隠岐へ島流し【後醍醐天皇】とは?「建武の新政」についても解説

鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活させた後醍醐天皇。2度の統幕計画失敗、島流し、2度の廃位、足利尊氏の離反など、何度も窮地に追い込まれますが、粘り強く戦い続けます。歴史上、カリスマ性を持つ天皇は何人かいますが、その中でも高いカリスマ性を持った後醍醐天皇。なぜ何度も窮地に追い込まれながらも粘り強く戦えたのでしょうか?

ここでは、島流しの場所、そこからどうやって脱出して倒幕を行ったのか、そして天皇親政の復活による建武の新政はどんな政治?倒幕の大きな力となった足利尊氏との関係は?を解説します。

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後醍醐天皇が即位するまで

後醍醐天皇の肖像画

出典:Wikipedia

後醍醐天皇は、大覚寺統である後宇多天皇の第二皇子として生まれました。当時皇室は、大覚寺統と持明院統の2つに分かれており、幕府の裁定によって、2つの派閥が交代で天皇に即位することになっていました。

後醍醐天皇の兄、大覚寺統の後二条天皇は在位7年で崩御したため、後二条天皇の子、邦良親王はまだ幼く、後二条天皇の後を継いだ持明院統の花園天皇の後のめどが立ちませんでした。そのため、邦良親王が成人するまでの中継ぎとして、後二条天皇の弟、後醍醐天皇が誕生したのです。

倒幕計画の相次ぐ失敗

後醍醐天皇は次に予定されている天皇までの中継ぎ、として即位しました。この後醍醐天皇が中継ぎであることは鎌倉幕府が認めており、後醍醐天皇は自分の子に皇位を譲れないことで、幕府への反感を募らせていきます。

日野資朝らと計画した最初の倒幕計画は、鎌倉幕府に察知されます。この時、幕府によって倒幕計画に加担した者は処罰されます。しかし後醍醐天皇は処罰されませんでした。(正中の変)後醍醐天皇は再度倒幕計画を立てます。

しかし、側近の密告によってまた幕府に知られてしまいます。後醍醐天皇は京を脱出し、兵を挙げて笠置山(京都府)に立てこもりますが、幕府軍によって落城し、捕らえられてしまいます。

隠岐の島への島流し、そして脱出(島流しの場所について)

後醍醐天皇が流された隠岐の島

出典:Wikipedia

2度目の倒幕計画ではさすがに幕府も許してくれません。後醍醐天皇は廃位され(後任は光厳天皇)、隠岐の島に島流しとなります。天皇の座を追われ、島流しとなった後醍醐天皇の倒幕計画はこれで終わったと思われましたが、世の中の流れが後醍醐天皇に味方をします。

相次ぐ倒幕の挙兵

この時期、 後醍醐天皇以外にも倒幕を目指す挙兵が相次いでいました。後醍醐天皇の皇子護良親王、楠木正成、赤松則村らが倒幕の兵を挙げて活動します。彼らだけでなく、全国各地で反幕府の挙兵が相次ぎ、時代の流れが後醍醐天皇に向き始めます。後醍醐天皇はこのチャンスを逃しませんでした。

隠岐の島脱出、そして挙兵

隠岐の島の後醍醐天皇は、名和長年の協力を得て隠岐の島を脱出します。名和一族は海運業をしており、その船の一艘にかくまってもらって島を脱出、そして名和長年と共に船上山(鳥取県)で挙兵します。鎌倉幕府はそれに対し、源氏一族の中で最大勢力を誇っていた足利高氏(後の足利尊氏)を追討に差し向けます。

各国の武士、後醍醐天皇方に

京付近まで進軍した足利高氏は幕府に反旗を翻し、反幕府勢力を統合して、鎌倉幕府の西国最大の軍事拠点、六波羅探題を攻め滅ぼします。ほぼ同時に東国で倒幕の挙兵をした新田義貞は、鎌倉を攻略し、北条氏を滅ぼします。

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建武の新政-足利尊氏との関係に

京都に戻った後醍醐天皇は、鎌倉幕府による光厳天皇の即位を否定します。つまり、自分がずっと天皇の地位にいた、と宣言します。そして、自らが中心となって政治を行う、建武の新政をスタートさせます。

天皇親政

後醍醐天皇はまず、幕府というシステムを否定します。これによって 建武の新政のもとでは、武家政権を作ることができなくなります武士は天皇の下ということをはっきりさせました。さらに 摂関(摂政、関白)を廃止します。 藤原氏が握って政治を動かしたこのポストを廃止したことによって、天皇が直接的な政治を行うシステムができあがります。

このシステムは、中国の皇帝が直接政治を行うシステムと似ています。後醍醐天皇は権力のほとんどを天皇に集中させたのです。

親政とは、君主(国王、皇帝、天皇)が直接政治を行うことです。この場合、摂政や関白、内閣などは置かれず、全ての政治的決定は君主によって行われます。ここで注意です、建武の新政は天皇親政を目指したものです。しかし、建武の”新政”であって、”であって、建武の”親政”ではありません。(

建武の新政崩壊

大改革をしようとした後醍醐天皇による建武の新政ですが、急ぎすぎた改革はあちこちで無理が生まれます。政策が何度も変更される、不公平な恩賞、訴訟への対応など、不満はあっという間にたまります。武士の不満がたまり始めると、貴族は政権に対して距離を置き始めます。そんな時、北条の残党による反乱が東国で起き、鎌倉が反乱軍に占領されてしまいます。

中先代の乱と呼ばれるこの反乱は、鎌倉幕府最後の執権である北条高時の遺児、
北条高時と諏訪頼重らが起こした乱です。諏訪頼重は、建武の新政によって信濃守護に任じられた小笠原貞宗と対立し、建武の新政への不満を持っていました。

この乱の鎮圧の為に足利尊氏(高氏から改名)が鎌倉に向かい、北条時行らを討ちとります。そして鎌倉で後醍醐天皇に対して兵を挙げ、京都に進軍を始めます。いったんは後醍醐天皇方が勝利し、尊氏軍は九州に落ちのびます。

そこで勢力を盛り返し、再び京を目指します。各地で後醍醐天皇方を破った尊氏は、新田・楠木連合軍を湊川で破ります。この結果、楠木正成が自害、尊氏軍は京に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れます。その後、後醍醐天皇は京都の花山院に幽閉され、光明天皇が擁立されます。

後醍醐天皇脱出、南朝の成立

幽閉されていた後醍醐天皇ですが、夜間に女房姿で変装して花山院を脱出します。脱出した後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、自分こそが正当な天皇であるとして朝廷を作ります。これが「南朝」です。

後醍醐天皇は自分の子供達を、北陸、九州、奥州、関東に送り込み、南朝勢力を拡大しようとします。ここに京都の「北朝」、吉野の「南朝」という2つの朝廷が並ぶ、南北朝時代が幕を開けたのです。
その後すぐ後醍醐天皇は病に倒れます。奥州から戻ってきた義良親王に天皇の位を譲り(後村上天皇)、崩御しました。

まとめ

天皇が武士を従えるという政治システムを追いかけ、何度も復活した後醍醐天皇は、最後は南朝を作り上げて崩御しました。南朝は、全国を統一することはできませんでしたが、武家主導の北朝とこの後、長い期間戦い続けます。
後醍醐天皇が夢見た、天皇が軍事力を持ち、その決定権を持つという政治システムは、明治維新で確立されるまで待たなければなりませんでした。

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