病弱?見た目はイマイチ!?【徳川家光】について生い立ちや功績を探る!

父・徳川秀忠と浅井三姉妹のうちの1人である母・江の次男として誕生した徳川家光。かの有名な徳川家康の孫にあたる人物です。江戸幕府第三代将軍となった彼は、参勤交代鎖国といった政策を行い江戸幕府の基盤を固めました。そんな徳川家光の生涯や正室・側室、参勤交代や鎖国といった政策についてご紹介いたします。

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徳川家光の生涯・功績

祖父は徳川家康

慶長9年(1604年)7月17日、徳川家光は徳川秀忠の次男として江戸城で誕生しました。

母はという女性で、浅井長政の三女にあたる人物です。

徳川秀忠画像出典:Wikipedia

父の徳川秀忠は徳川家康の三男です。そのため徳川家光にとって徳川家康は祖父ということとなります。

徳川家光には慶長6年(1601年)に誕生した長丸という兄がいました。長丸は徳川秀忠の長男であるため、世継ぎとして育てられますが、幼くして亡くなってしまったため次男でありながら、徳川秀忠の嫡男として育てられます。

徳川家光の乳母となったのは明智光秀の家臣である斎藤利三の娘・福(後の春日局)であったとされ、誕生と同時に徳川家光には稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞といった小姓が付けられました。

小姓とは武将の雑用などをする、いわば秘書のような役割をしていた人のことを指します。

弟・国松が誕生

慶長10年(1605年)祖父の徳川家康が父・徳川秀忠に将軍職を譲ります。これによって父・徳川秀忠は江戸幕府第2代将軍となりました。

翌年の慶長11年(1606年)、弟・国松(後の徳川忠長)が誕生します。徳川家光にとって弟ができたわけですが、なんとこの弟と世継ぎ争いが勃発するのです。

徳川忠長 画像出典:Wikipedia

嫡男で兄である・長丸が幼くして亡くなってしまったため、父・徳川秀忠の世継ぎとして育てられてきた徳川家光。なぜ、そんな徳川家光が弟の国松との間で世継ぎ争いが勃発することとなったのでしょうか。

世継ぎ争いとなった原因

世継ぎ争いとなった原因として考えられているのは、徳川家光が病弱であり、吃音を患っていたということです。また容姿もあまりよくはありませんでした。それに対し、弟の国松は容姿端麗で優れた才能を持っていたのです。

容姿端麗な弟に対し、病弱で容姿もあまりよくない兄・徳川家光。父の徳川秀忠や家臣たちは世継ぎである徳川家光ではなく、国松を寵愛していました。

徳川秀忠
見た目も良くて、才能もある国松の方が世継ぎに向いているなあ。

もともと世継ぎとして育てられていた徳川家光でしたが、弟・国松の方が父から寵愛を受けることとなったのです。こうして兄弟間で世継ぎが勃発したのでした。

福(後の春日局)の働きによって世継ぎ争いに勝利

春日局画像出典:Wikipedia

この世継ぎ争いを見ていた徳川家光の乳母・福(後の春日局)

福(後の春日局)
このままでは徳川家光様が廃嫡となってしまう…!

と危機感を覚えます。

危機感を覚えた福(後の春日局)は徳川家康に兄弟間で世継ぎ争いが勃発していると報告をし、それを聞いた徳川家康は、徳川家光が世継ぎであると明確にしたのでした。福(後の春日局)が働きにでなかったら、徳川家光はもしかすると世継ぎから外されていたのかもしれません。

江戸幕府第3代将軍となる

元和6年(1620年)には元服を迎えたとされ、従三位権大納言に任官されます。元和9年(1623年)3月5日になると、将軍家の世継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されました。

元和9年(1623年)6月、徳川家光は父・徳川秀忠とともに上洛し、父から将軍職を譲られます。これによって徳川家光は江戸幕府第3代将軍となったのでした。その3年後の元和9年(1623年)12月には、摂家鷹司家の娘・鷹司孝子と結婚します。

二元政治の解消

江戸幕府第3代将軍となった徳川家光でしたが、父の徳川秀忠は将軍職を譲った後も実権を握り続けていました。そのためこの頃の江戸幕府は最高権力者が2人いるといった二元政治となっていたのでした。しかし寛永9年(1632年)1月、父の徳川秀忠が亡くなります。

これによって二元政治は解消され、徳川家光の政治が始まったのでした。

徳川家光が行った主な政策(参勤交代・鎖国)

江戸幕府第3代将軍となった徳川家光の主な政策を簡単にご紹介いたします。

参勤交代

寛永12年(1635年)、徳川家光は参勤交代を義務化します。

参勤交代とは全国に散らばる各藩の藩主を1年おきに江戸へと参らせる制度です。全国の大名たちは将軍に対し忠誠を誓うといった意味で江戸へと参勤していました。

江戸時代以前から行われていた

鎌倉時代、御家人たちは鎌倉へと出仕させられていたのですが、この出仕が参勤交代の起源とされています。鎌倉時代の参勤交代は3年に1度でした。

室町時代になると全国に散らばる大名たちは、将軍のいる京都へと参勤するようになります。

戦国時代になると戦国大名たちは、自らに服属した武士たちを城下町に住まわせるようになりました。例えば織田信長は安土城に服属した武士たちを住まわせ、豊臣秀吉は大坂城、聚楽第、伏見城の屋敷に服属した武士、そしてその妻と子供たちも住まわせていました。

その後、徳川幕府が開かれると全国の各大名たちは徳川幕府に媚びを売るため江戸に参勤するようになります。豊臣秀吉が城内に服属した武士の妻子を住まわせたように、徳川家康も同様に江戸に参勤してきた大名たちの妻子も江戸に住まわせるように制定したのでした。

参勤交代を義務化

全国の大名たちが将軍のいる鎌倉や京都、江戸へと参勤するという行為はもともと自発的なものであったとされています。しかし、次第に義務的なものとなるようになり、元和三年(1617年)以降になると全国の大名は数年ごとに参勤するようになりました。

もともと自発的に行われていたものの、次第に義務的なものと変化していった参勤交代。徳川家光はこの参勤交代を寛永12年(1635年)、義務的な制度として制定したのでした。

大名行列とは

園部藩参勤交代行列図画像出典:Wikipedia

「参勤交代」とセットで覚えられることの多い「大名行列」。その名の通り、大名が家臣たちを引き連れ行列を作るといった意味です。

「大名行列」はもともと戦の際、大名やその家臣たちが行列を作り移動していたのが始まりです。しかし江戸時代になり平和な世の中が続くようになると「大名行列」は戦のために行列を作るのではなく、参勤のために行列を作るといったものとなりました。つまり戦に向かう大名やその家臣たちが行った大名行列は、江戸時代になると参勤交代のための大名行列となったのです。

大規模で華やかな大名行列

将軍に忠誠を誓うといった意味で江戸へと参勤するのですが、大名たちは将軍への忠誠心や藩の経済力、自身の権威を主張するため大名行列を大規模にする、行列の服装を華やかにするなどの工夫をしていました。

また大名たちは参勤交代のための大名行列でお金を使うよう徳川幕府から強いられていました。大名たちが経済な実力を持てないようにするため、徳川幕府は大名行列にお金をかけさせたと考えられています。大規模で華やかな大名行列ですが、1年おきに江戸へと参勤しなくてはならなくなったため大名たちにとって参勤交代は

  • 宿泊費
  • 移動費
  • 街道の整備費用

などから経済的に大きな負担となっていました。

鎖国体制を完成させる

徳川幕府が開かれるよりも前の天文18年(1589年)、日本にフランシスコ・ザビエルが来航します。フランシスコ・ザビエルが日本に来航すると瞬く間に、キリスト教が日本中に広がりました。

フランシスコ・ザビエル画像出典:Wikipedia

フランシスコ・ザビエル来航後も、多くの宣教師によって宣教活動が行われ、キリスト教信者の数は増加します。これに危機感を覚えた豊臣秀吉は天正15年(1587年)バテレン追放令を発布します。しかし宣教師たちは以前、宣教活動を行うのでした。豊臣秀吉亡き後、将軍となった祖父の徳川家康もまたキリスト教の普及に危機感を持っていたため、キリスト教の弾圧を行います。

そして徳川家光の父・徳川秀忠もまたキリスト教の弾圧活動を行いました。父の徳川秀忠はキリスト教の禁止、外国船寄港を平戸、長崎に限定といった政策を行いました。父の徳川秀忠亡き後、将軍となった徳川家光は

  • 長崎に出島を建設
  • 外国船(中国、オランダ)の入港を長崎に限定する
  • 東南アジア方面への日本人の出国、日本人の帰国を禁止する
  • ポルトガル船の入港を禁止する
  • ポルトガル人の追放を命じる

といった政策を行いました。

徳川家康から始まり、徳川家光も行ったキリスト教国人の来航の禁止や東南アジア方面への出国の禁止、貿易の管理・制限によって日本は世界の中でも孤立状態、つまり鎖国となったのでした。徳川家康の時代から行われてきた鎖国体制は徳川家光によって完成されたのです。

この鎖国体制は、その後約200年以上続くこととなります。鎖国政策は徳川家光の大きな功績と言えます。

48歳で亡くなる

慶安3年(1650年)徳川家光は病に倒れます。その翌年4月20日、徳川家光は江戸城内で亡くなったのでした。慶安3年(1650年)頃から体の震えがあり、亡くなる直前には歩行障害があったことから死因は脳卒中ではと考えられています。

まとめ

徳川家光は徳川家康の孫にあたる人物で、江戸幕府3代将軍となった人物でした。徳川家光亡き後も鎖国体制は約200年以上も続いたため、鎖国体制の完成は彼の大きな功績と言えます。

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