【後三条天皇】摂関政治から院政へ移行のエピソードついてわかりやすく解説!

後三条天皇は、藤原氏による摂関政治に終止符を打ち、院政を行うことで皇族に政治権力を集中させようとしました。非常に有能な天皇として知られています。が、実は行った政策はそれほどよく知られていません。後三条天皇によって終止符が打たれた摂関政治は、その後復活することなく時代が流れていきますが、これには後三条天皇が行った政策による効果が大きかったと言われています。

この記事では、後三条天皇の行った政策と、そのエピソードについて解説します。

後三条天皇肖像画

出典:Wikipedia

後三条天皇の政策

後三条天皇は延久新政と言われる政治の改革を行いました。この政治改革には、過去に大きな業績を挙げた天皇に対する憧れがありました。

桓武天皇を手本とした政策

後三条天皇は、強い親政によって平安京への遷都、蝦夷の平定、最澄の唐への派遣などを推し進めた桓武天皇を手本として政策を行いました。まずは東北地方の平定です。桓武天皇の時代にも行われ、一定の結果を生んだ東北平定を、自分の代で完了させようとしたのです。

この時期に東北地方で行われた戦いは、前九年の役と後三年の役が有名ですが、この2つの戦いの間に延久蝦夷合戦という戦いがあります。この戦いの結果は諸説ありますが、結果として本州全土が朝廷によって統一されることとなりました。

つまり、津軽海峡が日本の統治が及ぶ範囲の北端となったのです。北海道はその時代はアイヌのもので、日本人が北海道に進出するのはまだ先のことです。

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摂関家の力を削ぐ

摂関家の財力は、各地に所有する荘園からの収益に依存していました。後三条天皇は、荘園整理令を出し、荘園を摂関家から没収することで財力を削ごうとします。

これには別の目的もあり、摂関家の荘園を整理することによって皇室の領地を増やし、天皇の経済的基盤を充実させようとしました。この荘園整理令は、摂関家の財力削減にすぐに効果があったという説と、それほどでもなかったという説があります。しかし、これ以降、朝廷は時々荘園整理令を出すことによって、最終的には摂関家の力を削減することに成功します。

一つの見方として、摂関家が以前と同じ財力を持っていたとしたら、その財力で自前の武士団を形成することができ、日本歴史が変わっていた可能性があるとされています。

また、摂関家だけでなく寺社領も整理の対象となりました。石清水八幡宮、興福寺などはかなりの荘園を没収され、力が弱まることになります。後三条天皇は、これによって整理された荘園を天皇の領地に組み入れると共に、中級貴族に与え、政治的な支持基盤を固めていきました。

ものを測る基準の統一

また、荘園整理令と共に、後三条天皇は米などの容積、体積を量る基準を全国で統一しました。この基準に沿った升は、延久宣旨升と言われ、この後14世紀まで使われる事になります。

全国でものを測る基準を統一することによって、数字をごまかすなどで財を蓄えることを防ぐことが目的です。この升は南北朝時代まで使われ続けました。つまり、平安から鎌倉時代にかけて、非常に長期間使われた基準になります。

同時に、物価の基準も決めました。これは估価法(こかほう)と言われる法律で、10世紀末から価格統制のためにたびたび出されていました。後三条天皇による估価法は、荘園整理令と共に、経済の活性化に役立ったと言われています。経済の活性化によって京周辺の経済活動からの税が朝廷に入り、朝廷は政治運営がやりやすくなったという見方があります。

天皇家の権力基盤の整備

摂関家は黙って見ていたわけではありませんでした。しかし、藤原頼通、教通兄弟の対立から、摂関家としての抵抗ができませんでした。これに乗じて、後三条天皇は天皇家の政治権力基盤を固め、摂政、関白を飾り物の役職、つまりただの名誉職にしようとします。

即位後4年で退位

後三条天皇は即位からわずか4年で退位し、第一皇子の貞仁親王に天皇位を譲ることを計画します。自らは譲位後、上皇として院政を行い、天皇家に権力を集中させる事が目的でした。

貞仁親王の外祖父(母方の祖父)は藤原能信でしたがすでになくなっており、外祖父の地位を使って権力を振るう貴族がいません。その貞仁親王が天皇になり、自分が上皇として後ろ盾になる事で、天皇家の政治権力基盤を固めようとしたのです。

しかし、後三条天皇は譲位後、すぐに病に倒れ、40歳で崩御します。近年の研究では、貞仁親王への譲位は、病によるものであるという説が有力です。後三条天皇の計画であっても、病が理由であっても、この譲位は摂関家に大きな打撃を与える譲位でした。

院政への流れを作った後三条天皇

自らは院政を行うことができなかった後三条天皇ですが、院政による政治への流れは後三条天皇によって形成されたと言っていいでしょう。貞仁親王は即位し、白河天皇となります。

後三条天皇は譲位後、上皇となります。そして白河天皇の後は、白河天皇の弟である実仁親王、そして輔仁親王と継いでいくことを考えていました。これには明確な理由がありました。

後三条天皇
白河天皇の中宮、つまり妃は摂関家の養女として白河天皇に嫁いでいる。となると白河天皇の息子の外祖父はまた摂関家となる。そうなると、摂関家の権力が復活するかもしれない。それは絶対に避けなければならない。

しかし、後三条上皇が亡くなった後、白河天皇は実子である善仁親王を皇太子とし、譲位します。摂関家に対する考えが、後三条上皇と白河天皇で違っていたのか?というとそうではなかったようです。白河天皇の考えは、

白河天皇
摂関家は内部分裂をしていて弱体化している。ここは摂関家を外祖父に持つ天皇が即位しても、上皇の自分が抑えることができる。

つまり、後三条天皇が上皇となってやろうとしていたことは、息子の白河上皇にそのまま引き継がれたのです。後三条天皇が行いたかった院政のシステムを、子の白河天皇が完成させたのです。白河天皇はこの後、上皇、法皇として40年以上院政を行います。

白河天皇肖像画。法皇時代のものと伝えられる。

出典:Wikipedia

「院政」は日本独特の政治形態と言われています。多くの君主を持つ国では、君主は終身制であり、君主が死なない限りは位を譲ることはまずありません。日本独自の院政は、江戸時代になってからは、征夷大将軍を退いて「大御所」になって実権を握るなど、時代を越えて用いられる政治形態となりました。

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まとめ

後三条天皇が政治の実権を握った期間は約5年間と短いものでした。しかし、その間に新しい政策を打ち出し、平安時代の代名詞とも言える摂関政治を終わらせ、新しい時代への種をまきました。後三条天皇の目指した政治、院政は摂関政治よりも良かったのかという問いに対しては、イエスでもあり、ノーでもあるでしょう。院政によって、後に激しい権力闘争が皇族内で起こることとなります。この権力闘争は、保元の乱による崇徳上皇の悲劇を生むことになります。

後三条天皇の行ったことの、何もかもが良かったというわけではありません。しかし、後三条天皇が新しい時代への扉を開いたという事実によって、打ち出した政策は高い評価を得ており、後三条天皇は有能な天皇の一人とされているのです。

後三条天皇のまいた種によって、白河天皇は、上皇、法皇と院政を行いました。その白河法皇に仕えた軍事貴族が平正盛・忠盛親子です。平安時代の武士の台頭といえば、平清盛が有名です。清盛はこの平正盛の子です。後三条天皇の行った政策によって、武士の時代が幕を開けたと言ってもいいでしょう。

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