奈良時代で代表する高僧は行基と鑑真です。二人とも仏教の僧で、聖武天皇から依頼で、東大寺に関わる仕事についています。行基は大仏完成前に亡くなり、朝廷から諡号を贈られ、行基菩薩と言われるようになります。鑑真は唐から何度も来航に失敗し、失明しながら来日したエピソードは有名です。
同じ時代に、同じ仏教の高僧で、東大寺に関係している、行基と鑑真について、二人の違いやエピソードをこれから紹介していきたいと思います。
目次
行基と鑑真の違い
行基とは?

行基は 日本人の僧です。臨済宗の開祖で、朝廷から僧の資格を得ていないですが、難民救済・民衆へ布教活動・土木関係の整備・墾田などをし、農民達の貧困を助けていました。僧尼令で、当時は仏教は偉い位の人のものと、一般平民への普及は禁じられていましたが、行基は身分を問わず布教活動を起こしていました。奈良時代に僧尼令違反で弾圧されたのは行基のみです。
鑑真とは?

鑑真は、 唐の僧です。天台宗で日本に伝えたのは鑑真です。僧になるには 【授戒】という、位の高いお坊さんから洗練の儀式を受けてはじめて、”僧”と名乗れるのですが、当時の日本には位の高い僧が不在なため、授戒を受けず、自分は僧だと名乗り出て僧になった者がほとんどでした。
そこで、聖武天皇が 鑑真を伝戒師として呼びました。
行基と鑑真のエピソードを詳しく紹介
【行基】エピソード
行基は15歳で出家する
行基は大阪生まれで15歳になると出家します。行基は飛鳥寺、薬師寺で 法相宗の教え を学びます。そして行基は飛鳥寺で当時の遣唐使であった道昭から仏教を学び、このすばらしい仏の教えを多くの人々へ伝えていくことが大切だと教わります。そして、各地に出向き、仏教の布教活動を行います。
民衆が行基を「行基菩薩」と呼ぶ
当時、仏教というのは、高位の人のものとされていたので、一般の民衆が仏教の教えを受けられませんでしたが、行基は位など関係なく、全ての者に仏教を説いていました。その時代は、 大宝律令 が出来て、農民達は租庸調の税を支払わなくてはいけません。災害など起こり、税を支払えなかったり、病気に苦しんでいる農民が沢山いました。行基はその位の低い農民達にも仏教を説き、人々はとても救われていきます。
また行基は、布教活動だけではなく、人々の為に橋を架けたり、道を作り、池を整備したりなど、土木作業も行っていきました。都に税を運ぶ人が使う宿”布施屋”を建てたりと、人々のために、安全で暮らしやすいようにと行動する行基の姿を見て、人々は行基に感謝し、慕うようになります。
各地で、仏教の教えを広めていき、社会貢献していく行基は、何千人もの人々から慕われるようになります。そして行基を拝む民衆も沢山出てきたことから、行基を 「行基菩薩」 と呼ばれるようになりました。
僧尼令により弾圧を受ける
僧尼令 というのは、まさに僧侶と尼さんに向けた法令です。その法令の中には、国が認めた者以外は僧でも尼でもない、認めていない者は布教活動をしてはいけないというものがあります。
行基を僧尼令で弾圧しますが、行基は布教活動と土木関係の整備をやめずに、続けていきます。次第に朝廷も、行基の活動を認めるようになり、
行基のもとに就いている 老人のみ僧になれる ようにもなりました。
【鑑真】のエピソード
鑑真は21歳の時に正式な僧侶となる
鑑真は唐(中国の揚州)出身です。21歳 の時に、長安の実際寺にいる戒律を伝える 高位の僧である弘景律師/strong> から具足戒を受けて正式な僧侶になりました。
その後、鑑真は 天台宗と戒律の学である律宗 を学びます。そして40歳になるころには 四万人もの僧を授戒 しています。唐の中である華南・華中では高位の僧として有名になります。
鑑真が日本へ渡航の経緯
当時日本には、授戒が出来る高僧が不在な為、自らが僧だと名乗れば僧になれてしまい、授戒せずに僧になる者が大勢いました。そして日本は、反乱や災害や病原菌の流行で国が荒れ果てていた為、授戒の出来る高僧を探しに唐へ使いを出しました。授戒の出来る高僧として有名だった鑑真に、日本へ渡航し、授戒してほしいと依頼すると、鑑真は承諾をしてくれました。
船の設備も整っている訳ではありません。
それでも日本に仏教を伝えようと、渡航してくれたのは鑑真だけです。
5回目の渡航で失明に鑑真は21人の弟子を連れて渡航しようとしました。
1回目は、渡航前に密告され出発出来ませんでした。
2回目は、暴風雨に合い出発できません。
3回目は、弟子が引きとめて出来ません。
4回目も、渡航前に密告が入り出来ません。
5回目にしてようやく出港しますが、暴風を受け、弟子の 祥彦や栄叡 も亡くなってしまいます。そして、 鑑真自身も失明してしまいます 。ですが、鑑真は仏教を広めることや授戒の大切さから渡航を諦めません。

そしてようやく6回目に遣唐使の帰りの船に乗る事ができて、薩摩へ入国したどり着きました。日本へ来るのに 12年 もかかっていますが、鑑真の信念に国をあげて感謝します。
東大寺と二人の高僧の役割
東大寺と大仏の建立に貢献した行基
行基を東大寺と大仏建立の勧進に
国が荒れ果て、この国を仏教の力で守る為、聖武天皇は遷都を繰り返しますが、そのたびに重労働と重税を背負う農民はとても苦しく反発していました。聖武天皇は遷都を止め、奈良に東大寺とあの大きな仏様を建てる計画をします。しかし、それにはまた農民達に多大な力を借りなければいけませんし、多大な費用がかかってしまいます。
そこで聖武天皇は建設の知識もあり、何より農民達から絶大な支持を受けている行基に東大寺と大仏の建立を任せます。そして行基は日本全国から寄付を募り、多くの寄付と建設する多くの労働者を集めることが出来ました。
行基は日本初の大僧正になる
行基の力のおかげで財源と作業力が整い、東大寺と大仏の建設が開始出来ました。その功績を称え、行基は 大僧正の位 を与えられました。

しかし、行基は大仏が完成するより前に749年、81歳でこの世を去ります。亡くなった時、行基に朝廷から諡号を贈られ、正式に ”行基菩薩” となりました。完成を見届けられませんでしたが、行基の功績は素晴らしいものです。
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仏教制度を整えた鑑真
鑑真は戒律の伝律を一任される
聖武天皇は鑑真に 戒律の伝律 を任せます。そして、 東大寺に初めての戒壇院が設けられます 。そして、鑑真はその戒壇院に住むようになります。それから鑑真は、 乱れた仏教制度を整え、聖武太上天皇をはじめ、400人もの僧に戒律を授けます。僧は厳格化され、秩序がをもたらせました。
自ら唐招提寺を建てる

そして、東大寺の他にも戒壇院が造られ、鑑真、自ら 唐招提寺を設立 し、そこで多くの僧に戒律を教えていきます。鑑真が渡航に5回も失敗し、失明しても日本に来てくれたおかげで、日本に戒律制度が出来、日本の仏教が発展出来ました。
鑑真は戒律以外にも、彫刻や漢方薬が詳しく、世に広めた人物と言われています。そして763年、76歳でこの世を去りました。
まとめ
いかがでしたか?奈良時代の高僧二人、東大寺という同じ場所で担う役割は違いましたが、二人の高僧が関わっていました。行基は、身分など関係なく、仏教を伝え、苦しんでいる人の為に土木関係の整備なども行って絶大な支持される人物で、国や民衆の為に就くし最高位である大僧正になります。
鑑真は、他国の日本の為に何度も渡航をし、失明までしたのに来日し、戒律し、日本の仏教制度を整え、発展させてくれた人です。
生まれた場所や環境など、全て違いますが日本に与えた影響は二人とも大きいです。日本の為に、国民の為にと力を注いでくれたことに、とても感動してしまいます。