【豊臣秀頼】は誰の子か?生い立ちや本当の父親についての諸説を解説!

豊臣秀吉と淀殿(茶々)の間に誕生した豊臣秀頼。豊臣秀吉の後継者として育てられるも徳川家との対立である大阪の陣で母・淀殿とともに自害し亡くなりました。

関連記事

そんな豊臣秀頼ですが、実は父親は豊臣秀吉ではないのでは?といった説があります。仮に豊臣秀頼の父親が豊臣秀吉ではないとして、本当の父親は一体だれなんでしょうか。

今回は豊臣秀頼の生涯と天草四郎との関わり、そして本当の父親について探っていきたいと思います。

 

豊臣秀頼の生い立ち

豊臣秀吉と淀殿の息子として誕生

豊臣秀頼は豊臣秀吉と淀殿(茶々)の息子として文禄2年(1593年)に大阪城で誕生したとされています。豊臣秀頼が誕生した時、豊臣秀吉は57歳、で淀殿は27歳でした。

豊臣秀吉豊臣秀吉肖像画出典画像:Wikipedia

淀殿出典画像:Wikipedia

関連記事

豊臣秀頼が産まれる4年前の天正17年(1589年)、秀吉と淀殿の間には第一子である鶴松が誕生していました。しかし、鶴松はわずか3歳にして病死します。

鶴松出典画像:Wikipedia

 

豊臣秀吉の後継者として

当時、すでに天下統一を果たし関白に就任していた父の豊臣秀吉は第一子である鶴松を自身の後継者にと考えていました。しかし、その鶴松が亡くなってしまったため、甥の秀次に関白職を譲る計画を立てていました。

関白とは成人した天皇の政治活動の補佐を行う場合の役職です。摂政とは異なり、最終的な決断は天皇にあります。

そんな中で、生まれた豊臣秀頼。もちろん父の豊臣秀吉は甥ではなく我が子である豊臣秀頼に関白職を譲りたいと考え始めます。そのことを察した甥の秀次は

豊臣秀次
関白の座を、秀頼に奪われるのではないか…。

と感じ始めるようになりました。秀次の考えは的中し、豊臣秀吉は我が子である豊臣秀頼に関白職を継承させるため文禄4年(1595年)7月、秀次に切腹を命じたのでした。

切腹を行い命を失った秀次。それだけではなく豊臣秀吉は秀次の子供や妻たちも殺害したとされています。こうして豊臣秀頼は父の後継者として地位を確立したのでした。

豊臣秀次出典画像:Wikipedia

 

父・豊臣秀吉の死と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉は後継者となった豊臣秀頼の補佐役として五大老・五奉行を導入します。

 

五大老に任命されたのは徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家

五奉行に任命されたのは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以

慶長3年(1598年)8月、父の豊臣秀吉が62歳で亡くなります。この時、まだ5歳であった豊臣秀頼は家督を継ぎ、大阪城へと移りました。

大阪城へと移った豊臣秀頼と母の淀殿。豊臣秀吉の後継者ではありますが、まだ幼かったため 五奉行 五大老 が中心となって豊臣政権を運営していました。しかし、豊臣秀頼を支えていた 五大老の徳川家康 が豊臣政権において権力を握りすぎたことによって 五奉行の石田三成と対立を起こすようになります。

豊臣政権内において権力を握る徳川家康に対し

石田三成
このままでは豊臣家が滅んでしまう!

と考えた石田三成。

両者の対立は深まることとなり、慶長5年(1600年)石田三成が徳川家康に対し挙兵し関ヶ原の戦いが勃発しました。

関連記事

 

徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍どちらも

東軍・西軍
秀頼公のために戦っている!

と主張しているため、豊臣秀頼と母の淀殿はあくまでも中立的な立場に立っていました。結果、東軍の徳川家康が勝利することとなり、戦後豊臣秀吉は徳川家康を忠義者として称えました。

徳川家康徳川家康肖像画出典画像:Wikipedia

 

徳川家康が権力を握りだす

関ケ原の戦いで勝利した徳川家康。関ヶ原の戦いは秀頼公のためと主張していたにも関わらず、戦後処理において豊臣家の土地を関ヶ原の戦いの恩賞として勝手に東軍についた者たちに与えるなど勝手な行動を行うようになります。

慶長8年(1603年)2月になると徳川家康は征夷大将軍に任命され江戸に独自の政権(後の江戸幕府)を構築するようになりました。そのため大阪城にいた豊臣秀頼は天下人から遠ざかっていくようになります。

江戸幕府を開いた徳川家康は豊臣秀頼や淀殿といった豊臣家に対し、徳川家に従うよう要求していましたが母の淀殿は徳川家康や江戸幕府に従うことを頑固拒否します。それでも臣従を要求する徳川家康に対し

淀殿
徳川に従うくらいなら、秀頼を殺して自害するぞ!

と主張していました。

天下人から遠ざかっていくようになった豊臣秀頼でしたが

  • 年始や歳末といった行事には全国各地にいる大名から祝儀が届けられた
  • 毎年の年頭になると公家たちが豊臣秀頼に参賀していた
  • 順調に位階や官職の昇進を成し遂げていた

など父・豊臣秀吉が生きていた時と同じ扱いを受けていました。

 

千姫との結婚

慶長8年(1603年)7月、豊臣秀頼は徳川秀忠の娘・千姫と結婚します。千姫の母親は母・淀殿の妹である江であるため、いとこ同士の結婚ということとなります。この結婚は生前、父の豊臣秀吉が計画していたものでした。

千姫出典画像:Wikipedia

 

徳川家康が将軍職を徳川秀忠に譲る

慶長10年(1605年)4月16日、征夷大将軍に就任していた徳川家康が息子である徳川秀忠にたったの2年で将軍職を譲ります。

徳川秀忠出典画像:Wikipedia

たったの2年で征夷大将軍の座を息子に譲ったのは

徳川家康
これから先、征夷大将軍という座は世襲制になっていきますよ!

ということを世間にアピールするためであったとされています。

豊臣秀頼の母・淀殿や豊臣家はてっきり

豊臣家
徳川家康が天下人となり権力を握っているのは豊臣秀頼が成人するまでの間で、政権はいずれ豊臣家に返されるもの。

と考えていました。しかし、征夷大将軍の座が徳川家によって世襲されることとなったため、豊臣秀頼が天下を治めるということは不可能に近い状態となりました。そのため母・淀殿や豊臣家は激怒します。

豊臣秀頼が右大臣に昇進した際、徳川家康は豊臣秀頼に対し上洛の要請と面会を希望しましたが、母・淀殿がこれを反対したため面会は実現することはありませんでした。

しかし、慶長16年(1611年)3月、妻の千姫の祖父である徳川家康に面会するという理由で豊臣秀頼は上洛し京都の二条城で面会を果たします。

この面会について

  • 豊臣秀頼は徳川家康に従うといった気持ちで徳川家康に会いに行った
  • 豊臣秀頼は徳川家康と対等な立場であるという気持ちで会いに行った

といった2つの見方がなされています。

 

方広寺鐘銘事

豊臣家を徳川家に従わせたい徳川家康でしたが、朝廷はというと豊臣秀頼が産まれた時から摂家豊臣家の後継者として豊臣秀頼を見なし、関ケ原の戦い以降徳川家康が権力を握るようになっても、豊臣秀頼が関白になることのできる存在として豊臣秀頼を位置づけていました。

そのため徳川家康は豊臣秀頼をどう扱えばいいのか迷っていたようですが、方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣家を滅ぼすことを決意します。

方広寺鐘銘事件とは慶長19年(1614年)に起きた事件です。豊臣家が再建を進めていた方広寺大仏殿の鐘「国家安康、君臣豊楽」と刻まれていることに対し徳川家が

徳川家
「国家安康」という言葉は家康の名前を切り離しているのではないか?これは徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願っているものではないか!

と文句をつけたことで始まった事件で、この事件がきっかけで大阪冬の陣が勃発しました。

 

大阪冬の陣

慶長19年(1614年)に始まった大阪の陣(大阪冬の陣)。豊臣秀頼は福島正則、加藤嘉明といった豊臣家とゆかりのある大名に援軍を要請しますが、大名で豊臣家に味方した者はおらず、豊臣方の戦力となったのは関ヶ原の戦いで西軍に味方していたために改易された浪人たちでした。

士気の高い浪人たちの活躍によって一時は徳川方を苦戦に追い込むも、豊臣方、徳川方双方の食糧と弾薬が尽き始めたため、徳川家康が和議を提案し、これによって大阪冬の陣は勝負がつかないまま終わりを迎えました。

 

母と共に自害

しかし、翌年の慶長20年(1615年)には再び戦が始まります。(大阪夏の陣)

大阪夏の陣において豊臣軍10万の兵力に対し、徳川軍20万の兵力であったとされています。約10万という兵力の差がありながらも豊臣方の武士たちは懸命に戦いましたが、大阪城は落城を迎えることとなりました。

落城目前の大阪城にいた淀殿と秀頼。豊臣家の家臣である大野治長が淀殿と秀頼の助命を徳川家康に行いましたが、徳川家康はこれを拒否。

大野治長
2人の命だけはお助けよ!

落城目前の大阪城には火が放たれ、豊臣秀頼と母・淀殿は自害し亡くなりました。この時、豊臣秀頼は23歳であったとされています。

大坂城炎上出典画像:Wikipedia

 

豊臣秀吉は本当の父親ではない?

豊臣秀吉と淀殿(茶々)の子供として誕生したとされる豊臣秀頼。しかし、豊臣秀吉は豊臣秀頼の父親ではないといった説が存在しています。

豊臣秀頼の父親とされる豊臣秀吉は正室・ねねの他に

  • 山名禅高の娘・南殿
  • 山名豊国の娘・南の局
  • 京極高吉の娘・松の丸殿
  • 前田利家娘・加賀殿
  • 成田氏長の娘・甲斐姫

など多くの側室を抱えていました。淀殿(茶々)もそのうちの1人です。しかし、たくさん側室を抱えていた割には子供に恵まれなかったとされています。

多くの側室の中でも子供に恵まれたのは淀殿(茶々)のみ。淀殿(茶々)との間にだけ子供が生まれるというのはどうも不自然なのです。

そのため、豊臣秀頼の父親は豊臣秀吉ではないといった説が浮上したのです。では豊臣秀頼の本当の父親は一体だれなのでしょうか。

 

豊臣秀頼の本当の父親は?

父親として有力視されているのは大野治長です。

大野治長は豊臣秀吉の家臣である大野定長の長男として誕生しました。母は後に淀殿(茶々)の乳母となるため、大野治長と淀殿(茶々)は幼いころから顔を合わせることがあったことでしょう。大阪の陣では淀殿と豊臣秀頼の助命を徳川家康にしています。しかし、大野治長もまた豊臣秀頼らとともに自害し亡くなるのでした。

また慶長4年(1599年)十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状には淀殿と大野治長が密通、つまり今でいう不倫関係であったという噂が記されています。

このようなことから大野治長が豊臣秀頼の本当の父親である可能性は極めて高いのではないでしょうか。

 

天草四郎は豊臣秀頼の落胤?

江戸時代初期の寛永14年(1637年)に起こった徳川幕府とキリスト教徒・一揆軍の対立である島原の乱。その一揆軍のリーダーとなった天草四郎は豊臣秀頼の落胤であったという説が存在しています。

落胤とは認知されていない子供のことで、落とし子とも言われています。正当な家系図には記載されていないことが多くあります。
  • 天草四郎が「豊臣秀綱」と呼ばれていたとことが記載された古文書が鹿児島に存在していた
  • 天草四郎が使用していた大将の所在を示す目印、馬印が豊臣秀吉と同じ瓢箪(ひょうたん)のデザインである

ということから、天草四郎は豊臣秀頼の落胤であったのでは?と考えられるようになりました。しかしどちらも信憑性は低いため、天草四郎は豊臣秀頼の落胤と言い切ることはできません。

天草四郎出典画像:Wikipedia

 

まとめ

豊臣秀頼の生い立ちと経歴についてご紹介いたしました。

豊臣秀吉の息子とされる豊臣秀頼。豊臣秀吉にはたくさんの側室がいましたが、子供が生まれたのは淀殿(茶々)とだけでした。淀殿(茶々)との間にだけ子供が生まれるというのはどうも不自然ではないでしょうか。豊臣秀頼の本当の父親は淀殿と内密のあった大野治長なのかもしれませんね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

fourteen + eight =