ホトトギス3つの俳句『鳴かぬなら~』個性がおもしろい!戦国三武将の業績や性格の象徴!

戦国三武将である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を日本の渡り鳥であるホトトギスを用いて歌っている俳句があります。この戦国三武将の性格等を表したホトトギスの俳句は、出だしが全て【鳴かぬなら】から始まります。この各武将に宛てた俳句と、詠まれたエピソードも紹介します。

織田信長【鳴かぬなら殺してしまえホトトギス】

織田信長の肖像画

出典画像:Wikipedia

織田信長の俳句は”殺してしまえ”と、とても非情な性格を表しています。なぜこのように詠われたのか、解説します。

織田信長の性格とエピソード

織田信長の業績

織田信長は 既存の概念に捉われず、新しい物好き です。斬新な発想を、信長の独断で行動を起こし、行政から軍事まで革新的な改革をしています。

能力があれば身分は関係ない。

織田信長は、肩書き等、関係なく戦に強い、戦略がずば抜けているなど、能力が高ければ重臣に採用もします。明智光秀や豊臣秀吉も織田信長と血縁も関係なよその者ですが、能力が高かった為、地位を与えられています。

経済改革に取り組む

織田信長は、街道を整備して、一定の間隔で茶屋や休憩所を設置しました。それにより、戦で長い距離を移動しやすくなるので兵力が落ちません。また商人達も移動しやすく商業も活性化します。

貨幣を統一し、更に城下内で、自由取引する場所【楽市楽座】を実施したおかげで商業が発展します。そして通行税も廃止したので物品の流れが良くなり、税収入が大幅に増え、織田信長は財政が豊かになります。

徴兵制度を改める

織田信長の軍隊が数が多くなり強くなり、天下統一まであと少しの所まできました。その理由は、【兵農分離】を行い、戦力が上がった為です。兵農分離は農民は税を納める為、農作物や米を作ることに専念し、軍兵は戦にだけ集中するという政策を行います。

そうすることにより、経済は安定し、戦にかかる費用や鉄砲などの新しい武器や防具の調達できます。軍兵も戦が無い時には武力を学びレベルが上がります。

このように、織田信長は 概念に捉われない発想と行動力で、経済政策や軍事制度を改革 していきました。こうして兵力を拡大し強くしていったので天下統一まで少しのところまできました。

織田信長の性格が残忍と言われた理由

比叡山の焼き討ち

織田信長は、自分に逆らう物、裏切る者は徹底的に攻め、殺してしまいます。残忍なエピソードで有名なのが比叡山の焼き討ちです。比叡山は、信長と対立していた浅井・朝倉連合軍をかくまりかばい続けたことがきっかけで比叡山の焼き討ちが起こります。そして、織田信長は寺や霊社等全てを焼き払って比叡山が1日で灰になったと言われています。

浅井・朝倉の軍や僧侶以外の老若男女問わず全員を惨殺していきます。「悪い僧侶だけを殺して私は助けてくれ」とお願いした高僧らの声も無視し、高僧らの首を討ち落としたとあります。「比叡山の山麓には数千の屍があふれ、この世のものとは思えない光景で哀れだ」といった言葉があり、これは比叡山の焼き討ちがいかに残忍で悲惨だったかが表わしています。

その他にも残忍な戦いがいくつもある

織田軍はとにかく、兵の数もおおく、武力も備わっています。長島一向一揆攻めも、長島一向一揆勢は降伏をしましたが、やはり織田信長は許さずに、1000人を切り殺し、2000人を焼き殺すという悲惨な殺し方をします。

越前一揆勢は山に逃げ込みますが、誰一人男女問わず殺戮せよと命じ、隅から隅まで全員みつけて殺害します。天正伊賀の乱や荒木一党惨殺も、信長の指示に背いたり逆らった者のいる場所の子供から老人、男女問わず全ての人々を殺戮します。

こうして、信長の命令に背いたり、逆らった者はどんなに降伏しても許さず、敵の勢力は子供でも誰でも残忍に殺していきます。その様子から、

織田信長=鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス と詠まれました

豊臣秀吉【鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス】

豊臣秀吉の肖像画

出典画像:Wikipedia

豊臣秀吉の俳句は、”鳴かせてみせよう”と、秀吉の知的で、容量の良い性格を表しています。なぜこのように詠われたのか解説します。

豊臣秀吉の性格とエピソード

豊臣秀吉の政策

豊臣秀吉は、織田信長が政策はほぼ受け継ぎます。豊臣秀吉が行ったのは、【太閤検地】という全国の検地で尺の統一を行います。そして全国の税制を石高に統一しました。

豊臣秀吉の時代の年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていた為、農民が一揆を起こさないように【刀狩り】をしました。

豊臣秀吉の性格や戦い方

豊臣秀吉は 「人たらし」 と言われ、人を惹き付ける魅力があり、織田信長にも気に入られ、農民の身分から天下統一する武将にまで昇っていきました。

農民から這い上がった豊臣秀吉の戦い方は「戦わないで勝つのが最善」 という考えです。兵の中には多くの農民が戦に出て亡くなってしまいます。秀吉自身も戦により、貧困になったり命が危うくなったこともあった為、人が死なないように、無駄な戦いをしないように努めます。

また秀吉は 「斬るのが嫌い」 と刀で斬るのを嫌っていた為、敵を人質を取ったり、敵軍と政略結婚をさせたりと戦を回避するようにしたり、戦では、兵糧断ち作戦や秀吉の条件通りに降伏をさせていました。

豊臣秀吉は農民から天下人となったのは、気に入られる為に知恵を使い、そして織田信長が築きあげてきたものを上手く引き継ぐ要領の良さから

豊臣秀吉=鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス と詠われました。

徳川家康【鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス】

徳川家康肖像画

出典画像:Wikipedia

徳川家康の俳句は、”鳴くまで待とう”と、家康の不運なことがあっても、天下を取るまではひたすら耐えて待つという忍耐の強い性格が表されています。なぜ、このように詠われたのかを解説します。

徳川家康の性格とエピソード

徳川家康の政策や戦い方

徳川家康は、豊臣秀吉の天下統一したはそのまま受け継ぎます。そして、政策も織田信長と豊臣秀吉の良い政策だけ引継ぎ、同じ失敗を犯さないようにします。まず、徳川家康は信頼を置いている家臣を居城である江戸城の近くの土地を渡し住まわせていきます。

逆に従わない者、信頼出来ない者は地方に飛ばし領地を与えます。そしてこの各諸大名が力を増す事がないように、土木工事などの普請をさせます。裏切り行為がないようにと秀吉の政策を真似て諸大名の妻子を江戸城下町に住まわせます。家康は重臣の妻子までも住まわせ、下剋上対策をします。

豊臣秀頼が率いる巨大勢力は、いつ害が及ぶか解らないので、家康が70歳過ぎて力が残っているうちに 大阪の陣 で滅ぼします。これにより、不安材料が無くなり江戸幕府が260年も続いたと言われています。

徳川家康は農本思想です。農本思想というのは、食糧の確保は重要であり農業の保護を重視する政治のことです。このことにより、農民から一揆が起こることもなく、諸大名達からの下剋上も無くします。

これにより 徳川家康が天下統一すると、戦いが亡くなり、戦国時代が終わった のです。

徳川家康が天下を取るまで

織田信長が亡くなった後、豊臣秀吉が先に明智軍を倒した為、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げました。徳川家康は野戦においては、1敗した以外全て勝利していますので、とても強い武将です。豊臣秀吉が天下人になっている間に攻めても勝っていたかもしれませんが、家康は天下とる為といっても、攻めることはしませんでした。

とにかく、天下を取れる時期がくるのを待ちつづけ、豊臣秀吉が亡くなったら、そこから戦わずして天下統一を成し遂げます。その様子から

徳川家康=鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス と詠われました。

戦国三武将の俳句 まとめ

いかがでしたか?

この鳴かない ホトトギスは、天下を邪魔するものの喩 だとわかります。そのホトトギスに対し、織田信長は、裏切り行為は絶対許さずに殺戮する様子が詠われ、豊臣秀吉は、農民からの下剋上で天下人になった、それまでの知恵と容量の良さが詠われています。徳川家康は、とにかくチャンスを待ち、戦わずして天下を取った様子が詠われていました。このホトトギスを用いた俳句は、戦国三武将の性格や天下統一するまで行いが上手く詠まれていて、とても楽しい俳句です。

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