有能?個性が強い?【後三条天皇】とはどんな人物?生い立ちやエピソードを紹介

平安時代と言えば、多くの人がキーワードとして摂政・関白による摂関政治を挙げるのではないでしょうか。この摂関政治にストップをかけ、時代の流れを大きく変えたのが後三条天皇です。

行った政策を見ると、非常に有能な天皇だったことがわかります。そして、摂関家の藤原氏の圧力に負けない個性の強さ、聡明さを持ち合わせた天皇です。天皇在位はそれほど長くはありません。しかし後三条天皇は、時代の流れを変え、摂関家が独占していた政治を、天皇の手に取り戻すことに成功しました。この流れが後の武士の台頭につながり、平氏、源氏の台頭から始まる武士の時代の到来を導くのです。

後三条天皇は、不遇の少年時代を過ごしました。常に藤原氏からの圧力を受け、いつ皇太子から排除されてもおかしくない状況でした。しかし、それに耐えて天皇に即位し、強大な力を持っていた藤原摂関家に立ち向かって時代を変えた後三条天皇。この記事では、後三条天皇の生い立ちなどについて解説します。

後三条天皇の肖像画

出典:Wikipedia

主流から外れた誕生

後三条天皇は、天皇になるために必要な血筋を持たずに生まれました。当時は摂関政治全盛期です。藤原摂関家の後ろ盾がないと天皇になれない時代でした。

父と母

後三条天皇の父は敦良親王(後の後朱雀天皇)、母は禎子内親王です。禎子内親王は朱雀天皇の娘で、母は藤原道長の娘、妍子です。藤原道長の血が入っているじゃないか、という話になるかもしれませんが、この時代は天皇の母方の祖父が大きな力を持つ時代です。つまり、母方のおじいちゃんに藤原摂関家の人がいないとなかなか天皇になれませんでした。

後三条天皇の母方の祖父は朱雀天皇です。さらに第二皇子でした。異母兄は後の後冷泉天皇で、後冷泉天皇の母方の祖父は藤原道長です。こうなりますと、天皇の位は、異母兄、そしてその異母兄の息子となるはずです。

ここで言葉を整理しておきましょう。「外祖父」とは、母親の父親、つまり母方の祖父を指します。「外戚」とは母や妃の一族を指します。この時代、外祖父は藤原氏の中で摂政、関白に任じられる重要な人物であることがほとんどです。そうなりますと、外戚は藤原一族ということになります。しかし藤原氏の中にもいくつか系統があり、藤原氏内での権力争いもありました。

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藤原頼通の焦り

後朱雀天皇が崩御し、予定通り後冷泉天皇が即位しました。藤原道長の子、頼通は今までの藤原氏がしてきたように、後冷泉天皇に娘を嫁がせます。しかし皇子はなかなか生まれず、頼通は焦ります。

藤原頼通
このままでは私の娘が産んだ男の子を天皇にすることができない。尊仁親王が即位してしまうではないか。

頼通など藤原氏は尊仁親王に様々な圧力を加えます。しかし、藤原氏の中から頼通らに逆らう人々が出てきます。頼通の異母弟、藤原能信です。

藤原能信
頼通達は、道長の時代から藤原の傍流である我々をバカにしてきた。ここがチャンスだ、頼通が外祖父になれなければ尊仁親王を絶対に天皇に即位させるぞ。

膠着状態のまま時は過ぎ、後冷泉天皇は在位のまま崩御します。

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後三条天皇の即位

この時、天皇に適した皇族の男子は、尊仁親王しかいませんでした。後冷泉天皇は、皇子を持たずに崩御してしまったのです。そして尊仁親王は即位し、後三条天皇となります。「天皇の母方の祖父」という権力者の座から外れた頼通は引退します。頼通を妨害し、尊仁親王の即位を願っていた藤原能信は、念願の後三条天皇の即位を見ることなく亡くなりました。後三条天皇の即位は、能信の死から3年後のことです。

政治に積極的な天皇

摂関政治全盛期は、天皇自らが政治を行うケースはそれほど多くなく、摂関家が権力を振るうための存在でした。しかしここに、母方の祖父にそのような貴族を持たない天皇が即位したのです。後三条天皇は、自ら政治に乗り出し、まずは人事を固めます。

自分を守ってくれた藤原能信はすでに亡くなっていましたので、養子の能長を登用します。そして村上源氏を引き立て、有能な中級貴族を積極的に登用します。

優秀な人材は敵でも使う

後冷泉天皇時代、後三条天皇は様々な嫌がらせをされたり、軽んじられたりしてきました。実際に自分を蔑ろにした貴族も少なからずいたのですが、後三条天皇はそのような貴族であっても、優秀であれば引き立てて要職につけました。

頼通の弟である教通も無碍には扱わず、関白に任じています。しかし、彼が権勢を振るえないようなシステムを構築して、力はかなり抑えていたようです。

藤原氏に気を使わなくて済む天皇

後三条天皇は、藤原氏を外祖父に持たない天皇としては宇多天皇以来、約170年ぶりの天皇です。政権中枢に藤原教通がいるとはいえ、天皇主導で政治ができる立場を手に入れたのです。

藤原氏に気兼ねなく政治ができるようになった後三条天皇は、無理に藤原氏を排除することはせず、有能と思われる人はそれなりに取り立てたことは先に述べました。では、これは全て後三条天皇が考えたことなのでしょうか?いくら聡明とはいえ、これだけの段取りを一人で考え出すのは至難の業です。

後三条天皇には、実は強力なブレーンがいました。

参謀役、大江匡房

 

大江匡房の肖像画

出典:Wikipedia

後三条天皇の皇太子時代、教育係として大江匡房という学者がついていました。大江匡房は非常に有能な学者でしたが、家柄、コネに恵まれず、それほどの地位を得てはいませんでした。皇太子の教育係と言えば重要な役割ですが、その皇太子が外祖父に藤原氏を持たず、天皇即位はまずないだろうという人物であれば、それほどの家柄でなくても・・・・ということだったのではないかと推測されます。

しかし、大江匡房は有能であり、後三条天皇も若い頃から聡明でした。大江匡房に教育されたために、後三条天皇は、自分で考え、意志を決定する力を持つことができたのではないでしょうか。その大江匡房が政権ブレーンとなり、いくつか後三条天皇に献策をしています。それが、藤原氏の顔は立てるが権勢を振るわせないという人事配置だったのではないでしょうか。そして、大江匡房自身は、それほど歴史の表舞台に出てきません。

これも、自分の立場がかなり天皇に近いのであれば、あまり目立つことをやると、また藤原氏の摂関政治のようになると考え、意識的に目立たないように、表に出ないようにしたのではないかと思われます。

大江匡房は、後三年の役で活躍する源義家に兵法を教えたという伝説があります。義家の系統は、義親、為義、義朝を経て、鎌倉幕府を開く頼朝につながる系統です。

まとめ

後三条天皇の即位は、いくつかの偶然が重なって実現したものです。その一つに、藤原氏内の争いがありました。藤原道長・頼通の主流ではない能信・能長の支援を受けて即位した後三条天皇は、能長を側近にします。しかし、藤原氏がかつての勢いを取り戻すことなく、時代は院政を経由して、武士の台頭を待つことになります。

家柄にとらわれない優秀な人材をそばに置き、家柄が上の人材にはプライドが満足するような地位を与えるが、権力は常に自分に集中するようにする、という政治システムを作り上げた後三条天皇は、かなり有能な天皇であったと思われます。

摂関政治を終わらせ、新しい時代の種をまいた後三条天皇の時代は、実はそれほど長いものではありません。即位してから亡くなるまではわずか5年くらいです。しかしこの間に次々と新しい政策を打ち出し、時代を変えていくことになるのです。

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