【伊達政宗】を愛した正室・側室の存在!右目を失くした原因も探ります

右目を失ったことから「独眼竜」の異名を持つ伊達政宗。眼帯をつけた姿をイメージされる方が多いかと思いますが、実は眼帯をつけていたという記録は残されていません。

彼の人生は一体どのようなものだったのでしょうか。今回は右目を失った理由や正室・愛姫と側室の存在、そして死因についてご紹介いたします。

 

伊達政宗の生い立ち

永禄10年(1567年)8月3日、伊達政宗は出羽国(現在の山形県)米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である義姫(最上義守の娘)の嫡男として誕生しました。

伊達輝宗画像出典:Wikipedia

 

右目を失う

伊達政宗は幼少期に天然痘を患ったとされ、それによって右目の視力を失い単眼となりました。このことから後世「独眼竜」と呼ばれるようになります。

 

元服を迎える

幼いころは梵天丸と呼ばれていましたが、天正5年(1577年)11月15日に元服し「伊達藤次郎政宗」と名乗り始めるようになります。

 

13歳で正室を迎える

そして天正7年(1579年)、13歳となった伊達政宗は当時12歳であった三春城主・田村清顕の娘である愛姫正室迎えたのでした。

愛姫愛姫の肖像画画像出典:Wikipedia

 

伊達家の当主となる

正室を迎えた2年後の天正9年(1581年)4月、伊達政宗は戦国大名・相馬氏との戦で初陣を飾ります。ちょうど伊達政宗が初陣を飾ったこの年、織田信長は明智光秀の謀反(本能寺の変)によって命を落としました。

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初陣を飾ったこの頃から、伊達政宗は父・輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を務めていたとされています。

天正12年(1584年)10月、伊達政宗の父・輝宗が隠居します。これによって、嫡男である伊達政宗は伊達家第17代当主となりました。この時、伊達政宗は18歳と若くまだ未熟であると感じた伊達政宗は、自ら辞退を申し出たとされています。しかし、重臣たちの勧めもあり、当主となったのでした。

伊達政宗
まだ若いので当主にはなれないです…。

 

伊達氏と蘆名氏の和睦を解消

伊達政宗が当主となったこの頃、田村氏に支配されていた小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継とともに田村氏の支配から離脱していました。その後、 小浜城主・大内定綱は蘆名氏に、大内氏、畠山氏を支配していた田村氏は伊達氏 に支援を求めます。

大内定綱
蘆名氏、助けてくれないか…。
田村氏
伊達氏、支援をお願いします。

このような状況下で、もともと伊達氏と同盟を結んでいた蘆名盛隆は畠山義継とともに伊達政宗、伊達輝宗に田村氏と大内氏の和睦の仲介を持ちかけたのでした。これに対し、父・輝宗は和睦の仲介を積極的に行おうとしますが、伊達家の当主となった伊達政宗は和睦の仲介役を行うことを拒否したのです。

伊達政宗
和睦の仲介をするのは嫌です!

結局、田村氏と大内氏の和睦は成立せず、そしてこれを機に、長くに続いた伊達氏と蘆名氏の同盟も解消されることとなったのでした。

 

大内氏、畠山氏を攻撃

その後、伊達政宗は田村氏の支配から離脱した小浜城主の大内定綱に対し、伊達氏に従うよう迫ります。しかし、大内定綱はこれを拒否したのでした。

その後、父・輝宗は大内定綱に対し、田村氏の傘下に戻るよう勧めましたが、大内定綱はこれも拒否。これを受け、伊達政宗は大内定綱の討伐を決意し、天正13年(1585年)5月、蘆名領檜原を攻め、8月には大内領小手森城に攻撃をしかけるのでした。

その後、伊達政宗は大内定綱との間に婚姻関係のある畠山氏にも攻撃をしかけます。大内定綱の敗北を間近で見ていた畠山義継は父・輝宗に降伏をしました。これを受けた父・輝宗は畠山氏の処分を軽くするも、畠山氏の領地は大幅に減らされることとなりました。

 

父・輝宗を殺害

処分を軽くしてもらえた畠山義継は、その後、処分を軽くしてもらえたお礼として輝宗のもとを訪れました。畠山義継からの礼を受け、畠山義継を見送った輝宗でしたが、なんとそのまま畠山義継に拉致されてしまいます。

ちょうど、この時、伊達政宗は鷹狩りに出ていました。父の輝宗が畠山義継に拉致されたということを知った伊達政宗はすぐさま畠山義継を追跡します。ようやく畠山義継と輝宗に追いついた伊達政宗。

伊達政宗は持参していた鉄砲で畠山勢を攻撃します。この時、人質となっていた父・輝宗も鉄砲の玉にあたってしまい命を落とすのでした。

人質となり不運な最期を迎えた伊達政宗の父・輝宗ですが、伊達政宗は鷹狩り中であったにも関わらず鉄砲を持参していたことから、伊達政宗はもともと父・輝宗の殺害を計画していたのではないか?といった解釈もなされています。

 

南奥州の覇者となる

父・輝宗が亡くなると、その後も弔い合戦として伊達政宗は畠山義継の二本松城を攻撃しました。結局、畠山氏との戦いは和睦をきっかけに幕を閉じることとなりました。その後も伊達氏は合戦続きの日々を送ることとなります。

天正17年(1589年)5月から6月にかけて伊達氏の最大のライバルでもある蘆名氏との間で摺上原の戦いが始まります。激戦の末、伊達氏の勝利に終わり、最大のライバルであった蘆名氏は滅亡となりました。

伊達家の当主となり6年、数々の戦を経て伊達政宗は南奥州の覇者となっていました。しかし、伊達政宗は南奥州を支配するだけにはとどまらず関東地方にも目を向けていたのです。

 

豊臣秀吉の要求

関東地方へと進撃を開始しようとしていた伊達政宗。

しかし、ちょうど伊達政宗と同じくして豊臣秀吉が全国制覇を成し遂げようとしていました。この時、豊臣秀吉の臣下となっていないのは 伊達氏北条氏のみでした。そのため豊臣秀吉は伊達政宗に対し、上洛し臣下になるよう勧めます。

豊臣秀吉
上洛して、わしに仕えないか?

豊臣秀吉に臣下になるよう勧められた伊達政宗でしたが、同じく全国制覇を目指しているため豊臣秀吉の要求を簡単にのるはずがありません。しかし、豊臣秀吉はすでに関白という立場でしたので強く否定することはできませんでした。

そのため同じく豊臣秀吉に臣下になるよう勧められている北条氏の動きを見ながら判断しようとしていました。

豊臣秀吉豊臣秀吉肖像画画像出典:Wikipedia

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小田原征伐に参加

そんな中、天正17年(1589年)11月。北条氏が真田領に侵攻したとして豊臣秀吉が北条氏の討伐を決意します。

もともと北条氏と同盟関係のあった伊達政宗は、北条氏に味方すべきか、それとも豊臣秀吉とともに戦うべきか直前まで悩むこととなりました。

結局、北条氏の討伐である小田原征伐が始まってしまったのです。天正18年(1590年)5月、伊達政宗は迷いに迷い、豊臣秀吉に味方し小田原征伐に参戦することとなります。この際、伊達政宗は同盟関係である北条氏に味方するべきか、それとも豊臣秀吉に味方するべきか非常に悩んでいたとされ、家臣たちに何度も相談していたとされています。

天正18年(1590年)7月5日、小田原城は落城を迎え、豊臣秀吉の勝利に終わりました。北条氏を破った豊臣秀吉はこれによって全国制覇を成し遂げることとなったのでした。

 

豊臣政権下で活躍

その後も豊臣政権下で活躍した伊達政宗。文禄2年(1593年)豊臣秀吉による文禄の役にも従軍します。

文禄の役とは全国制覇を果たした豊臣秀吉が隣国である朝鮮に対し日本への属国を求めるも返答はされず、それに伴い朝鮮で繰り広げられた戦です。

 

流行ファッションの火付け役

文禄の役の際、伊達政宗や伊達軍が着ていた戦装束は非常に派手な物であったとされ、伊達軍の戦装束は庶民の間で大変な人気となりました。

京都では伊達軍の戦装束を真似する者が現れ、このような派手な服装をする若者は「伊達者」と呼ばれていたとされています。伊達政宗が身に着けていた戦装束は流行ファッションとなっていたのです。

 

豊臣秀吉亡き後

文禄の役が終わると、伊達政宗は京都で過ごしていました。

もともと、豊臣秀吉に早くから服従していなかった伊達政宗でしたので、豊臣政権では重く用いられることはなかったとされています。

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が62歳で亡くなります。豊臣秀吉は生前、大名同士が勝手に婚姻関係を結ぶことを禁じていました。しかし、伊達政宗は豊臣秀吉が亡くなった翌年、いち早く自身の長女・五郎八姫と徳川家康の六男・松平忠輝を婚約させたのでした。

もともと豊臣政権下で重く用いられなかった伊達政宗は、豊臣秀吉の死後、素早く徳川家康との関係強化に乗り出したのです。

五郎八姫画像出典:Wikipedia

 

天下分け目の戦い、関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)9月。関ヶ原の戦いがはじまります。この戦いは豊臣秀吉亡き後の政権を巡って石田三成率いる西軍徳川家康率いる東軍との間で行われた戦いです。

伊達政宗は直接、関ヶ原で合戦を行ったわけではありませんが、奥州で西軍である上杉景勝の足止めを行うなど、徳川家康のサポートを行いました。

徳川家康画像出典:Wikipedia

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国作りと外交に励む

関ヶ原の戦いは東軍・徳川家康の勝利に終わり、伊達政宗はその後、徳川家康から居城を得て仙台へと移りました。慶長6年(1601年)、仙台に城と城下町を建設した伊達政宗。これによって仙台藩が誕生したのです。

仙台で国作りを始めた伊達政宗。しかしそれだけではなく外交にも目を向け、エスパーニャとの通商を計画し慶長18年(1613年)、領内でガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造します。

その後、伊達政宗はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使家臣の支倉常長を副使として180人余りをメキシコ、およびローマへと派遣しました。派遣された使節は慶長遣欧使節と呼ばれています。

しかし伊達政宗の外交政策は徳川家康が行った禁教(キリスト教の信仰を禁止すること)や鎖国(キリスト教国との交通、貿易を禁止すること)によって思うようには進みませんでした。

支倉常長画像出典:Wikipedia

 

伊達政宗の最期と死因

慶長19年(1614年)に起きた大阪冬の陣に伊達政宗は参戦しましたが、特に大きな功績を残すことはありませんでした。

大阪夏の陣を迎え、豊臣家が滅亡すると世情は落ち着きを取り戻します。伊達政宗は領国・仙台の開発にもっぱら力をいれていたとされています。

2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光まで徳川家に仕えていた伊達政宗でしたが、江戸へと参勤交代の最中、体調を崩し寛永13年(1636年)5月24日、70歳で亡くなりました。死因は癌性腹膜炎または食道癌であったと考えられています。

 

伊達政宗の正室と側室

伊達政宗は13歳で12歳の愛姫(三春城主・田村清顕の1人娘)を正室に迎えました。

しかし、伊達政宗は自身の暗殺未遂事件に愛姫の実家である田村家の人間が関わっているとして愛姫の乳母を殺害します。他にも愛姫の身の回りの世話をする侍女たちが伊達政宗によって殺害されてしまったため、伊達政宗と愛姫は一時不仲になったとされています。

その後、伊達政宗と愛姫の中は修復に向かったとされ、2人の間には

五郎八姫(後に松平忠輝の正室となる)

忠宗(後の仙台藩2代藩主)

宗綱

竹松丸

4人の子供が誕生しています。

慶長18年(1613年)、越前にいた伊達政宗が愛姫に送った手紙には季節のことや、美しい花や木々のこと、また「枕草子」や「徒然草」を引用した文章などが綴られており、夫婦仲は良好であったことが分かります。

 

伊達政宗の側室たち

伊達政宗は正室・愛姫の他に

新造の方(飯坂城主・飯坂宗康の二女)

飯坂の局(飯坂城主・飯坂右近宗康の次女)

於山方(四保宗義の娘)

荘厳院(柴田信恒の娘)

勝女

妙伴(村上政重の娘)

祥光院

と少なくとも7人の側室に迎えました。

伊達政宗は生涯、10男4女の子を儲けました。

 

右目をなくした理由

伊達政宗は幼少期に天然痘を患い右目の視力を失いました。

視力を失った右目は白く濁っており、伊達政宗は外見を気にしていたとされています。そのため今でも残されている肖像画には生前の伊達政宗の希望に従い右目を黒く描いたものが存在しています。

たびたび、映画やドラマ、ゲームなどに登場する伊達政宗は右目を眼帯などで覆っていることが多いですが、実は右目を眼帯などで覆っていたといった記録は残されていません。伊達政宗が右目を眼帯で覆うようになったのは1942年に放送されたの映画『獨眼龍政宗』からだとされています。

 

まとめ

家督を継いだ6年後には南奥州を制覇していた伊達政宗。その後、豊臣政権下で活躍した伊達政宗でしたが、豊臣秀吉亡き後は徳川家康に従うようになります。

晩年は領国の整備、開発の他、エスパーニャとの通商を計画していました。しかし、江戸幕府による禁教や鎖国によってその夢は途絶えることとなってしまいます。

「独眼竜」と呼ばれた伊達政宗の生涯や右目を失った理由、正室と側室の存在についてご紹介いたしました。

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