩提を弔いました

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まとめ

天下統一をした、あるいは目指した人物というと、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などが挙がります。

足利尊氏もその中の1人に数えられるのですが、どうも他の人とは違った性質を持っていたようです。

室町幕府成立後も、政治権力のかなりの部分を弟の直義に与えます。結果的にこれが、観応の擾乱を引き起こし、南北朝の争いと絡み合って複雑な時代を生み出してしまいます。

優柔不断なのか、細かいことを考えないのか、深く考えない人なのか、とにかく天下人にはちょっと向かない性格ではないでしょうか。

それでも、後醍醐天皇に対する敬意はずっと持ち続けていたようです。ここは律儀な面がうかがえます。天皇と武士の関係については、きちんとわきまえていたのかもしれません。

とはいえ、天皇、または朝廷に対する態度を織田信長、徳川家康と比べると、やや正直過ぎる部分もあるように感じられます。

もしかするとこういう性格の尊氏が作り上げた時代だからこそ、後の応仁の乱から戦国時代への流れが生まれ、いろいろな価値観が日本に生まれたのかもしれません。

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