平治の乱は平清盛 vs 源義朝となった政変です。
平安時代末期に勃発した保元の乱後に実権を握ったのは後白河天皇の側近である信西でした。国政改革を行っていた信西は平清盛と厚遇し、平家一門は台頭するようになります。
当時の天皇であった後白河天皇はもともと、後白河天皇の第一皇子である守仁親王(後の二条天皇)の中継ぎとして即位した人物であったため、守仁親王(後の二条天皇)が20歳を過ぎた頃から、亡き鳥羽法皇(後白河天皇の父)の寵妃である美福門院(藤原得子)が信西に対し、後白河天皇から守仁親王(後の二条天皇)に譲位するように迫ったのでした。
こうして後白河天皇は守仁親王(後の二条天皇)に譲位することとなりましたが、ここから後白河院政派と二条親政派の対立が始まるようになります。
この頃になると、武蔵守・藤原信頼という人物が台頭し始めます。藤原信頼はもともと信西の政治政策に反対していた人物で、後白河天皇から信頼を受けていた人物でもありました。
この藤原信頼は敵対する信西が平家を味方につけたことを知ると、それと対抗して当時、保元の乱において平家よりも恩賞が少ないと不満を漏らしていた源義朝を味方につけたのでした。
こうして、信西・平清盛VS藤原信頼・源義朝という構図となり平治の乱が始まったのです。
単に平清盛VS源義朝というわけではないので、少し難しく感じる平治の乱ですが今回はわかりやすく、起こった時代や場所、勝者についてご紹介していきます。
目次
平治の乱をわかりやすく
時代、場所
平治の乱が勃発したのは平安時代末期の平治元年(1160年)12月9日からで、永暦元年(1160年)3月11日まで行われました。
戦場となったのは平家の本拠地である六波羅周辺です。(現在の現在の京都市東山区の一部)
勝者
藤原信頼・源氏と二条新政派・平氏が争い、二条新政派・平氏の勝利に終わりました。
平治の乱が起こった経緯
平治の乱が起こる4年前の保元元年(1156年)、保元の乱が勃発しました。
この保元の乱とは、天皇の後継者問題や摂関家の内紛などの要因で、朝廷内が後白河天皇方、崇徳上皇方に分裂となり、また源氏・平家を巻き込んだ武力衝突となりました。
この保元の乱は源氏と平家を巻き込むこととなったのですが、
- 後白河天皇方に平清盛や源義朝
- 崇徳上皇方に源為義(源義朝の父)や平忠正(平清盛の叔父)
などが味方することとなったのでした。
のちに勃発する平治の乱で平清盛と源義朝は対立関係となりますが、保元の乱では共に戦った戦友だったのです。
結果、保元の乱は後白河天皇方の勝利に終わり、敗北となった崇徳上皇は配流、また崇徳上皇方に味方した平家や源氏は重い処罰を受けることとなりました。
この時、源義朝は崇徳上皇方に味方していた父・源為義やその他の兄弟たちを泣く泣く自らの手で処刑しています。しかし、保元の乱の恩賞は期待していたほどのものではなかったため、恩賞が少ないと不満を抱き始めるのでした。

信西の登場
保元の乱のあと実権を握ったのはもちろん後白河天皇方でした。その中でも後白河天皇に味方していた信西(藤原通憲)が実権を握るようになります。
この信西という人物はもともと後白河天皇の父である鳥羽法皇の北面武士として活躍していました。北面の武士には平清盛もいたとされています。
また信西の妻・藤原朝子が幼き後白河天皇の乳母でもあったことから、信西は後白河天皇の乳父として実権を握るようになったのでした。
実権を握った信西は
- 内裏の復興
- 公事・行事の整備
- 荘園を整理するために荘園整理令を発行
するなど様々な政策を行います。
また信西はこれらの政策を進めるにあたって治安維持のための武力が必要不可欠であると考えました。そこで、北面武士である平清盛を優遇することとなったのです。
当時、北面武士の中でも平家は最大の兵力を誇っていました。そのため平家を治安維持のために優遇したのでした。
平清盛が信西に優遇される
平清盛
一方、北面武士として信西に優遇されることは平家にとって非常にメリットのあることでした。
メリットとしては
- 官位を得られる
- 大和国に平基盛が任じられたことによって大和国を支配できる
- 大宰大弐に平清盛が就任することによって日宋貿易に関わることができる
- 日宋貿易の利益から経済基盤の安定化が進む
など平家にとってメリットが多かったのです。
また信西の息子・成範と平清盛の娘が婚姻を結ぶことによって平清盛と信西はさらに絆を深めていくこととなります。
「仏と仏との評定」で二条天皇が即位
当時、天皇として君臨していたのは保元の乱で勝利した後白河天皇でした。
後白河天皇
この後白河天皇はもともと後白河天皇の第一皇子・守仁親王(二条天皇)の中継ぎとして即位した人物なのでした。
保元3年(1158年)この頃になると、守仁親王(二条天皇)は15歳を迎えていたとされ、亡き鳥羽法皇の妻であった美福門院が後白河天皇や信西に対し

と迫ります。
この粘り強い美福門院の要求を後白河天皇と信西は断ることができず、保元3年(1158年)8月4日後白河天皇は守仁親王(二条天皇)に譲位しました。
この美福門院と信西の協議は「仏と仏との評定」と呼ばれています。
後白河院政派vs二条新政派の対立
こうして即位した二条天皇でしたが、もともとは後白河天皇の第一皇子でもあります。そのため、後白河上皇の院政が始まろうとしていました。
しかし、この頃から後白河天皇の院政の開始を拒もうと動く派閥がありました。それは二条天皇の側近たちです。
二条天皇の側近の中でも
- 藤原経宗(二条天皇の伯父)
- 藤原惟方(二条の乳兄弟)
が中心となり、後白河天皇による政治主導ではなく二条天皇による政治を行わそうとさせていました。
こうして後白河院政派vs二条新政派の対立が誕生したのです。
藤原信頼の台頭
このように後白河天皇と二条新政派が対立する中で次第に後白河院政派の中でも後白河上皇と信西に不信感を抱く側近たちが出始めます。その筆頭となったのが藤原信頼でした。
後白河上皇と信西に不信感を抱いた藤原信頼は反後白河院政派となりました。そのため平氏を味方につけていた信西に対し藤原信頼は対抗して源氏を味方につけようと考えます。

源義朝の不満
この時、源氏の源義朝は保元の乱での恩賞の少なさに不満を抱いていました。その矛先となっていたのが、保元の乱以後、実権を握り始めた信西です。
源義朝

このように藤原信頼も源義朝も互いに信西に不信感を抱いていたため、2人は手を取り合いクーデターの計画を打ち立てます。
三条殿の襲撃
このクーデターは平治元年(1159年)12月に行われ、平清盛が熊野参詣のため京都から離れた隙を狙ってのことでした。
藤原信頼や反信西たちは12月9日の深夜、後白河院御所・三条殿を襲撃します。この際、後白河上皇と上西門院(後白河の同母姉)の身柄を捕獲したとされ、その後三条殿に火を放ちます。
三条殿の襲撃場面
この時、肝心の信西はすでに逃亡していましたが、同月13日に山城国田原で発見され、信西は自害し亡くなりました。
三条殿の襲撃は成功に終わる
こうして信西を排除し、後白河天皇を捕らえた藤原信頼や反信西派らはさっそく二条新政派と手を結び政治主導権を握りました。
まず始めに、このクーデターに大きく貢献した源氏に恩賞が与えられたとされています。
また信西の息子などは配流されるなど厳しい処罰が与えられています。一方、熊野参詣のため京都を離れていた平清盛は事件に関与していなかったとして処罰は降されませんでした。
源義平の主張
三条殿襲撃事件に際し、平清盛は京都から離れていたため事件は関与していないとして処罰を受けることはありませんでした。
しかし、源義朝の長男である源義平は熊野から京都に戻ってくる平清盛を直ちに討伐するよう主張します。

しかし藤原信頼の嫡男・信親と平清盛の娘は婚姻関係にあったため、藤原信頼は平清盛が味方になってくれるであろうと考えており、そのため源義平の主張を否定したのでした。
二条天皇と後白河上皇の脱出
このクーデターを聞いた平清盛は熊野から急いで京都へと戻ります。しかし、この平清盛のもとに二条新政派が接近するのでした。
もともと、藤原信頼と二条新政派は仲が良かったわけではありません。藤原信頼は元はというと後白河院政派の人間であったためクーデター後は二条新政派は

と考えていました。
そのため二条新政派は藤原信頼排除のために平清盛に接近したのです。
二条新政派の藤原惟方は次に起こる合戦のためすぐさま二条天皇を平家の本拠地である六波羅へと移動させました。その際、藤原信頼らによって捕らえられていた後白河上皇にも二条天皇が六波羅に向かったということ知らせると、後白河上皇も密かに六波羅へと移動します。
この時、後白河上皇は囚われの身なのですが、どうしてしっかりと警護がついていなかったのか疑問に感じます。
こうして二条天皇と後白河天皇を六波羅へと移すと、藤原惟方やその弟である藤原成頼らも六波羅へと向かいました。
この時になると六波羅には二条天皇や後白河上皇の他に多くの摂関家の人間や公家なども集まっていたため二条天皇は平清盛や平家の武士に対し

と命じたのでした。
六波羅合戦の始まり、二条政派vs藤原信頼派(平清盛vs源義朝)
一方、人質である後白河上皇にも逃げられ、二条天皇にも逃げられた藤原信頼らはパニック状態となっていました。
そのため源義朝は藤原信頼に対し

と怒りを見せたとされています。
こうして二条政派vs藤原信頼派(平清盛vs源義朝)という構図となったのでした。
六波羅合戦の勝者
戦いの舞台となったのは六波羅近辺です。源氏の兵力は僅少であったとされ、源義朝は決死の覚悟で六波羅に突入しましたが、六条河原で敗退となり二条新政派・平氏の勝利に終わりました。
六波羅合戦のその後
六波羅合戦の後、逃れた源義朝は東国へと逃れる最中に殺害され、また源義朝の息子である源頼朝は伊豆へと配流されるなど源氏は壊滅的となりました。
平家一門の全盛期に突入、平清盛は太政大臣に
一方で平氏には恩賞が多く与えられ、特に平清盛は二条天皇から信頼受けるなどし後の仁安2年(1167年)2月には太政大臣に就任となります。
源氏と差をつけ始め、ついに平家が中心となる世に中に進んでいくのでした。
まとめ
平治の乱についてわかりやすく解説いたしました。
平治の乱は非常に難しい政変でしたが、勝手に権力者同士が争い合って、その上源氏は壊滅状態となり影を薄めていくこととなったのですから、結局1番おいしい思いをしたのは平家です。
その後、平家はどんどんと力をつけていくこととなり、平家にとって全盛期となる時代が訪れます。しかし、そんな時代もあっという間で、平清盛の亡き後の元暦2年(1185年)壇ノ浦の戦いで平家は滅亡となるのでした。