【豊臣秀吉】は城攻めの名人!?城攻め・城作りについて紹介します

豊臣秀吉は百姓から戦国武将になり、天下統一を果たしました。この秀吉の出世は 戦国ロマンと呼ばれ、ファンが多いです。秀吉が出世出来たのは、奇抜な発想で織田信長に仕え、戦で成果を挙げたからです。
それは、豊臣秀吉はお城作りや城攻めの名人と呼ばれていました。豊臣秀吉が行った大坂城を含め、城作りの方法や城攻めで実施して大きな成果を挙げた高松城水攻め、鳥取城の渇殺し、三木の干し殺しと呼ばれる兵糧攻めについて解説します。

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豊臣秀吉の生い立ち~天下統一まで

  • 1536年(天文6)百姓である父・木下弥右衛門と母なかとの間に生まれます。
  • 1554年(天文23)清州城主の織田信長の小物として仕えるようになります。
  • 1561年(永禄4)浅野長勝の養女である、ねねと結婚します。
  • 1572年(元亀3)羽柴秀吉と改名します。
  • 1573年(元亀4)長浜城の城主になります。
  • 1577年(天正5)織田信長から命令され、秀吉を主として中国攻めが始まります。
  • 1582年(天正10)本能寺の変で織田信長が亡くなります。
  • 1586年(天正14)当時の天皇である正親町天皇から豊臣の姓を頂き、太政大臣に就任します。
  • 1591年(天正19)天下統一を果たします。

秀吉とゆかりの深いお城や有名な城攻めエピソード

秀吉が建てたお城

墨俣一夜城

墨俣一夜城_歴史資料館

出典画像:Wikipedia

秀吉が建てたお城で有名な逸話となったのが墨俣一夜城です。尾張国の信長が美濃国に侵攻する際、美濃と尾張の境にある墨俣に城を築き、拠点を持つ事が重要でした。しかし、美濃国の敵に対応しながら城を建てるには時間がかかりすぎていました。

そんな時、秀吉が 墨俣川(現在は長良川)の上流で、城の一部分づつ作成し、墨俣の拠点で組み合わせて建てるという奇抜な発想 で、一夜にして墨俣城を作ったといわれています。実際には上流で7日ほどでパーツを作り、拠点に一夜で組み立てたと言われています。

お城をパーツごとに作り組み立て方式にしたのは、拠点に動きが無ければ、敵から攻められることもありませんし、川の上流で城のパーツを作ったので、パーツを川の流れで運ぶ事が出来たので労働力もそこまでかからないと考えたからです。

秀吉はこうして知恵と発想を行動にして、大きな功績を挙げていきます。

拠点とする大阪城

豊臣期の大坂城と城下町が描かれた絵

出典画像:Wikipedia

1583年(天正11)に大阪城の建築が開始されます。城主の居所である本丸を造るのに約1年半もの期間を費やしてつくります。また秀吉が存在している15年もの期間をかけて、大坂城を鉄壁の守りの巨大なお城にしていきます。秀吉は城の外から中まで黄金をふんだんに使用して、とても派手な城になっています。秀吉は大坂城の城下町もつくり、この城下町が先駆けとなり江戸幕府でも城下町が造られたといいます。

秀吉が亡くなった後、大坂城は徳川家康に落城され、遺構となり、現在、豊臣の大坂城は埋没してしまっています。

秀吉の有名な城攻め

秀吉は城の中に突進して斬って斬って斬りまくるというような戦い方はせずに、戦略を立てて戦います。その方法が、【兵糧攻め】です。お金と時間はかかりますが、確実に相手を倒し、自分の兵力が劣らない戦術です。この戦術は、秀吉と秀吉の付いていた軍氏の黒田官兵衛が考え出したものです。

三木の干殺しと呼ばれた三木合戦

三木城包囲図

出典画像:Wikipedia

1578年(天正6)から1580年(天正8)まで続いた、織田氏と別所家の戦いです。別所家は最初織田氏に就くことにしていましたが、毛利氏と友好関係を築いていた為、織田氏から毛利氏へ寝返ってしまいます。それにより織田が別所家を含めそこについた諸将たちと合戦を行うことにします。その合戦を任されてたのが秀吉です。

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別所家は播磨三木城に、7500人もの兵を連れて籠城する作戦にでます。そこで、秀吉は兵糧攻めを実行します。

兵力は多い別所家ですが、籠城するには人数が多く、兵糧不足になる事は明らかでした。友好関係を結んでいる毛利軍が海から兵糧を補充をし、支城に運ばれ、三木城に補充されます。そこで、秀吉と黒田官兵衛は支城を落としていき、補給ルートを潰していく作戦にでます。途中、毛利氏との戦いであった上月城の戦いでは、落城させる事に1回目は失敗しましたが、2回目は落城させます。また織田氏の武将である荒木村重が毛利側に離反してしまい、有岡城に立て籠もります。有岡城が出来たことから補給ルートは確保できましたが、兵糧不足のままです。

有岡城にいる荒木氏を説得しにいった黒田官兵衛が捕虜のように監禁されてしまいます。

兵糧不足で危機に面していた別所家は、秀吉の本陣の平井山へ2500もの兵を送りますが、失敗に終わります。そして秀吉は、有岡城と三木城の間にある淡河城を落城させ、ルートを無くします。その後、毛利氏側についていた武将が寝返るなどして毛利軍も別所家に援軍を出す事ができず、有岡城も織田軍に落城されます。

1580年(天正8)別所家が籠っている三木城の兵糧がついに無くなります。三木城では数千人もの兵が餓死してしまい、城主である別所長治が降伏します。切腹する代わりに城に残っている兵達を助けてほしいと懇願し、長治一族全員が切腹して約2年の兵糧攻めが終わります。

この三木城の兵糧攻めの悲惨な結果を受けて、【三木の干殺し】と呼ばれるようになります。

鳥取城の飢え殺し

鳥取城の石垣

出典画像:Wikipedia

1580年(天正8)織田信長から 中国攻め を命じられた秀吉は、山名豊国が城主である鳥取城を包囲し、3ヶ月の籠城戦に兵糧攻めで織田方に降伏し勝利します。しかし、その後因幡山名家の家臣が山名豊国を追放し、毛利家につきます。それにより、秀吉は2回目となる鳥取城を包囲し、兵糧攻めを行います。

この時、鳥取城の城将に牛尾春重、城主に毛利家の重臣の吉川経家です。

秀吉の鳥取城の兵糧攻めのやり方は、秀吉は鳥取城の付近にいる農民を2000人以上を鳥取城に追いやります。 また 若狭国から商船を因幡に送りこみ、米を高い値段で買い、全ての米を買い占めてしまいます。河川や海からの毛利側に兵糧ルートも潰します。城に籠る人数を増やし、徹底的に兵糧を断ちます。

鳥取城には20日分の兵糧しか用意していなく、すぐさま鳥取城内は飢餓状態になります。城内にいた家畜や雑草なども食べ尽くしてしまい、包囲から4ヶ月程経つと餓死する者が続出します。

この時の様子を、下記のように記されています。

「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」
更に、食べるものが無く、負傷した人間を食べる行動もあったとも記録されています。

そして、吉川経家も切腹の代わりに城兵と農民達を助けてほしいと条件をつけ、この鳥取城の戦いが終了します。

鳥取城の戦いは、本当に凄惨な結果なので、【鳥取城の飢え殺し】と呼ばれています。

高松城の水攻め

備中高松城水攻め堰堤跡から発掘された蛙ヶ鼻堰堤基礎部分

出典画像:Wikipedia

備前岡山から先は毛利家が支配しています。備前・備中の境で織田軍と毛利軍が攻防戦をしていました。1582年(天正10)に秀吉は30000もの兵を連れて高松城を包囲します。

当時の毛利軍の勢力は強く、毛利輝元が率いる40000人もの援軍が向かっているという知らせが届き、急いで高松城を落とす必要がありました。しかし、 高松城は平城で低湿地の場所に建てられており、沼地などが邪魔をして鉄砲や騎馬戦に強く、不落の城で有名 でした。

そこで秀吉と黒田勘兵衛は、 足守川の水をせき止めようと堤防を造る ことにします。この秀吉たちが建てた堤防は堅固で長い堤防で高さは標高5mほどであったといわれています。この様子をみていた高松城内では城攻めに備える準備を開始します。

堤防工事の人手を増やす為に、農民にとても高い報酬を与えたおかげで人材が集まり、この堤防は堤防工事着手から12日と短い期間で完成します。さらに、梅雨の季節で足守川が増水し、200haの湖ができ、高松城は湖に浮かぶ孤島のようになります。

200ha=縦2000m×横2000mの大きさです。

秀吉は堤防の上から城内の様子を監視していました。高松城内では堤防が完成するのも早く、物資の補給ルートが完全に断たれてしまいます。城内にも水が浸入してきてしまった事と、援軍も来れない状況になってしまいます。毛利輝元は、高松城の近くの猿掛城に本陣を置きましたが身動きがとれず、このままでは織田軍の援軍も到着してしまう状況になり、秀吉と講和して、城主の清水宗治を切腹させて戦を終わらせます。

これが、有名な【備中高松城の水攻め】です。

まとめ

いかがでしたか?
秀吉の戦術はいつも奇抜な発想で、敵を混乱させて様々な戦を勝ち進んでいました。刀で切り合う戦を好まない秀吉は、黒田官兵衛の知恵と合わさり 兵糧攻め を行います。
刀で斬り合う合戦も悲惨ですが、時間と労力をかけ、敵陣を餓死させる戦法もとても悲惨な光景だったと思います。

また、不落の城と言われている備中高松城も低湿地のおかげで騎馬戦の攻撃に強かったはずが、秀吉と黒田官兵衛の予想出来ない戦術で、強みの地形が仇となります。
このように歴史に残る城攻めを行った秀吉は、城攻めの名人といっても過言ではありません。

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