大阪夏の陣で母・淀殿(茶々)とともに自害した豊臣秀頼。
大阪冬の陣・大阪夏の陣はなぜ行われたのか、豊臣家滅亡に繋がった敗因、また豊臣秀頼は薩摩で生き残っていたという説についてご紹介いたします。
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豊臣秀頼の簡単な生い立ち
豊臣秀吉の息子として誕生
豊臣秀頼は豊臣秀吉とその側室・淀殿(茶々)の息子として文禄2年(1593年)に大阪城で誕生しました。実は豊臣秀吉の息子ではなく、豊臣家に仕えていた大野治長が本当の父親であるのではといった説もありますが、はっきりしたことは分かっていません。
豊臣秀頼には鶴松という兄がいましたが、鶴松は幼くして亡くなってしまったため豊臣秀頼は豊臣秀吉の後継者として育てられるようになります。
豊臣秀吉画像出典:Wikipedia
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関ヶ原の戦いが勃発
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀頼が5歳の時、父・豊臣秀吉が62歳で亡くなります。
後継者である豊臣秀頼でしたが、まだ幼かったため五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)と五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)が中心となって豊臣政権を運営することとなりました。
豊臣政権の運営が行われた大阪城では、母の淀殿が豊臣秀頼の後見人として政治に介入し豊臣政権で実権を握るようになりました。
五大老と五奉行が中心となって運営されていた豊臣政権でしたが、運営方針を巡り五大老の徳川家康と五奉行の石田三成が対立を起こすようになります。
両者の対立は深まることとなり、慶長5年(1600年)石田三成が徳川家康に対し挙兵し天下分け目の戦いと呼ばれる関ヶ原の戦いが勃発したのでした。
東軍の徳川家康、西軍の石田三成はどちらも

と主張していたため豊臣秀頼と母・淀殿は中立的な立場を示していました。
戦いの結果、東軍の徳川家康が勝利します。その際、豊臣秀頼は徳川家康を忠義者として称えたとされています。
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徳川家との対立
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康。関ヶ原の戦いは秀頼公のためと主張していたにも関わらず、戦後処理において豊臣家の土地を関ヶ原の戦いの恩賞として勝手に東軍についた者たちに与えるなど勝手な行動を行うようになります。
徳川家康画像出典:Wikipedia
大阪城を去った徳川家康は独自の政権(後の江戸幕府)を構築するようになりました。その後、江戸幕府を開いた徳川家康は大阪城にいた豊臣秀頼と母・淀殿に対し徳川家に従うよう要求しましたが、母・淀殿は徳川家に従うことを頑固拒否し、それでも臣従を要求する徳川家に対し

と主張しました。
世襲制となった征夷大将軍の座
慶長10年(1605年)征夷大将軍に就任していた徳川家康が息子である徳川秀忠にたったの2年で将軍職を譲ります。たった2年で征夷大将軍の座を息子に譲ったのは

といったアピールのためでした。
しかし、豊臣秀頼の母・淀殿(茶々)や豊臣家はてっきり

と考えていたため、ますます豊臣家と徳川家の対立は深まることとなりました。
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徳川家康は

とずっと考えていました。
しかし、朝廷はというと豊臣秀頼が産まれた時から摂家豊臣家の後継者として豊臣秀頼を見なし、関ヶ原の戦い以降徳川家康が権力を握るようになっても、豊臣秀頼が関白になることのできる存在として豊臣秀頼を位置付けていました。そのため徳川家康は豊臣秀頼をどう扱えばいいのか迷っていたそうです。
しかし、ある事件がきっかけで徳川家康は豊臣家を滅ぼすことを決意します。その事件とは方広寺鐘銘事件です。
大阪の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘事件
方広寺鐘銘事件とは慶長19年(1614年)に起きた事件です。豊臣家が再建を進めていた方広寺大仏殿の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と刻まれていることに対し徳川家が

と文句を言い出したことから始まりました。豊臣家は決してそのような意味を込めて刻んだのではないと弁明しますが、徳川家は聞く耳を持たず和解策として

と言ってきました。
この要求に母・淀殿(茶々)と豊臣秀頼は激怒し大名や浪人たちを集め戦の準備に取り掛かりました。
豊臣家が戦の準備を始めたことによって徳川家も戦の準備を開始し、こうして大阪冬の陣が始まったのでした。
方広寺の鐘銘画像出典:Wikipedia
大阪の陣とは?
大阪の陣とは方広寺鐘銘事件がきっかけとなり始まった徳川家(江戸幕府)と豊臣家の戦いです。
大阪の陣とは
- 慶長19年(1614年)11月から12月にかけてに行われた大阪冬の陣
- 慶長20年(1615年)4月から5月にかけてに行われた大阪夏の陣
を総称したものとなっています。
大阪冬の陣
豊臣方に味方した大名家は1つもなかった
方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家の討伐を決意した徳川家康は全国の大名に呼びかけを行い、約20万人もの兵を集めました。
豊臣家もまた全国の大名に呼びかけを行いますが、豊臣家に味方した大名家は1つもなかったとされています。しかし、関ヶ原の戦いで西軍に味方していたために改易された浪人たちが豊臣家に味方することとなり、なんとか10万人の兵を集めることができました。
関ヶ原の戦いで負けた西軍の大名たちの多くは改易を受けていました。改易を受け浪人となった武士たちは大阪の陣をリベンジとして豊臣家に味方したとされています。
豊臣家に味方した主な武将として
- 関ヶ原の戦いで改易を受け浪人となっていた明石全登
- 関ヶ原の戦いで西軍に属していた後藤又兵衛
- 関ヶ原の戦いで西軍に属していた真田幸村
- 関ヶ原の戦いで西軍に属していた長宗我部盛親
- 関ヶ原の戦いで西軍に属していた毛利勝永
が挙げられます。
このような戦いに長けた武士たちがいた一方で、戦いに慣れていない傾奇者や傭兵なども多くいたとされています。豊臣軍はこのような寄せ集めの軍隊であったため、団結力はあまりなかったとされています。
一方で、豊臣軍よりも多くの兵力を持つ徳川軍は大名によって構成された軍であったため、勝利は目に見えているようなものでした。
大阪冬の陣は引き分けに終わる
大阪冬の陣ではいくつかの野戦が行われましたが、最終的には大阪城での攻防戦となりました。
豊臣秀頼たちが籠る大阪城は徳川軍約20万もの兵によって包囲されてしまいます。しかし真田幸村らの活躍によって徳川軍を撤退に追い込むことができました。(真田丸の戦い)
撤退に追い込まれた徳川家康は食糧と弾薬が尽き始めたこともあり、豊臣方に和議を申し込みました。慶長19年(1614年)12月18日
- 徳川方で徳川家康の側近・本多正純と阿茶局
- 豊臣方の使者である淀殿の妹・常高院(初)
との間で交渉が行われます。
この時に豊臣方は
- 本丸以外の二の丸、三の丸を取り壊し外堀のみを埋める。
- 豊臣秀頼の母・淀殿を人質として出さない代わりに、豊臣家の家臣・大野治長と豊臣家に仕えていた茶人・織田長益を人質に出す。
といった講和条件を提出しました。
これに対し徳川方は
- 豊臣秀頼の身の安全を約束
- 豊臣家に味方した浪人たちの罪は問わない
といった講和条件を出しました。
この講和条件をのんだ両者は20日に和平を結ぶこととなり、大阪冬の陣はとりあえず引き分けに終わったのです。
冬の陣布陣図画像出典:Wikipedia
大阪冬の陣の講和
大阪冬の陣が終わった後、徳川方は豊臣方の講和条件1である大阪城の外堀の埋め立てを始めました。
しかし、外堀を埋めた後、講和条件にはない内堀までも埋め立てを行ってしまいます。さらに徳川方は大阪城の二の丸、三の丸付近の堀も埋め立てたのでした。これによって大阪城は堀や砦のない攻めやすい城となってしまいました。
大阪城にいた豊臣家は大阪冬の陣が終わった後も豊臣方に味方した浪人たちを城内に留めていました。徳川方が講和条件において「豊臣家に味方した浪人たちの罪は問わない」と出していたため豊臣方は戦いが終わった後も浪人たちを城内に留めていたとされています。
しかし、慶長20年(1615年)3月、大阪城に留まっていた浪人たちが街で乱暴事件を起こします。それだけではなく伏見で放火事件を起こしたなどの噂もあり、徳川家は豊臣家に対し浪人の解雇、または豊臣家の移封を要求しました。
またもや対立
それに対し豊臣家は徳川方の要求を拒否、これによって再び徳川家と豊臣家は対立することとなったのです。
徳川家康は再び全国の大名に呼びかけを行い約15万5千もの兵を集めます。一方で、豊臣秀頼も呼びかけを行いますが7万8000の兵しか集められませんでした。しかも、大阪城の堀は徳川方によって埋められていたため、もはや豊臣家に勝ち目はなかったのです。
そのため徳川家康は

と言っています。
大阪夏の陣
そして始まった大阪夏の陣。徳川軍約15万に対し、豊臣軍約7万であったとされています。
「大坂夏の陣図屏風」 画像出典:Wikipedia
大阪夏の陣においても数々の戦いが行われました。
主な戦いとして
- 大野治房が徳川方の兵站基地である堺を焼き討ちにした樫井の戦い(慶長20年4月29日)
- 後藤又兵衛、薄田兼相らが討ち死にとなり徳川方に敗北となった道明寺の戦い(慶長20年5月6日)
- 木村重成が討ち死にとなり徳川方に敗北となった八尾・若江の戦い(慶長20年5月6日)
があげられます。
最後決戦、天王寺・岡山の戦い
慶長20年5月7日、大阪夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山の戦いが行われます。
この戦いに参加した徳川軍10万以上に対し、豊臣軍はたったの3万弱の兵力でした。勝負は目に見えていましたが豊臣方のの真田隊・毛利隊・大野治房隊の活躍もあり、徳川軍は一時混乱状態に陥ります。
しかし、混乱状態を立て直した徳川軍の反撃を受け豊臣軍は壊滅となり、生き残った豊臣方の者たちは大阪城本丸へと退却となりました。
この最終決戦で、真田幸村は豊臣秀頼に対し

と進めていたそうです。真田幸村は総大将である豊臣秀頼が共に戦場で戦えば士気は上がると考えていたのでした。しかし、豊臣秀頼の側近たちは戦場に向かわせることを許さず、結局、豊臣秀頼は大阪城本丸にいたのです。
夏の陣(天王寺・岡山合戦)布陣図画像出典:Wikipedia
豊臣秀頼の最期
大阪城に退却した豊臣軍でしたが、徳川方によって堀が埋められた大阪城は非常に攻めやすくあっというまに城内に徳川軍が押し寄せてしまいました。
城内からは火の手があがり大阪城は火に包まれます。炎上し落城寸前となった大阪城にいた豊臣秀頼と母・淀殿。
豊臣家の家臣である大野治長は淀殿と秀頼の助命を徳川家康に行いましたが、徳川家康はこれを拒否。

助命が許されることのなかった豊臣秀頼とその母・淀殿は慶長20年(1615年)5月8日、自害し亡くなりました。この時、豊臣秀頼は23歳。母・淀殿は48歳または49歳であったとされています。
実は薩摩に落ち延びた?
大阪夏の陣で自害し亡くなったとされている豊臣秀頼。豊臣家のために戦っていた真田幸村も大阪夏の陣で命を落としたとされています。
真田幸村画像出典:Wikipedia
しかし豊臣秀頼の最期を見届けた者はおらず、また遺体も見つかっていないことから大阪夏の陣で最期を迎えたのかどうかははっきりと分かっていません。
では豊臣秀頼は大阪夏の陣の後、どこにいたのでしょうか。
- 『鹿児島外史』には真田幸村は大阪夏の陣の後、豊臣秀頼を護衛しながら薩摩(現在の鹿児島)へと向かった
- 江戸時代に記された小説『真田三代記』には真田幸村や長宗我部盛親、後藤又平衞ら150人が豊臣秀頼とともに薩摩へと逃げた。
と記されており、また
- 鹿児島市下福元町には豊臣秀頼のものとされる墓
- 鹿児島県南九州市頴娃町には真田幸村のものとされる墓
があるため、豊臣秀頼は大阪夏の陣の後、真田幸村らとともに薩摩へと落ち延びたのではないかと考えられています。
他にも長崎県平戸にいたイギリスの商人であるリチャード・コックスが残した手紙の中には豊臣秀頼は薩摩・琉球へと逃げた。と記されるなど、豊臣秀頼が薩摩にいた可能性のある逸話が多数残されています。
大阪の陣での敗因は?
大阪の陣で徳川軍(幕府軍)に敗北した豊臣軍。なぜ豊臣軍は徳川軍に負けてしまったのでしょうか。
豊臣軍に味方した大名がいなかったから
豊臣秀頼は大阪冬の陣が始まると全国の大名に呼びかけを行いました。
しかし、豊臣家に味方した大名家は1つもなかったとされています。当時、天下人となっていたのは実質、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康でした。時はすでに徳川の時代であったため、豊臣家の力になろうと考えた大名はいなかったのです。
団結力がなく、優秀な指揮官がいなかったから
大名が集まらないながらも関ヶ原の戦いで西軍に属し改易となった浪人たちが豊臣家の味方となりました。
しかし、戦に長けているのはほんの一部の武将で、豊臣家に味方した多くの兵は傾奇者や傭兵といった者たちでした。寄せ集めの軍隊であるため団結力もなく、また軍をまとめる優秀な指揮官もいなかったのが敗因として考えられています。
大阪城の外堀、内堀を埋められてしまったから
大阪冬の陣の後で豊臣方が提出した和睦条件。この和睦条件のうち、「大阪城の外堀を埋める」という条件が敗因の1つとして考えられています。
もともと大阪城の外堀だけを埋めるといった条件を豊臣方は出していました。しかし、大阪冬の陣の後、徳川方によって外堀だけではなく内堀までも埋められてしまいます。
大阪城は堀に囲まれた城です。外堀だけでなく内堀までも埋められてしまうと簡単に攻められてしまうことは想像できたことでしょう。しかし豊臣秀頼は目先の和平ばかりを考え、「堀を埋められてしまえば簡単に攻められる」といったことまで考えていませんでした。
その結果、大阪夏の陣では外堀、内堀を埋められてしまったがために徳川軍の進軍を許してしまい豊臣軍は敗北を迎えてしまったのでした。
まとめ
大阪の陣で豊臣家は滅亡を迎えることとなりました。大阪の陣の敗因は①豊臣軍に味方した大名がいなかったから②軍隊の団結力がなく、優秀な指揮官がいなかったから③大阪城の外堀、内堀を埋められてしまったから、と考えらています。
この戦いで最期を迎えたとされている豊臣秀頼ですが、真田幸村とともに薩摩へと逃げたといった記録が多数残されています。また豊臣秀頼のものとされる墓も鹿児島に存在するため、もしかすると豊臣秀頼は大阪夏の陣の後、薩摩で生きていたのかもしれませんね。