【豊臣秀吉】農民から天下統一までの道のりや、辞世の句について紹介します

豊臣秀吉が”農民”という身分から”天下人”まで昇りつめました。なぜ、武将の血筋のない豊臣秀吉が天下統一まで出来たのでしょうか。これから豊臣秀吉の性格や、どのようにして地位を上げていったのか、豊臣秀吉の生い立ちから天下統一までの道のりとその後の死因や辞世の句も解説します。

豊臣秀吉の生い立ち

誕生から信長の家臣となるまで

侍を目指し、家を出て駿河国へ

1536年尾張国愛知中村で、百姓の木下弥右衛門と母のなか(後の大政所)との間に生まれました。※百姓ではなく織田家の足軽だという説もあります。
木下弥右衛門が秀吉の幼い頃に亡くなってしまいます。そして母のなかが竹阿弥と再婚しますが秀吉と竹阿弥は粗利が合わず、家を飛び出し、小売業などの行商をしながら 駿河国 へ向かいます。

木下藤良郎と名乗り、松本氏の家臣になる

松下之綱の肖像画

出典画像:Wikipedia

秀吉が初めて家臣に就いたのは、松本家の松下之綱の家臣です。松本家は今川家の陪臣です。陪臣とは、家臣の家臣の意味です。この松本之綱は引馬城の支城である頭蛇寺城主です。その頃は秀吉は木下藤良郎名乗っています。

松本之綱は、今川家の直臣である飯尾氏の配下 です。

松本之綱は、木下藤良郎の面倒を良く見てくれました。木下藤良郎に、学問や武芸や兵法まで教えこんでくれました。また木下藤良郎も、飲み込みが良く、任された任務をこなしていき、他の家臣たちよりも優れた人材になっていきます。すると、松本氏に仕える他の家臣からの妬みなどで統率が量れなくなってしまい、松本之綱は、木下藤良郎を仕方なくお金を渡し、城から追い出しました。

松本之綱は今川氏の後に徳川氏に就いていましたが、秀吉が天下をとった後は、恩返しに大名の地位にして松本之綱を頭蛇寺の近くの城を与えています。

織田家の家臣になるまで

松本之綱の元から去った藤良郎は、1554年(天文23年)尾張国春日井郡の領主であった織田信長 武家奉公人 として仕えます。そこで木下藤良郎は普請奉行や信長の身辺整理などに積極的に仕えます。

この時に有名な 「信長の草履を自分の懐に入れて温めておいた」という逸話が生まれます。
これから、どんどん実績を残し、家中の中から頭角を現し、織田信長はの目に止まるようになります。そして信長も藤良郎を「サル」と呼ぶほどに親しまれています。

1561年(永禄4年)秀吉は、浅野長勝の養女であり、杉原定利の娘の「ねね」と結婚します。

浅野長勝も秀吉も足軽組頭で同じ長屋で暮らしていので、秀吉は浅野家の入り婿としてねねと婚姻を結んだのではないかとも言われています。

足軽=武家で普段は雑用の仕事をしていて、戦では一番下級の兵のことです。

秀吉の功績:美濃国攻め

織田信長は 美濃国 を侵攻しようと準備をします。美濃国へ戦で勝負しようとしていましたが、美濃国には強勢な兵が大勢いますし、各諸将も豪力者揃いなので有名でした。そこで織田信長は、合戦をするのではなく、寝返り工作をすることにしました。その時に活躍したのが、木下藤良郎です。
1564年(永禄7年)美濃国の斉藤龍興と戦う時に、美濃の松倉城主である坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに降参するように仕向けるよう工作します。そして、斉藤氏についていた武将達も織田軍に寝返り、美濃国攻めを成功させます。

坪内利定宛てに誘降工作のお願いと所領や所職を保証する知行安堵状をを送っているが、そこに副署に【木下藤良郎秀吉】と記載されており、秀吉が信長の有力な武将となった事を指しています。

秀吉の功績:墨俣城を一夜で建設

墨俣一夜城跡に建てられた歴史資料館

出典画像:Wikipedia

美濃国の斉藤氏と戦うには、美濃国と尾張国の国境にある 墨俣 に拠点を置くのが重要でした。しかし城を建てるには多くの時間がかかります。城を建てる間に敵の攻撃に対応したりと、すぐには城を建てる事ができません。そこで墨俣城の築城の任命を受けた秀吉は、墨俣城を一夜にして完成させるという功績を残します。これが秀吉の逸話になっている墨俣一夜城建設です。

なぜ、一夜にして、完成したかというと、実際に建てた場所ではなく長良川の上流で城の部分毎に組立てます、それを川に流して城を建てる場所に簡単に運び、墨俣で部分毎に組み立てて完成させます。実際には城の材料調達や設計し、部品や城の部分毎に作成するのに5日~6日かかり、1日で現場に城を組み立てたのです。
こうして秀吉は、すごい閃きを活かし、任務をこなし功績をあげていきます。

秀吉の功績:戦でも大活躍

秀吉の戦での活躍は、というと、近江箕作城攻略戦でも勝利し、多々良浜の戦いには毛利元就からの支援要請に秀吉が応戦し、たった10日で18城落城する活躍をみせます。

そして、1570年(元亀元年) 越前国の朝倉義景 を討つ為に信長軍に従軍します。順調に進軍していた織田軍でしたが、北近江の浅井長政朝倉軍に寝返り、背後から織田軍に襲いかかります。この挟み撃ちで織田軍は絶対絶命のピンチでしたが、ここで秀吉は殿(しんがり)に自ら名乗り出て、池田勝正や明智光秀と共に戦い、軍を救い功績を挙げます。
殿=自軍が撤退する時に最後尾に就き、敵と戦う危ない役目。

この朝倉・浅井軍と織田軍の戦いを金ヶ崎の退き口または、金ヶ崎崩れとも呼ばれています。この戦いは戦国史上、最も有名な織田信長の撤退戦です。

この戦いに負けた信長は、その後戦力を整え再び、朝倉・浅井軍を討ちにいきます。姉川の戦いに勝ち、落城した 横山城の城代に秀吉が任命 され、志賀の陣で浅井軍との戦いに従軍します。その後、小谷城の戦いで、秀吉は3千の兵を率いて、夜に襲撃を開始し、谷の斜面から攻撃をし、京極丸を攻め落します。ここでも秀吉の斬新な戦略で浅井・朝倉軍との戦いに勝利し、沢山の功績をあげました。

城主になり大名にった秀吉

名前を羽柴秀吉に改名する

浅井氏が滅亡すると、信長は功績をあげた秀吉に、北近江三郡の今浜の地名を ”長浜” と改め、そこに長浜城を建て、城主にさせます。

そして名前も木下秀吉から【羽柴秀吉】に改名します。羽柴という苗字は、という織田氏の家臣である丹羽長秀と柴田勝家のような人材になりたいとの憧れから一文字づつもらい”羽柴”と名付けたと言われています。
そして、大名となった秀吉は近江より人材の発掘に励み、旧浅井氏の家臣や、石田三成などを積極的に採用し家臣にしていました。

織田政権で秀吉は勢力を増す

1576年、越後の上杉謙信と柴田勝家の手取川の戦いの時に、秀吉は援軍に行きますが、勝家と戦略について口論になり、秀吉は勝手に軍を撤退させてしまいます。その行為に信長は怒られましたが、その後の秀吉は、信長の怒りを鎮める為にも信貴山城の戦い、上月城の戦いや三木合戦、有名な城攻めの鳥取城の戦いと高松城の水攻めなど、数多くの戦いにも勝ち功績をあげていきます。これにより 「城攻めの名手」 と言われるようになりました。

天下統一の第一歩を踏み出す

織田信長の死

1582年(天正10) 京都の本能寺で織田信長が明智光秀の謀反にあい、自害します。
その時秀吉は、中国遠征に行っており、そこで信長の死の連絡を受けると、毛利輝元にはその知らせを教えずに、追い込んでいた 清水完治を切腹させ輝元と和睦 し、すぐさま京都に軍を向かわせます。

その備中高松城(岡山県)から京都までの距離をたった10日間で移動しました。これを中国大返しといいます。

そして、織田信長が亡くなって11日後に秀吉は明智光秀 山崎の戦い で勝利し、京都の支配権を獲りました。この戦いで、池田恒興や丹羽長秀と中川清秀や高山右近までもが、秀吉に就いた為、秀吉の勢力が増し勝利します。秀吉はその後、光秀派の武将達も全員滅ぼします。

清州城会議

清州城の画像

出典画像:Wikipedia

1582年6月27日 清洲城 で、信長の後継者と遺領の分割を決める為の会議が開かれました。この会議を【清州会議】と言います。

織田家の重臣である柴田勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に挙げますが、秀吉は、信長の嫡男で織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推します。池田恒興や丹羽長秀らが秀吉の意見を支持し、まだ幼い三法師の後見人として信孝を任命するという案を出したので、勝家も秀吉の意見に賛成し、 三法師が後継者 となりました。

柴田勝家と対立

柴田勝家の肖像画

出典画像:Wikipedia

秀吉が宝寺城を建築していき、山崎と丹波で検地をして、織田家の大名と私的に親しくすると提携を結んでいくので、秀吉と柴田勝家の対立が激しくなります。柴田勝家は織田信考達と共に、諸大名に対して秀吉への弾劾状をまき散らし、諸大名との信頼を崩そうとします。 ※弾劾状とは、不正や罪過をあばいて、責任を追及することです。

これに対し秀吉は、信長の四男(養子)羽柴秀勝を喪主にして、信長の葬儀を行い、切り抜けます。
それから、秀吉は雪で動けないのを計算して越前の勝家を討つ為に50,000の兵を連れていきます。まず、柴田勝家の養子である柴田勝豊の居城の長浜城を包囲します。柴田勝豊は勝家と不仲で自身も病気であった為、秀吉にすぐに降伏してしまいます。

秀吉は 美濃 に侵攻していきます。秀吉軍に織田信雄軍が合流して兵力が増大します。そして信考の家臣の長である、斉藤利堯の居城の治木城を攻めて勝利します。こうして、織田信考は岐阜城に孤立してしまいます。信孝は三法師を秀吉に渡し、更に母と娘を人質として差し出して許しを得ます。

柴田勝家に勝利

1583年、柴田勝家と同じく反秀吉派の滝川一益によって、伊勢峰城や関城、伊勢亀山城が落とされ、秀吉も反撃に出るもの及ばず、別部隊も長島城や中井城にを守りに行きますが、滝川勢に敗退してしまいます。

その後、柴田勝家は前田利長を先頭に出陣させ、後から勝家自らも30,000の兵を連れて出陣します。これに秀吉も対抗し、にらみ合いが続きます。しかし秀吉の支配下にいた柴田勝豊の家臣、山路正国が柴田勝家軍に寝返り、当初は勝家軍が優勢でしたが、勝家の家臣の佐久間盛政は、秀吉が織田信考を討つために美濃に向かう隙に奇襲し、秀吉軍が敗退します。

勝利した佐久間盛政は、勝家の撤退命令を聞かずに対陣を続け、引き換えしてきた秀吉の反撃と、前田利家の裏切りにり柴田軍は大敗してしまいます。柴田勝家も越前に撤退します。その後、勝家は正室のお市の方と自害してしまいます。

その後秀吉は 加賀国と能登国を平定 し、自分に力を貸した前田利家に与え、前田氏は金沢城を建て、居城します。そして織田信孝を自害させ、滝川一益の反秀吉派を降伏させました。そして柴田勝家に勝利した秀吉は織田信長の家臣をそのまま引き継ぐ事ができ、天下統一まであと一歩のところまで来ます。

1583年(天正11)に、秀吉は大阪にある、石山本願寺の跡地に大坂城を築きます。

豊臣秀吉、ついに天下統一する

徳川家康と最初で最後の戦い

長久手古戦場

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織田信長の次男の織田信雄が同盟を組んでいた徳川家康協力を頼み、秀吉に対抗します。
兵の数では秀吉が10万、織田・徳川軍は3万の兵で、秀吉の圧倒的に有利でしたが、野戦に強い徳川家康に、 羽黒の戦い、小牧の戦い も長時間にらみ合いを続けます。

にらみ合い中に、秀吉は、甥である信吉(豊臣秀次)を総大将にして森長可や池田恒興らが三河へ進軍していくと、家康もその動きを察知し、攻撃をしかけられた池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦うことなく亡くなってしまいます。この戦いを 長久手の戦い と言います。

豊臣秀吉 
自分の方が有利ではあるが、野戦に強い家康との戦いは、最初に動いた方が負ける

織田信雄と講和する

秀吉の方が圧倒的な兵力がありますが、家康の戦の巧さを知っている秀吉は、家康との合戦を避け、信雄と講和させる為に動き出します。

秀吉は加賀野井城など、信雄の本領である美濃や北伊勢の諸城を次々と落城してゆき、追い詰められた信雄は、秀吉と講和します。信雄と秀吉が講和してしまえば、徳川家康も戦う理由がない為、ここで争いも終結です。徳川家康も講和の為に、家康の次男を養子という名目の人質に差し出しています。後の結城秀康です。

豊臣政権の確立し各地平定

織田・徳川連合軍との戦いの間ではありますが、秀吉は朝廷に認められ官職を与えられています。1584年に大納言→1585年には内大臣に就いています。そして、1586年に豊臣の姓を改め、太政大臣に就任します。こうして秀吉は 【豊臣秀吉】言う名前になり、豊臣政権が始まります。

島津義久の像

出典画像:Wikipedia

その後、豊臣秀吉は、越中紀州四国統一している長宗我部元親に対し、大軍を送り身分を土佐一国の大名に降格させるなどして、戦わずに平定していきます。そして九州では島津義久が統一を図っています。秀吉は戦わないで平定しようとしますが抵抗され、戦うことになります。弟の秀長と黒田孝高(通称:黒田官兵衛)のおかげで島津軍を降伏させます。
こうして、秀吉は 西日本統一 に成功します。

小田原城で後北条氏を滅ぼす

小田原城

出典画像:Wikipedia

西日本統一して、残すは関東の強敵である後北条氏をを服従させることでした。

秀吉は、妹の朝日姫を徳川家康の妻にしています。その為、徳川家康も秀吉の支配下となっています。

1589年(天正17)後北条氏の家臣である、猪俣邦憲が上野国名胡桃城を奪い取った事で、秀吉は大軍を率いて関東に出陣します。後北条氏の居城の 小田原城 を包囲しました。この包囲は約3カ月もの長い期間実施されています。追い詰められた後北条氏たち、北条氏政と氏照は切腹し、北条氏直は高野山に追放されました。こうして 小田原城は無傷で秀吉によって落城されました。

徳川家康は北条氏が滅ぼされると、領土は関東に移され、石高は倍増になります。

こうして、豊臣秀吉は天下統一を果たし、戦国時代を終わらせます。

豊臣秀吉の最期

1593年(文禄2年)に側室の淀殿秀頼を産みます。秀吉は、新築の伏見城に母子と共に移り住みます。
秀頼の誕生に焦ったのは、豊臣秀次 です。

豊臣秀次
このままだと秀頼に関白の座を奪われるのではないか
ここから秀次は情緒不安定になっていき、乱行した為、秀吉は秀次の家督継承の権利を剥奪し、更に高野山に追放、切腹をさせました。
そして1598年徳川家と秀頼の護り役・前田利家に全てを託して伏見城中で亡くなりました。享年61歳です。詳しい死因は解らず、通夜、葬儀は行われませんでした。

豊臣秀吉の辞世句

秀吉の辞世句は

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
訳:露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく。大阪城で過ごした日々は、夢の中で、夢を見ているようなことだった。

苦しい農民時代から、工夫を凝らして天下統一するまで昇りつめた秀吉は、きっと満足してこの世を去ったのではないかと思います。

まとめ

いかがでしたか?
豊臣秀吉の生い立ちから天下統一まで成し遂げられたのは、やはり秀吉の機転が効く事で成し得た実績です。農民という身分から武将になれたのは、織田信長が概念に捉われない性分であり、織田信長との出会いが全ての始まりです。辞世句を見ると秀吉は天下統一まで昇りつめ、人生に悔いなくこの世を去れたと思います。

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