【藤原不比等】とは何者?日本書紀や大宝律令との関わりや、長屋王との関係についての謎を解きます

藤原不比等とは飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した人物です。日本史の授業で習った方が多いかと思いますが、あまり目立った歴史人物ではありません。それもそのはず、藤原不比等が『日本書紀』に初めて登場したのは31歳の頃からでした。中臣鎌足の息子とされる藤原不比等は日本で初となる律と令が揃った「大宝律令」を編纂し、天皇家と関係を深めるなどし、権力を掌握した人物です。

また後に長屋王の変で自殺に追い込まれる長屋王にも娘を嫁がせるなどしました。しかし実は藤原不比等には天智天皇の落胤ではないかといった出生の謎が存在します。
今回はそんな藤原不比等の生涯や「大宝律令」の編纂の経緯、また長屋王との関係性や出生の謎、墓などについてご紹介します。

 

藤原不比等とは

藤原不比等は斉明天皇5年(659年)中臣鎌足と与志古娘の次男として誕生しました。

父・中臣鎌足の功績

父である中臣鎌足とは、藤原不比等が誕生する前に、当時政治主導権を掌握していた蘇我入鹿を暗殺した1人とされる人物です。

中臣鎌足の肖像画
出典画像:wikipedia

その功績から軍事指揮権を握ると中大兄皇子とともに大化の改新を推進しました。

大化の改新とはこれまで政治主導権を握っていた蘇我氏を排除し、天皇中心の律令国家を目指すために中大兄皇子が行った政治改革のことです。

大化の改新を中大兄皇子の側近として推進する中で、保守派の左大臣・阿部倉梯麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂と対立しましたが、2人が亡くなると勢力を伸ばし、藤原不比等が生まれる少し前の白雉5年(654年)頃には大紫冠と呼ばれる位に昇進しました。

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藤原不比等の出生の謎

中臣鎌足から誕生したとされる藤原不比等ですが、実は、天智天皇の落胤ではないかという天智天皇の皇胤説があります。

落胤とは地位・身分の高い男性が密かに正室ではない女性に産ませた子供のことをいいます。

歴史書である『大鏡』に、天智天皇が当時、藤原不比等を妊娠中であった女御に対し、「生まれた我が子が男子なら女御の子供とし、生まれた我が子が女子なら、朕の子供として育てる」と述べたと記されています。実際誕生したのは、男子である藤原不比等であったため、藤原不比等は天智天皇の子供として育てられたとされたと考えられたのです。

藤原不比等は天智天皇の落胤であったという伝説は平安時代まで信じられていたとされていますが、現在では藤原不比等の父親は天智天皇であったとは考えられていません。しかし、藤原不比等の父が天智天皇であったという明確な証拠もなければ、父が天智天皇ではないという明確な証拠はないため、藤原不比等の出生は謎のままです。

天智天皇の肖像画出典画像:wikipedia

 

下級官人としてキャリアスタート

そんな中臣鎌足の次男として誕生した藤原不比等でしたが、藤原不比等が11歳の天智天皇8年(669年)10月16日、父・中臣鎌足が亡くなります。13歳の頃には壬申の乱が勃発します。壬申の乱とは天智天皇の太子・大友皇子に対し地方の豪族を味方につけた皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が反旗を翻した争いです。
この戦いで皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)は反乱者となったのですが、反乱者が勝利するといった異例の結末に終わりました。

藤原不比等の同族は天智天皇の味方に付いていたため、壬申の乱によって多くの同族が処分される結果となりました。この時、藤原不比等は13歳とまだ幼かったため、事件には関与しておらず処分は免れます。しかし、親族の多くが処分されたため、藤原不比等には後ろ盾がなく下級官人の身分となったのでした。

 

草壁皇子に仕える

下級官人のキャリアでスタートした藤原不比等は従兄弟の中臣大嶋とともに草壁皇子に仕えます。

従兄弟の中臣大嶋の父は中臣渠毎です。草壁皇子は父・天武天皇、母・持統天皇の皇子です。

『日本書紀』

実は「藤原不比等」の名前が登場するのは藤原不比等が31歳の頃からです。
これまで、下級官人という身分であったため、書物に名前が記されることはありませんでした。藤原不比等の名前が初めて登場したのは『日本書紀』です。

『日本書紀』とは奈良時代に成立した日本の歴史書です。

日本書紀の画像出典画像:wikipedia

『日本書紀』によると持統天皇3年(689年)2月26日、この時、31歳であった藤原不比等は縁がったこと、また文筆の才能があったため草壁皇子に仕えるようになったと記されています。

 

大宝律令の編纂

文武天皇元年(697年)藤原不比等が仕えていた草壁皇子の息子・軽皇子が祖母である持統天皇から譲位され即位します。これによって草壁皇子の息子・軽皇子は文武天皇(第42代天皇)と呼ばれることとなりました。

その後、藤原不比等は「大宝律令」を編纂します。この「大宝律令」とは唐(当時の中国)の律令を手本とし編纂され成立した日本初の律令です。

律令とは刑法(律)、それ以外の法律(令)などを合した法体系のことを指します。

持統3年(689年)6月に飛鳥浄御原令が制定されましたが、この飛鳥浄御原令はまだ刑法(律)は記されておらず、それを補うために律令の編纂が行われ続けていました。唐(当時の中国)の律令を手本に勧められた編纂には藤原不比等の他に

  • 刑部親王
  • 粟田真人
  • 下毛野古麻呂

が関わったとされています。この「大宝律令」は大宝元年(701年)に完成しました。「大宝律令」の編纂を行った藤原不比等は朝廷から評価を受け、政治の表舞台に登場することとなります。

 

天皇家と関係を深める

藤原不比等は持統天皇が譲位する直前頃に阿閉皇女(元明天皇)付き女官であった後妻・橘三千代と婚姻関係になっていました。しかし藤原不比等は橘三千代と婚姻関係を結ぶ以前に、蘇我娼子と呼ばれる女性を妻としていたとされています。蘇我娼子と蘇我不比等がいつ婚姻関係を結んだのかは分かっていませんが、蘇我娼子は橘三千代と婚姻関係を結ぶまでに亡くなったとされています。

簡単にまとめると、蘇我娼子は藤原不比等の先妻、橘三千代は藤原不比等の後妻ということです。また他にも五百重娘、賀茂比売と呼ばれる女性と婚姻関係を結んでいました。

聖武天皇の誕生

そんな女官・橘三千代と婚姻関係を結んだ藤原不比等はその立場を使用し、朝廷と強い関係を結びます。また先妻・賀茂比売との間に誕生した藤原宮子を文武天皇に嫁がせました。藤原宮子と文武天皇の間には首皇子(聖武天皇)が誕生します。

聖武天皇の肖像画

出典画像:wikipedia

これによって藤原不比等は天皇の祖父という立場を手にしました。さらに、後妻・橘三千代との間に誕生した光明子を首皇子(聖武天皇)に嫁がせるなどし、藤原不比等は天皇家とさらなる結びつきを得たのです。

このように天皇家との関係を強くした藤原不比等は51歳となった和銅元年(708年)に右大臣に任命されました。

 

長屋王との関係性

また藤原不比等には他にも女性がいたとされていますが、その間に誕生した娘・藤原長娥子が太政大臣・高市皇子の長男・長屋王に嫁ぎます。藤原不比等を妻の父として持つ長屋王は 草壁皇子と元明天皇の娘・吉備内親王も妃としており、これらの関係で優遇されることとなり、長屋王は養老2年(718年)に大納言という地位に昇進しました。

藤原不比等は娘の夫となった長屋王に対し、優れた政治的能力を期待していたとされ、優れた政治家にするため、長屋王を大納言に昇進するよう手をまわしたとされています。

長屋王とは太政大臣・高市皇子の長男です。

後に藤原不比等が亡くなると右大臣に就任し、政界の主導者となりました。

 

藤原不比等の最期

右大臣となった藤原不比等は養老律令の編纂作業を開始しましたが、完成を目にすることはなく養老4年(720年)に62歳で病死しました。藤原不比等が完成を目にすることができなかった「養老律令」はその後、孫にあたる藤原仲麻呂の時代に施行されたとされています。

 

藤原不比等の墓

藤原不比等は死後、養老4年(720年)10月23日、「淡海公」という名前が与えられました。藤原不比等の墓は3か所あると考えられています。

  • 奈良県桜井市多武峯にある談山神社の十三重塔婆
  • 同じく奈良県桜井市多武峯にある多武岑墓
  • 奈良市法蓮佐保山にある西淡海公・東淡海公の二基の墳墓

まとめ

いかがでしたか?藤原不比等は下級官人としてキャリアスタートし、草壁皇子に仕えると「大宝律令」を編纂、また娘を嫁がせ天皇家と関係を深めるなどし、権力を掌握した人物でした。しかし、中臣鎌足の息子ではなく天智天皇の落胤であったという説もあり、その出生は謎のままです。藤原不比等の墓は、3か所あり、どれも奈良県に集中しているので、これを機に藤原不比等に興味を持った方はぜひ足を運んでみてください。

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