【徳川家康】は女好き!?妻(正室・側室)も多く、子だくさんなその素顔!

女好きで知られる豊臣秀吉は生涯、14人の妻を持ったとされています。

しかし、徳川家康はそれを上回る22人の妻を持ちました。そして正室、側室との間には男女合わせ計16人の子供が生まれたとされています。

そんな徳川家康の代表的な妻や代表的な子供、また徳川家康の他に子だくさんであった歴史上の人物をご紹介いたします。

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徳川家康の正室・側室はなんと22人も!

徳川家康はなんと生涯、22人もの正室・側室をもちました。

徳川家康の有名な正室、側室をご紹介していきます。

 

徳川家康の正室

徳川家康の1人目の正室・築山殿

徳川家康の正室とされる女性は2人います。1人は築山殿と呼ばれる女性です。

 

徳川家康と結婚し出産

駿河今川氏の有力家臣であった関口親永と今川義元の伯母または妹の娘として築山殿は誕生しました。つまり今川義元は築山殿にとって叔父にあたるということです。

今川義元出典画像:Wikipedia

いつ築山殿が誕生したのかは分かっていませんが、弘治3年(1557年)正月15日、16歳の徳川家康と結婚したとされています。

徳川家康に嫁いだ2年後の永禄2年(1559年)徳川家康との間に第一子・松平信康が誕生しました。その翌年には長女・亀姫が誕生します。

松平信康出典画像:Wikipedia

 

夫が織田信長と同盟を結び、軟禁状態に

永禄3年(1560年)5月19日、今川義元に仕えていた徳川家康は桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死したため、1人岡崎へと帰還します。

その間、築山殿と長男・松平信康は駿府城に取り残されてしまったのでした。その後、徳川家康は今川氏と対立していた織田信長と同盟を結びます。

これに対し、今川家の当主となった今川氏真

今川氏真
なぜ、対立している織田信長と同盟を結んだんだ!

と怒りを見せたのです。
怒りを見せた今川氏真は築山殿と長男・松平信康を駿府城で軟禁します。また築山殿の父・関口親永も織田信長と同盟を結んでいると疑われ、妻とともに自害し亡くなるのでした。

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徳川家康と離縁(離婚)

このような状況の中、徳川家康の近侍として仕えていた石川数正が軟禁状態にあった築山殿と長男・松平信康の救出のため今川氏真の説得を始めるのでした。

石川数正の説得のおかげで築山殿と長男・松平信康は徳川家康のいる岡崎城へと移ることができました。

ようやく夫である徳川家康のもとに帰ってきた築山殿でしたが、築山殿は岡崎城に入ることが許されず城外の西岸寺での生活を強いられるようになりました。

また『家忠日記』にはこれまで徳川家康の正室であることを示すために築山殿を「御前さま」と敬称し記載していましたが、岡崎城に帰還してからは「御前さま」とは記載されず「信康御母さま」と記載されるようになりました。このようなことから岡崎城に帰還した時には徳川家康と離縁(離婚)していたと考えられています。

 

嫁、姑問題勃発

永禄10年(1567年)、長男・松平信康が織田信長の長女・徳姫と結婚します。この時、松平信康、徳姫は共に9歳でした。

その後、松平信康が徳川家康の嫡子として元亀元年(1570年)岡崎城へと移されます。これに伴い、築山殿も嫡子生母としてようやく岡崎城へと入城することができたのでした。

その後、浜松へと徳川家康は移ります。しかし、築山殿は徳川家康とともに浜松へと行くことはなく岡崎城に留まり続けました。この時の夫婦仲は悪かったのかもしれませんね。

長男・松平信康とその妻である徳姫はいつまでたっても子供に恵まれませんでした。それを心配した築山殿は長男・松平信康に対し浅原昌時の娘や日向時昌の娘といった女性を側室として与えます。

姑が夫に対し側室を与える…徳姫はさぞかし腹が立ったことでしょう。このようなことがあり、築山殿と徳姫の仲は次第に悪くなっていくのでした。

築山殿
なかなか信康に子供ができないから、心配だわ…。そうだ!信康に側室を紹介しよう!

 

息子とともに殺害される

天正7年(1579年)、徳姫は父親である織田信長に対し

  • 姑である築山殿が自分の悪口を松平信康に言っていたこと
  • 姑である築山殿が唐人医師・減敬と不倫をしていること
  • 築山殿と武田家との間で内通があったこと

 

など12か条からなる訴状を送ります。

これを受けた織田信長はなんと徳川家康に対し息子である松平信康の処刑を命じたのでした。

織田信長
家康!信康を処刑せよ!

徳川家康は織田信長の命令を断れず、息子である松平信康を処刑のため大浜城へと移します。

松平信康は

松平信康
誤解だ!

と釈明しますが、受け入れられず二俣城で幽閉されるのでした。

 

殺害され亡くなる

夫である徳川家康が息子を本気で処刑すると知った築山殿は、松平信康の救出のため徳川家康のいる浜松城へと向かいます。しかし、浜松城へと向かう道中、徳川家康から命を受けた徳川の家臣・岡本時仲と野中重政によって首を斬られ殺害されました。

 

徳川家康の2人目の正室・朝日姫

豊臣秀吉の異父妹であった

天文12年(1543年)父・竹阿弥となか(大政所)の娘として朝日姫は誕生しました。

母・なか(大政所)にとって竹阿弥は再婚相手で、再婚する前は木下弥右衛と結婚していました。木下弥右衛との間には2人の子供がおり、そのうちの1人がかの有名な豊臣秀吉です。

つまり朝日姫にとって豊臣秀吉は異父兄ということとなります。

朝日姫出典画像:Wikipedia

 

佐治日向守と離縁

もともと朝日姫は尾張国の農民のもとに嫁いでいました。その後、異父兄である豊臣秀吉が出世を果たすと、朝日姫の夫も農民から武士に出世を果たし佐治日向守と名乗るようになります。

天正14年(1586年)、朝日姫は異父兄である豊臣秀吉から佐治日向守との離縁(離婚)を迫られます

豊臣秀吉
佐治日向守と離婚してくれないか?

この時、豊臣秀吉は天下統一を目前としていました。そのため徳川家康に対し豊臣家に従うよう要求していたのですが、徳川家康は未だに豊臣家に従おうとはしなかったのです。

徳川家康には正室・築山殿がいましたが、築山殿が亡くなったため独り身だったのです。そこで、豊臣秀吉は徳川家康を懐柔するため自分の妹である朝日姫を徳川家康の再婚相手として紹介しようと考えたのでした。

豊臣秀吉
家康の再婚相手に朝日姫を紹介してやろう!

 

徳川家康の継室として

豊臣秀吉から夫との離縁を要求された朝日姫は、夫・佐治日向守と離縁し天正14年(1586年)4月14日、徳川家康の正室(継室)となったのでした。この時、家康45歳、朝日姫44歳であったとされています。

2人の間には子供はおらず、どのような夫婦仲であったかは分かっていませんが天正18年(1590年)の正月、朝日姫は47歳で亡くなりました。

 

徳川家康の側室

徳川家康には

  1. 西郡局(蓮葉院): 駿河今川氏旧臣である鵜殿長持の娘
  2. 下山殿(妙真院): 甲斐武田氏旧臣である秋山虎康の娘
  3. 蔭山殿(養珠院、お万):安房里見氏旧臣である正木頼忠の娘
  4. 小督局(長勝院、於万の方):永見吉英の娘
  5. 西郷局(お愛)(竜泉院):戸塚忠春の娘
  6. お竹(良雲院):甲斐武田氏旧臣である市川昌永の娘
  7. 茶阿局(朝覚院):百姓の娘
  8. お夏(清雲院):長谷川藤直の娘
  9. お梶(英勝院):太田康資の娘
  10. お梅(蓮華院):豊臣家家臣である青木一矩の娘
  11. 阿茶局(須和)(雲光院):今川氏旧臣である飯田直政の娘
  12. お牟須(正栄院):甲斐武田氏旧臣である三井吉正の娘
  13. お亀(相応院) :志水宗清の娘
  14. お仙(泰栄院):武田家臣である宮崎泰景の娘
  15. お六(養儼院):黒田直陳の娘
  16. お久(普照院):後北条氏旧臣である間宮康俊の娘
  17. 富子(信寿院)
  18. 法光院
  19. 三条氏
  20. ?:松平重吉の娘

 

20人もの側室がいました。

この中でも有名な側室・西郷局を紹介いたします。

 

将軍の生母となった側室:西郷局

西郷局出典画像:Wikipedia

天文21年(1552年)戸塚忠春と西郷氏の娘との間に誕生した西郷局

2度、夫を亡くす

徳川家康の側室となる前は遠江国に住む戸塚忠春という男性と結婚していました。しかし、夫に先立たれてしまったため、同じく正室を亡くしていた従兄の西郷義勝の継室となり、2人は1男1女を授かりました。

しかし、元亀2年(1571年)夫となった西郷義勝が戦死します。またもや未亡人となった西郷局は母の弟である西郷清員の養女となりました。その後、徳川家康の目にとまり、側室となったとされています。

西郷局にとって徳川家康との結婚は3度目ということです。

将軍の生母となるも

徳川家康の側室となった西郷局は徳川家康にとって三男である徳川秀忠、四男である松平忠吉を出産します。後に三男・徳川秀忠は慶長8年(1603年)4月に江戸幕府第2代将軍となるのですが、残念ながら西郷局は天正17年(1589年)38歳で亡くなってしまったため、徳川秀忠の晴れ姿を見ることはできませんでした。

美しい女性であった

西郷局は非常に美しい女性であったとされ、徳川家臣はもちろんのこと多くの侍女や徳川家臣たちから好かれていました。

またひどい近眼であったとされ、同じように近眼に苦しむ女性たちのために支援を行っていたとされています。そのため西郷局が亡くなると、大勢の近眼に苦しむ女性たちが毎日のように弔いに訪れていたとされています。

西郷局の死因は分かっていませんが、徳川家康の正室であった築山殿の侍女による暗殺または毒殺ではないかと考えられています。

 

徳川家康の子供たち(男子)

徳川家康には

  1. 長男・松平信康 (母:築山殿)
  2. 次男・結城秀康 (母:小督局)
  3. 三男・徳川秀忠 (母:西郷局)
  4. 四男・松平忠吉 (母:西郷局)
  5. 五男・武田信吉 (母:下山殿)
  6. 六男・松平忠輝 (母:茶阿局)
  7. 七男・松平松千代 (母:茶阿局)
  8. 八男・平岩仙千代 (母:お亀)
  9. 九男・徳川義直 (母:お亀)
  10. 十男・徳川頼宣 (母:お万)
  11. 十一男・徳川頼房 (母:お万)

 

11人の子供(男子)がいました。

女子の子供を合わせると、計16人の子供がいたとされています。

この中でも有名な子供(男子)を少しご紹介します。

 

江戸幕府第2代将軍となった徳川秀忠

徳川秀忠出典画像:Wikipedia

徳川家康と側室・西郷局との間に誕生した徳川秀忠。徳川家康にとって三男となります。同母弟に松平忠吉がいましたが、関ヶ原の戦いで戦死しました。

徳川家康の三男である徳川秀忠がなぜ、江戸幕府第2代将軍となれたのか。

長兄である信康は徳川秀忠が生後5か月の時に織田信長に命じられ切腹をし亡くなっています。

そのため次兄である秀康が徳川氏の後継者になるはずでした。しかし天正12年(1584年)に行われた小牧・長久手の戦い(徳川家康vs豊臣秀吉)において徳川家康が豊臣秀吉に対し秀康を養子に出すといった条件で和睦を結んだため、秀康は豊臣秀吉の養子にだされてしまいます。

豊臣秀吉の養子となった秀康はその後、結城氏を継いだため、徳川家康は側室・西郷局との間に誕生した徳川秀忠を自身の後継者として育てたのでした。

こうして徳川家康の後継者として育てられた徳川秀忠は、慶長10年(1605年)4月16日、江戸幕府第2代将軍となったのでした。

 

徳川家康の子供たち(女子)

徳川家康には

  1. 長女・亀姫 (母:築山殿)後に奥平信昌の正室となる
  2. 二女・督姫 (母:西郡局)後に北条氏直と結婚した後、池田輝政と再婚
  3. 三女・振姫 (母:お竹)後に蒲生秀行、浅野長晟の正室となる
  4. 四女・松姫 (母:お久)
  5. 五女・市姫 (母:お梶)

5人の子供(女子)たちがいました。

 

徳川家康の他に、たくさんの妻・子供がいた歴史上の人物

徳川家康の他にたくさんの妻がいた歴史上の人物をご紹介いたします。

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉豊臣秀吉肖像画出典画像:Wikipedia

女好きで知られる豊臣秀吉。正室・側室の数は14人とされています。

  1. 正室:北政所(杉原定利の娘)
  2. 側室:南殿
  3. 側室:淀殿(浅井長政の娘)
  4. 側室:南の局(山名豊国の娘)
  5. 側室:松の丸殿(京極高吉の娘)
  6. 側室:加賀殿(前田利家の娘)
  7. 側室:甲斐姫(成田氏長の娘)
  8. 側室:三の丸殿(蒲生氏郷の養女で織田信長の娘)
  9. 側室:三条殿(蒲生賢秀の娘)
  10. 側室:姫路殿(織田信包の娘)
  11. 側室:広沢局(名護屋経勝の娘)
  12. 側室:月桂院(足利頼純の娘)
  13. 側室:香の前(高田次郎右衛門の娘)
  14. 側室:円融院(三浦能登守の娘)

多くの側室を抱えた豊臣秀吉でしたが、実子は4人だけでした。

  • 長男:羽柴秀勝
  • 次男:豊臣鶴松
  • 三男:豊臣秀頼
  • 長女:名前不詳

 

豊臣秀次

豊臣秀次出典画像:Wikipedia

豊臣秀吉の甥である豊臣秀次も多くの妻がいました。その数、なんと正室・側室合わせ31人

しかし、豊臣秀吉に謀反を疑われ豊臣秀次は切腹し亡くなり、その後、30人の側室たちも京都の三条河原で処刑されたのでした。

 

徳川家斉

徳川家斉出典画像:Wikipedia

御三卿一橋家の第2代当主である徳川治済の長男で、江戸幕府第11代征夷大将軍・徳川家斉もまた妻が多いことで有名です。

分かるだけでその数、16人。そして子供は男子26人・女子27人、計53人いたとされています。しかし、そのうち成人まで生きたのは28人でした。歴代徳川将軍の中で最も子供の多い人物とされています。

 

織田信長

織田信長織田信長の肖像画出典画像:Wikipedia

織田信長にも多くの妻がいました。その数は正室・側室合わせ12人とされています。

男子の子供の数は12人と分かっていますが、女子の子供の数は6人や12人などはっきりと分かっていません。

 

まとめ

徳川家康の代表的な妻をご紹介いたしました。女好きで妻がたくさんいたとされる豊臣秀吉と同じように、徳川家康にもたくさんの妻がいたのですね。

当時、子供を授かっても病や戦で成人するまでの間に命を落としてしまうということが多くありました。そのため、正室以外の女性との間にも世継ぎをたくさん作ることが必要だったのです。

もしかすると女好きといった側面があったかもしれませんが、たくさんの世継ぎを残すことも徳川家康や豊臣秀吉たちにとって重要な仕事だったのですね。

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