地球は丸い【ガリレオガリレイ】は地動説を支持し裁判所行きに!?性格や死因まで解説まとめ

ガリレオ・ガリレイとは、振り子の等時性を発見したり、地動説を唱えたりと、物理学・天文学の分野において現代科学の礎を築き多くの功績を遺した偉人です。彼の発した「それでも地球は動いている」という名言を記憶している方は多いのではないのでしょうか?

ガリレオの提唱した「地球は太陽の周りをまわっている」という事実(地動説)は今では当たり前のことですが、このような発言をしたために教会から異端とみなされ、処刑までは免れたものの、宗教裁判をかけられることとなりました。
(記事中で触れていますが、この地動説、最初に提唱したのはガリレオではなくニコラウス・コペルニクスという人物です。)

この記事では、彼の性格や死因、そして地動説ピサの斜塔での実験のエピソードなど、ガリレオ・ガリレイの遺した功績を紹介していきます。

天才物理学者 ガリレオ・ガリレイの生い立ち

幼少期のガリレオ・ガリレイ

1546年2月15日、イタリアの北西部にあるピサにてガリレオ・ガリレイは産まれました。ガリレオには二人の妹と弟がおり、父のビンチェンツィオ・ガリレイは音楽の教師をしていました。
一家は裕福ではありませんでしたが、ガリレオは小さい頃から学ぶことが好きで探求心の強い性格だったので、早くから家庭教師につきました。

1574年に一家はフィレンツェに移り、ガリレオはヴァロンブローサの近くの聖マリア修道院に教えを受けました。

ガリレオ・ガリレイの功績・発見

振り子の等時性の発見~ピサの大聖堂にて

この振り子装置は時間を計るもので、ガリレオの亡くなる前年に考案されたものです。

1581年、ガリレオはピサ大学で医学を学び始めました。ガリレオは何となく将来は医者になろうと思っていただけだったので、医学への興味は深まりませんでした。

1581年のある日、ガリレオはピサの大聖堂にて、天井から長い鎖で吊り下げられたランプを見ていたという話はよく知られています。ガリレオは大きな古い建物の中でランプが揺れているのを見ていて、大きく揺れる時もほんのちょっと揺れる時も、1往復の時間が同じである事を観測しました。
最初は自分の脈拍を使って、揺れの時間を計っていたそうです。(後に、実験によってもっと正確に測定をしました)この結果はガリレオの全く予想しないことでした。

振り子の中心点から振り子が振れる端までの振幅が大きくても、小さくても関係ない。つまり「振り子の等時性」というのは、周期が同じであるということをガリレオは1583年に発見しました。ガリレオが発見したこの「振り子の等時性」その後大きな機械式時計などに応用されるようになりました。

数学教授になったガリレオ~ピサの斜塔での実験

ピサの斜塔は1270年頃完成しました。55mの高さがあるので、低い側からボールを落とすと、地面まで3秒ほどかかります。

ガリレオは3年間ピサにいました。その間に、ガリレオは物体の運動について論文を書きました。物体が落下する時や、斜面を転がり落ちる時にどのように速さを増すかを研究しました。ガリレオは常に実物を使って実験をし、実験の度に距離を測定し、時間を計り、そして数学的に計算して結果をだしました。

そしてガリレオは、

ガリレオ
物体の落下速度は、その物体の重さに関係なく一定である
という事を導き出しました。

ガリレオは自身のその新しい考えを証明するために、ピサの斜塔に登ったといわれています。教授や学生たちの見守る中で、彼は重さの異なる2つのボールを落としました。これまでの考えでは、思いボールが先に地面に届くはずでした。
しかし、2つのボールは同時に地面に落ちました。
それでもなお、教授たちはガリレオの意見に耳を傾けようとはしませんでした。彼らはガリレオに反対し、ガリレオを苦しめました。

その後ガリレオは教授達との争いが大きくならないように、1592年にヴェネチア近くのパドヴァ大学に数学教授として移りました。そこでは研究者たちは自由に考えを述べる事ができました。

地動説の提唱

ニコラウス・コペルニクスによる地動説

ニコラウス・コペルニクス

1597年頃、ガリレオはポーランドの天文学者で50年以上も前に亡くなった「ニコラウス・コペルニクス」の研究を読みました。コペルニクスは、地球や他の惑星が太陽の周りを回るということを示していました。これは地球の周りをすべてが回るという当時の考え方と全く異なっていました。

当時は、球は宇宙の中心にあり静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているとする説が広く信じられていたのです。
これを天動説」といいます。

ガリレオは、惑星の運動に関する自分の観測結果とコペルニクスの地動説はよく合っているし、また海の潮の満ち干(みちひ)についての彼の理論をもよく説明していることに気づきました。ガリレオは、潮の満ち干の周期が月と太陽の両方の運動に関係していることを観測していました。

天動説と地動説についてもう少し詳しく
【天動説】

紀元130年頃ギリシャの天文学者プトレマイオスは、アリストテレスの研究を発展させ、地球・月・太陽そして他の惑星がお互いに関連しながらどのように動いているかを表しました。彼は、地球が中心で動くことなく、他の天体が地球の周りを円を描いて動いていると信じていました。
【地動説】
コペルニクスの考えは、地球は止まっているのではなく、一日に一回自転し、また太陽の周りを他の惑星と共に公転している というものです。つまり太陽が中心にあるという考え方です。
この地動説(太陽中心説)が正しいという事をその後も他の天文学者が証明してきました。

ガリレオが提唱した地動説

先述の通り、初めて地動説を提唱したのはコペルニクスです。ガリレオは、地動説を最初に提唱したわけではなく、あくまで地動説に有利な証拠を多く見つけた人物ということになります。

代表的なものは「木星の周囲を回る月の発見」です。もし地球が動くなら月は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にする画期的な発見でした。
また、ガリレオは金星の満ち欠けも観測しました。これは、地球と金星の距離が変化していることを示すものでした。
さらにガリレオは太陽黒点も観測し、太陽もまた自転していることを示しました。

ガリレオはこれらを論文で発表しました。これらはすべて、地動説に有利な証拠となりました。

ガリレオはなぜ宗教裁判にまでかけられたのか

ガリレオ・ガリレイ

教会とのトラブル~クリスチナ大公妃への書簡

17世紀のイタリアでは教会の力は強大でした。教会の教えを受け入れない人々は異端者とみられ、罰を受ける時代でした。ガリレオは、教会が天動説を信じている以上、彼の天文に関する見解がトラブルの元になるだろうと思いました。

それで1615年、ガリレオは自身の考えを守るために「クリスチナ大公妃」へ手紙を書きました。これは「クリスチナ大公妃への書簡」として知られているもので、「科学者は考えや意見を自由に述べることができ、学説を証明したり否定したりする実験ができるべき」だと訴えた内容になります。

しかし書簡は役に立ちませんでした。1616年に教会の異端審問所はガリレオに対し

教会の関係者
今後二度とコペルニクスを支持する発言を口にしたり書いたりしないこと!

と命令したのです。これに反すれば監獄ゆきだと言い渡しました。

ガリレオは物言いが強く、敵を作りやすい性格でした。ガリレオは自分が批判されたときの反論として、相手を完膚なきまでに徹底的に攻撃し論破してしまうタイプだったのです。教会でのトラブルの論点は科学と宗教の対立なのですが、ガリレオという人物そのものが、地動説への反発を余計に招いていた面ももしかしたらあるのかもしれませんね。

二大世界体系についての対話(天文対話)

フィレンツェに戻ったガリレオは、物理学の研究を続けました。1623年には、彼の昔からの友人である「マッフェオ・バルベリーニ」が法王ウルバヌス8世となりました。バルベリーニはガリレオに

バルベリーニ
天文学の古い理論と新しい理論を比較したバランスの取れた本を書くように

と勧めました。これが「二大世界体系についての対話(天文対話)」です。
この天文対話は教会の権威者によって承認されたものでした。出版されると、ヨーロッパ中の科学者や哲学者が素晴らしい本だと歓迎しました。

しかし、じきにその本はバランスが取れていないという事が明らかになりました。ガリレオは、科学的な証拠はコペルニクスの太陽中心説(地動説)を支持していると決めていたのです。

ガリレオ 終身禁固を言い渡される

1633年2月、ガリレオは再び裁判のためにローマに呼び出されました。「異端の疑いが濃い」として起訴されたのです。
以前は友人であった法王ウルバヌス8世はこの時はもう敵でした。ガリレオは1616年に教会から言い渡された、「二度とコペルニクスを支持しないこと」という約束を破った事で告発されました。

ガリレオは、

ここに名前を入れる 
科学的な観測結果や事実は無視できるものではない
と強く自己弁護しましたが、自身の年齢(この時70歳。高齢でした)や、拷問の恐れもあり、最後には行き過ぎた言動があったことを認めざるを得ませんでした。

ガリレオを出版した本は全て発行禁止になり、「天文対話」は焼き捨てるよう命令されました。そして「終身禁固」を言い渡されました。

それでも地球は動いている!
裁判で「異端の可能性が濃い」として起訴されることになった証拠として、彼が前回1616年に出廷した時に約束した確認書がありました。しかし驚く事に、それはガリレオ自身が知らないもので、内容が書き換えられたものでした。

ガリレオは自分が間違っていたことを認める文書を読み上げ、そしてコペルニクスの説は誤りであると無理やり、強制的に述べさせられました。そして最後にこうつぶやいたと言われています。
「それでも地球は動いている。」

ガリレオの晩年・死因

自宅で監禁される

終身禁固を言い渡されたガリレオでしたが、すぐに法王により、自宅での監禁に切り替えられました。1633年12月、ガリレオはフィレンツェの近くの丘にあるアルチェトリ荘の自宅に帰りました。この家での生活が、彼の残りの生涯の監獄となったわけです。

この自宅監禁で彼は欲求不満に陥ったに違いありません。晩年になり健康がすぐれなくなってきても、家を出てフィレンツェの病院に行くことすら許されることはありませんでした。

最期の時~死因はなんだったのか

高齢のガリレオは、ついに目が見えなくなってしまいました。しかしまだまだやるべき事はたくさんあり、意欲も衰えませんでした。研究を続けながら、ガリレオの自宅での監禁を解いて自由を得るための試みは何回か行われましたが成功しませんでした。

そして1642年1月8日、ガリレオはアルチェトリ荘で亡くなりました。彼は死刑を受けたのではないので病死です。発熱・動機があり寝床についていた最中に息を引き取りました。

科学界にもファンの多いガリレオですが、彼の大ファンのひとりであるアルバート・アインシュタインは彼についてこう語っていました。
【そして、論理のみでたどりつく主張は、現実に対して完全に無意味である。ガリレオはこの考えを理解して、初めてこれを科学界にもたらした。そしてこのために、彼は現代物理学の父、いやむしろあらゆる現代科学の父なのである】