江戸幕府第3代将軍・徳川家光はかの有名な徳川家康の孫にあたる人物です。参勤交代を義務づけたことで有名な人物ですが、参勤交代とは一体どのような制度であったのでしょうか。今回は徳川家光の年表と参勤交代についてご紹介いたします。
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目次
徳川家光の年表
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慶長9年(1604年)7月17日 誕生
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慶長11年(1606年) 弟との間で後継者争いが勃発
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元和6年(1620年) 元服
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元和9年(1623年)7月 江戸幕府3代征夷大将軍に任命される。
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元和9年(1623年)12月 摂家鷹司家の娘である鷹司孝子(正室)と結婚。
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寛永9年(1632年)1月、父・徳川秀忠が亡くなる
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寛永10年(1633年)長崎奉行に対し東南アジアの国々との貿易の管理を目的とした鎖国令を発布する。
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寛永10年(1633年)2月、福岡藩で起きたお家騒動(黒田騒動)を決着させる。
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寛永12年(1635年)武家諸法度の改訂において、参勤交代を義務付けた規定を加える。
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寛永12年(1635年) 長崎奉行に対し日本人の東南アジア方面への行き来を禁止した鎖国令を発布する。九州各地にいた中国人を長崎のみに集め住まわせる。
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寛永13年(1636年)長崎の出島にポルトガル人を隔離する。
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寛永14年(1637年) 島原の乱を鎮圧させる。
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寛永16年(1639年) 長崎奉行、九州各地の大名たちにポルトガル人の追放を命じる。
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寛永18年(1641年)出島にオランダ商館を移転させる。
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寛永18年(1641年)8月、嫡男・家綱が誕生する。
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寛永20年(1643年)3月、田畑永代売買禁止令を発布する。
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正保元年(1644年)諸大名に国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させる。
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慶安3年(1650年)病にかかる。
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慶安4年(1651年)4月20日、48歳で亡くなる。
徳川家光が行った主な政策
徳川家光が行った主な政策は
- 参勤交代の義務化
- 鎖国体制の完成
です。
徳川家光が行った2つ政策のうちの参勤交代の義務化についてご紹介いたします。
鎖国に関してはこちらの記事をご覧ください。
参勤交代とは
参勤交代について解説いたします。参勤交代という制度は江戸時代に入ってから始まったと思われる方が多いかもしれませんが、実は参勤交代といった制度は江戸時代以前から存在していました。
江戸時代以前の参勤交代
参勤交代といった制度は実は鎌倉時代から存在していました。鎌倉時代、御家人たちは鎌倉へと出仕させられていたのですが、この出仕が参勤交代の起源とされています。鎌倉時代の参勤交代は3年に1度でした。室町時代に入ると全国に散らばった大名たちは、将軍のいる京都へと参勤するようになります。そして戦国時代になると戦国大名たちは、自らに服属した武士たちを城下町に住まわせるようになりました。
例えば
- 安土城に服属した武士たちを住まわせた織田信長
- 大坂城、聚楽第、伏見城の屋敷に服属した武士、そしてその妻と子供を住まわせた豊臣秀吉
徳川幕府による参勤交代
天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は徳川幕府を開きます。すると全国の大名たちは徳川幕府に媚びを売るため江戸へと参勤するようになったのでした。
徳川家康画像出典:Wikipedia
徳川家康は豊臣秀吉に倣い、参勤交代してきた者たちに江戸城下の屋敷を与えます。そこには人質として妻(正室)と子供、そして有力な家臣の子供も住まわせたのでした。徳川幕府にどれだけ忠誠心を持っているのかを示すため、全国の大名たちは江戸へと参勤していたのです。将軍・幕府に対し、忠誠心を示すため行われていた参勤交代ですが、ここまでに行われていた参勤交代は義務として行われていたものではありませんでした。参勤する頻度や江戸での滞在日数などは各藩主の自由だったのです。そこで徳川家光は参勤する頻度、滞在日数、参勤交代にかかる費用などを制度化したのです。
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参勤交代を制度化
寛永12年(1636年)、徳川家光は武家諸法度の改訂において、参勤交代を義務付けた規定を加えます。
武家諸法度から読み取る
徳川家光が義務化した参勤交代の内容は武家諸法度の条文から読み取ることができます。
一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。
条文にかかれている内容をまとめてみると
- 大名、小名に自領と江戸との交代勤務を定める。
- 毎年4月に江戸へと参勤すること。
- お供の数が非常に多いため、領地や領民の負担となっている。今後はお供の数を減らすこと。ただし、上洛の際は身分にふさわしいものとする。
となっています。簡単にまとめると
参勤交代の準備
参勤交代は毎年4月に行われていましたが、その準備は半年も前から行われていたとされています。参勤交代の準備として
- 参勤交代に伴う宿泊費、食費などの予算調達
- 他の大名と宿が被らないか偵察
- 他の大名行列とすれ違うことを避けるため旅行程の調整
などがあげられます。
道路や橋の整備
他にも江戸へと行くまでの道が整備されていないのであれば、道路や橋の整備などがあらかじめ行われました。

と思いますが、あらかじめ江戸幕府に提出した日までに江戸に到着してなければなりませんでした。そのため、整備されていない道路や橋を参勤交代までに整備する必要があったのです。
大名たちにとっては負担の大きい参勤交代
また参勤交代にかかる食費や宿泊費、道路の整備費といった費用はすべて大名たちの自負となっていました。
大名たちにとって参勤交代は経済的に負担のかかるものでしたが、参勤交代用に道の整備や橋の整備などをしたことによって道中の宿場町の発展に繋がったため、宿場町の経済的効果は非常に大きなものであったとされています。
大名行列
長い準備期間を経て参勤の日がやってきました。
江戸に参勤する大名は、自身の藩から大勢の武士を引き連れ江戸へと向かいます。武士だけではなく、大名が道中、暇にならないよう茶の湯の家元や鷹匠、そして道中や江戸で病気や怪我をした時に備え医者を同行させました。また大名の私物の他、大名専用の風呂釜なども大名行列で持ち運んでいたとされ、大勢の武士を引き連れ歩いていたことから、「大名行列」と呼ばれています。
園部藩参勤交代行列図画像出典:Wikipedia
大名行列の人数
大名行列の人数ですが、禄高によって異なっていました。『御道中日記』に残されているおおよその大名行列の記録によると
- 伊達家・仙台藩は2000~3000人
- 前田家・加賀藩は2000~4000人
- 池田家・鳥取藩は700人
- 伊達家・宇和島藩は300~500人
- 島津家・薩摩藩は1880人
とされています。移動時間や移動速度は藩によって異なりますが、急ぎ足で移動していたとされ、1日平均6時間から9時間かけて30〜40㎞移動していました。大名行列の多くは、民衆に自国の威厳を示すため派手な服に身を包んでいました。またそれだけではなく、威厳を示すため人をたくさん雇い、大名行列の人数を増やしていたとされています。
大名行列の通過
大名行列が通過するとき、庶民たちは大名行列に道を譲らなければなりませんでした。それだけではなく馬に乗っている者は必ず馬から降りなければならなかったのです。また自国、徳川御三家の大名行列であれば庶民たちは大名行列が通過するまでは土下座をしなければなりませんでした。
大名行列の前を横切る行為は持っての他でしたが、飛脚や出産に向かう最中の産婆さん(助産師)などは例外であったとされています。もし、大名行列を横切ってしまえば、その場で「切捨御免」つまり処刑されてしまうので、大名行列が近づいてきたら大名行列の到来を庶民に知らせるため徳川御三家の場合は

徳川御三家以外の大名行列の場合は


と掛け声がなされていました。
道を譲る人々画像出典:Wikipedia
参勤交代の終わり
徳川家光亡き後、嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、日本に開国を求めました。200年以上鎖国していた徳川幕府は文久2年(1862年)8月、参勤交代の頻度を1年に1回から3年に1回に変更します。その後も参勤交代は続けられていましたが、慶応3年(1867年)、大政奉還を機に参勤交代の制度は姿を消すこととなりました。
大政奉還画像出典:Wikipedia
まとめ
徳川家光の年表と制定した参勤交代についてご紹介いたしました。徳川家光が義務化させた参勤交代は大名たちにとって経済的に大きな負担となっていました。徳川家光亡き後も長く、参勤交代は続けられることとなりましたが、大政奉還を機にこの制度は姿を消しました。
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