【伊能忠敬】の作った日本地図がすごい!アナログな測量方法に驚き!誤差はあるの?エピソード紹介

日本地図を作った人物として有名な伊能忠敬は17年かけて日本各地を歩き、日本で初めての実測による日本地図をつくりました。

当時の平均時明を大幅に超えた50歳からのチャレンジであったため、伊能忠敬は日本地図の完成を目にすることはできませんでした。しかし高橋景保らによって制作は続けられ、文政4年(1821年)実測による日本地図「大日本沿海輿地全図」は完成しました。

伊能忠敬の生い立ちや測量方法、完成した日本地図「大日本沿海輿地全図」の誤差、功績などをご紹介いたします。

 

伊能忠敬の生い立ち

江戸時代にあたる延享2年(1745年)1月11日、伊能忠敬は誕生しました。出身地は現在の千葉県山武郡九十九里町小関です。

父・神保貞恒は酒造家の次男で、名家であった小関家に婿入りしました。

三次郎という幼名をつけられた伊能忠敬には兄と姉がおり、3人兄弟の末っ子であったとされています。

三次郎(伊能忠敬)が6歳の頃、母が亡くなります。そのため小関家は叔父(母親の弟)が継ぐこととなりました。小関家の婿養子であった父は兄と姉を連れ神保家に戻りましたが、三次郎は小関家に残り育てられたとされています。

小関家でどのように育てられたか詳しく分かっていませんが、名家に残ったということでそろばんや読み書きなど、将来必要となるであろう学問を教えられていました。

10歳になったころ、三次郎は父親に引き取られ神保家に移り住みます。神保家でどのような生活を送っていたのかは分かっていませんが、親戚や友人宅でお世話になるなど、転々と暮らしていました。

転々と暮らしていた理由について

  • 父親が再婚したため、その新しい母親とそりがあわず、家にいづらくなったため
  • 父親が三次郎(伊能忠敬)の将来を思って各地で教育を受けさせようとしたため

など様々な見解があります。

半年間そろばんを習い、17歳のころには医学を学んでいた記録が残されていますが、ここで習った医学は専門的なものではなかったようです。

伊能家に婿入り、ミチと結婚

宝暦12年(1762年)12月8日、三次郎(伊能忠敬)は酒造家の伊能三郎右衛門家の長女・ミチに婿入りし結婚します。この時、三次郎は17歳。ミチは21歳でした。

また妻となったミチは今回の結婚が2度目の結婚で、前の夫との間に誕生した3歳の男子がいました。

 

ミチとの出会い

どのようにしてミチと出会い結婚したのか、ご紹介いたします。

三次郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、現在の千葉県香取市佐原にあった酒造家・伊能三郎右衛門家の当主・長由が亡くなります。

夫・長由を亡くした妻・タミと娘のミチ(1歳)、そして家業は長由の兄に面倒を見てもらうこととなりましたが、その兄も翌年には亡くなってしまいました。そのため家業は伊能家の親戚たちで営まれることとなったとされています。

娘のミチが14歳になった時、伊能家の跡取りとなる婿を迎えましたが、数年後にその婿も亡くなり、また跡取りとなるような婿を探す必要がありました。

ある日、タミの兄である平山藤右衛門が土地の改良工事を計画します。平山藤右衛門はその工事の現場監督として三次郎を起用しました。

三次郎は若いながらも働きぶりがよく、その姿をみた平山藤右衛門は

平山藤右衛門
ぜひ、ミチの婿にならないか?伊能家の跡取りにならないか?

とすすめます。

これを受け三次郎も了解、伊能家の親族たちも了解を得たため、三次郎は婿入りし伊能家の跡取りとしてミチと結婚することとなったのでした。

結婚と同時に儒学者の林鳳谷から「忠敬」という名前を与えられ、以降「伊能三郎右衛門忠敬」と名乗るようになります。

 

佐原村

伊能忠敬が婿入りした当時、伊能家のある佐原村は人口5,000人と多く舟運の中継地として江戸との交流もあり、関東の中でも栄えた村でした。

当時、佐原村には武士が1人も住んでおらず、村の決まり事は経済力のあった伊能家と永沢家に任されていました。

伊能忠敬が婿入りした伊能家は酒や醤油の醸造の他に、利根川の水運業、貸金業などを行っていました。しかし、当主のいない時期が長かったため、永沢家に経済的にも地位的にも差をつけられていました。

そのため、伊能家の親族らは婿入りした伊能忠敬に、大きな期待を抱いていたとされています。

佐原村にある伊能忠敬の自宅画像出典:Wikipedia

 

佐原村の次期名主に推薦される

宝暦12年(1763年)、妻・ミチとの間に長女・イネが誕生します。しかし、この年、妻・ミチの連れ子である男子は亡くなってしまいました。その3年後の明和3年(1766年)には長男・景敬が誕生します。

伊能忠敬は伊能家の当主ということから佐原村の村民たちから村の次期名主に推薦されます。しかし、伊能忠敬はまだ24歳と若かったため、親戚からの協力を借りることが多くありました。

明和6年(1769年)7月、次女・シノが誕生します。

佐原村では様々な騒動や事件がありましたが、次期名主として伊能忠敬は働き、安永3年(1774年)頃には伊能家の収益は安定したものとなっていました。

 

安永3年(1774年)頃の収益の内訳

  • 酒造 163両3分
  • 田徳  95両
  • 倉敷・店賃 30両
  • 舟利 23両2分
  • 薪木 37両3分
  • 炭   1両1分

 

佐原村の名主に

天明元年(1781年)佐原村の名主・藤左衛門が亡くなると、伊能忠敬が36歳にして名主に就任しました。

 

天明の大飢饉で人々を救う

天明3年(1783年)、悪天候や冷害によって東北地方を中心に農産物の収穫量が激減します。これに加え浅間山の噴火もあったことから佐原村も米の不作に悩まされることとなりました。

収穫量の激減や米の不作から飢饉が発生し、農村部を中心に飢えに喘ぐ人が続出します。この大飢饉は「天明の大飢饉」と呼ばれ、江戸四大飢饉の1つとされています。

 

江戸四大飢饉

寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉は「江戸四大飢饉」と呼ばれています。

 

 

伊能忠敬のエピソード

名主であった伊能忠敬は「なんとかしなくては」と他の名主とともに年貢の配慮を願い出るなどの対策をしました。

また自らの米や金銭を貧困に悩む人々に分け与えるなどの救済を行ったとされています。伊能忠敬の行動のおかげで佐原村では1人も餓死者は出ませんでした。

 

再婚

天明3年(1783年)の暮れ、妻のミチが亡くなります。ミチが亡くなって間もなく、再婚しますが、新しい妻のことは名前も含め詳しく分かっていません。

  • 天明6年(1786年)には次男・秀蔵
  • 天明8年(1788年)には三男・順次
  • 寛政元年(1789年)には三女・コト(琴)

が誕生しましたが、寛政2年(1790年)再婚した妻は26歳で亡くなりました。

この年、伊能忠敬はまた新たな妻を迎えます。仙台藩医の娘でノブという女性でした。

この頃になると、伊能忠敬の長男はすでに成人を迎えていたため

伊能忠敬
家督を譲って隠居したいな…

と思うようになります。しかし

地頭所
佐原村にはまだ伊能忠敬さんの力が必要ですので、隠居は認めません!

と地頭所に断られてしまいます。

隠居を断られた伊能忠敬。しかし、隠居への思いはとても強かったとされています。

この頃、伊能忠敬は暦学に夢中でした。江戸や京都から暦学の本を取り寄せては、天体観測を行う日々を送っていたのです。

暦学とは天文学のことをさします。

そのため暦学に夢中になっていた伊能忠敬は、店の仕事をほとんど長男に任せていました。

寛政3年(1791年)になると長男に店を渡します。

 

隠居し暦学に専念

寛政5年(1793年)仕事を任せ、自由になった伊能忠敬はさっそく朱子学者・久保木清淵らとともに、関西へと3か月にわたって旅をしました。

この時、伊能忠敬は旅の記録を残しており、そこには旅先の土地で測った方位角や緯度などが記されていました。この頃から測量に関心を持っていたことが分かります。

寛政6年(1794年)伊能忠敬は再び地頭所に隠居を願い出ます。地頭所はようやく伊能忠敬の隠居を認めました。

伊能忠敬は家督を長男に譲り、さっそく暦学の勉強の準備を始めます。学問に専念しようとしていた最中、妻・ノブが難産によって寛政7年(1795年)亡くなりました。

 

高橋至時に弟子入り

寛政7年(1795年)隠居し、暦学を学ぶため江戸の深川黒江町に家を構えた伊能忠敬。この時、50歳でした。

江戸時代の平均寿命は45歳とされています。平均寿命を大幅に超えた頃から暦学を学び始め、測量に関心を持った伊能忠敬。学びに年齢は関係ないのですね。

江戸にきた伊能忠敬はさっそく天文学者・高橋至時に弟子入りしました。伊能忠敬50歳に対し、高橋至時は31歳ととても年齢が離れていました。

 

天体観測に夢中

弟子入りした伊能忠敬は熱心に勉強に励み、寝る間も惜しんで天体観測を行ったとされています。

師匠の高橋至時が改暦作業のため京都に行くこととなります。その間、伊能忠敬は寛政8年(1796年)9月から約1年間、天文学者の間重富から指導を受けることとなりました。

間重富は観測技術や観測機器について詳しく知っており、伊能忠敬は間重富を通じて観測に使用する機材を購入します。買い揃えた観測機器で、自宅に天文台を作るなど暦学に夢中になっていました。

しかし、天体観測は非常に難しく、弟子入りから4年たった寛政10年(1798年)の時点でも、師匠の高橋至時からは信頼を得られなかったとされています。

伊能忠敬が観測していたのは

  • 太陽の南中
  • 緯度
  • 日食
  • 月食
  • 惑星食
  • 星食
  • 金星の南中

とされています。金星の南中(子午線経過)に関しては、日本で初めて観測したのが伊能忠敬であると記録されています。

 

4度目の結婚

江戸で暮らし始めてから伊能忠敬は女流漢詩人・大崎栄を妻を迎えました。伊能忠敬にとって4度目の結婚となります。天体観測は1人で行えるようなものではないので、新しく妻となった栄が手助けしていたのではと考えられています。

 

測量の開始

寛政9年(1797年)師匠の高橋至時と間重富が新しい『寛政暦』を完成させます。

寛政暦は太陽暦のことをさします。それまで使用されていた宝暦暦が出来の悪い暦法であったため、高橋至時と間重富が新しい太陽暦である『寛政暦』をつくりました。

しかし、高橋至時は『寛政暦』に満足しておらず

高橋至時
より正確なものするためには、地球の大きさ、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だ!

と考えます。

地球の大きさは子午線弧長を測ることでおおよその大きさを出すことはできますが、正確な数字はでません。そこで

高橋至時
正確な数字を出すためには江戸から蝦夷地までの距離を測ればいいのではないか

と考えます。

伊能忠敬もこの考えに賛同し、高橋至時とともに地球の大きさについて様々な考えを出し合いました。

考えを出し合った結果、地球の大きさを正確に求めるためには、日本各地の正確な地図を作ることが必要であるとわかり、伊能忠敬、高橋至時は蝦夷の測量を行うこととしました。

 

第1次測量(蝦夷地の測量)

寛政12年(1800年)閏4月19日、伊能忠敬らは蝦夷に向けて江戸を発ちます。この時、伊能忠敬は55歳。

この測量には内弟子3人、下男2人が付き添うこととなりました。

1日におよそ40㎞を歩き、その間、距離を歩測で記録すると非常にアナログな方法でした。平均寿命を超えた伊能忠敬にとって非常に過酷な旅であったのではないでしょうか。

歩測とは

歩いた歩数を基に距離を出す方法です。伊能忠敬の歩幅は約69cmとされています。

5月29日、蝦夷に到着した一行は本格的に蝦夷の測量に取り掛かります。

同年、10月21日、蝦夷での測量を終え江戸に到着した伊能忠敬はさっそく11月上旬から測量の記録をもとに地図の製作に取り掛かりました。20日後に地図は完成したとされ12月21日には下勘定所に提出されます。

蝦夷で測量され、完成した地図は高い評価を得ることとなり、第二次測量が計画されることとなりました。

 

第二次測量(伊豆半島以東の本州東海岸)

享和元年(1801年)4月2日、第二次測量が開始されます。今回の測量は蝦夷地の測量ではなく、伊豆半島以東の本州東海岸が決められました。

また今回の測量から歩測ではなく間縄を使用して測量されることとなります。

4月から開始された測量は12月7日に終わり、江戸に到着後、伊能忠敬はさっそく地図の製作を開始します。完成した大図・中図・小図からなる地図は堀田正敦に提出されました。

 

第3次測量(日本海側の陸奥・三厩から越前、尾張国から駿河国)

享和2年(1802年)6月3日、伊能忠敬は堀田正敦からの測量命令を受けます。今回の測量は日本海側の陸奥・三厩から越前そして、尾張国から駿河国までのものでした。

一行は同年6月11日に江戸を発ち、測量をしながら同年10月23日に江戸に到着しました。伊能忠敬は江戸で地図を完成させ、翌年の享和3年(1803年)1月15日に江戸幕府に提出しました。

 

第4次測量(駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡)

享和3年(1803年)2月18日、堀田正敦から測量を命じられます。今回の測量は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後そして佐渡まででした。

2月25日に一行は江戸を発ち、7月5日には能登半島に到着します。道中、伊能忠敬は病気を患うこともありましたが10月7日に江戸に到着しました。

江戸に戻った伊能忠敬は第一次測量から第四次測量までの測量結果をまとめ文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚からなる東日本の地図を完成させました。(日本東半部沿海地図)

この間、師匠である高橋至時が文化元年(1804年)正月5日に亡くなります。

高橋至時はもともと東日本の測量を伊能忠敬に、西日本の測量を間重富に任せるつもりでいました。しかし、新しく天文方に就任した高橋景保はまだ若く、補佐役を必要としていたのです。

そのため間重富が補佐役を務めることとなり、結果、伊能忠敬は東日本の測量に加え、西日本の測量をすることとなったのでした。

 

第5次測量(本州の西側、四国・九州、対馬、壱岐などの離島)

文化2年(1805年)2月25日、第五次測量が開始されます。今回の測量は本州の西側、四国・九州、対馬、壱岐などの離島で決められました。

範囲が広いため、33か月かけて測量する計画でしたが、予想以上に測量に手間がかかったため、測量は4回に分けられ、結果的に11年を要することとなりました。

文化2年(1805年)2月25日に江戸を発った伊能忠敬らは関西を中心に測量を行い、文化3年(1806年)1月18日に岡山を発ちます。

同年11月3日には名古屋に到着し、11月15日に品川に到着しました。今回の地図は翌年の12月に完成したとされています。

 

第六次測量(四国)

文化5年(1808年)1月25日、伊能忠敬らは四国測量のため江戸を発ちます。今回の測量で伊能忠敬は病気を患いましたが、文化6年(1809年)1月18日江戸に到着しました。

 

第7次測量(九州地方)

文化6年(1809年)8月27日、第7次の測量が開始されます。今回の測量は九州を中心とした測量で、現在の東京都北区にあたる王子から中山道を経由し、年越し前に豊前小倉(現在の北九州)に入りました。

豊前小倉で年を越した伊能忠敬らはさっそく九州地方の測量を開始。鹿児島で桜島の観測や木星の観測をした後、種子島、屋久島の観測を行う予定でしたが、結局測量に手間がかかり、また病人も出たため種子島、屋久島の観測は諦め文化8年(1811年)5月8日、江戸に戻りました。

 

第8次測量(種子島、屋久島、九州北部地域)

文化8年(1811年)11月25日、伊能忠敬らは前回できなかった種子島、屋久島、九州北部地域の測量を行うため江戸を発ちました。

翌年の文化9年(1812年)1月25日、小倉に到着、3月27日に屋久島に到着します。

各地の測量を経て文化11年(1814年)5月22日に伊能忠敬らは江戸に帰ってきました。

この測量の間、副隊長の坂部貞兵衛が病気のため亡くなり、また佐原村にいた伊能忠敬の長男・伊能景敬も病気で亡くなるといったことがありました。

江戸に帰った伊能忠敬はさっそく地図の作成を開始しますが、伊能忠敬が住む深川黒江町の家は地図製作をするには少し狭かったため、文化11年(1814年)6月、八丁堀亀島町に移り住みます。

 

第9次測量(伊豆七島)

文化12年(1815年)4月27日、第9次測量が開始されます。今回の測量は伊豆七島を中心とした測量でした。

各地での測量を経て文化13年(1816年)4月12日伊能忠敬らは江戸に帰還しました。

 

第10次測量

第9次測量と並行して、文化12年(1815年)2月3日から2月19日まで江戸を中心に第10次測量が行われていました。71歳の伊能忠敬もこの測量に参加していたとされています。

この測量を終えたところで伊能忠敬は

伊能忠敬
昔測った東日本の測量は、なんだか西日本の測量に比べて出来が悪いな…

と感じ始めます。そこでもう1度、正確に測り直す計画を立てますが、幕府はこれを拒否、代わりに伊能忠敬らに江戸府内の地図を作製するよう命じました。

この測量は文化13年(1816年)8月8日から10月23日まで行われましたが、伊能忠敬は作業に関わらず、度々指揮をとっていたと考えられています。

 

伊能忠敬の最期

全ての測量を終えた伊能忠敬らはさっそく、各地の地図を繋ぎ合わせ1枚の地図を作り始めます。

この作業は文化14年(1817年)に終わらせる予定でしたが手間のかかる作成であったため、この予定は大幅に崩れることとなります。

文化14年の秋頃から喘息がひどくなり、病床にいる時間が増えた伊能忠敬でしたが、なんとか地図作成の作業には携わっていました。

しかし、文政元年(1818年)になると急激に体力が落ち、地図は完成できないまま4月13日、74歳で亡くなりました。

亡くなる直前、伊能忠敬は

伊能忠敬
私がここまでできたのは師匠・高橋至時先生のおかげだ。死んだら高橋至時先生のそばで眠りたい。

と語っていたため、高橋至時・景保父子の墓がある上野源空寺に伊能忠敬の墓は建てられました。

伊能忠敬の墓(上野源空寺)画像出典:Wikipedia

 

完成した日本地図

伊能忠敬が亡くなった後、未完成であった日本地図の製作は高橋景保らによって続けられ、文政4年(1821年)、地図は完成し『大日本沿海輿地全』と名付けられました。

『大日本沿海輿地全』は別名『伊能図』と呼ばれ、この地図は日本で初めての実測による日本地図とされています。

『大日本沿海輿地全図』第76図(越後)画像出典:Wikipedia

『大日本沿海輿地全図』第90図(武蔵・下総・相模)画像出典:Wikipedia

 

緯度はわずかな誤差、経度は大きな誤差が

伊能忠敬は日本地図を作る際、地球は球体であると考え、緯度1度の距離は28.2里と設定しました。28.2里は現在の値に直すと、約113km。

緯度1度は約111kmであることから、その現在の値と比較してその誤差はわずかなものでした。当時としては非常に正確な地図が完成したのです。

一方で、経度については正確な天体観測ができなかったこと、各地域の地図を1枚にまとめる際、接合部分が上手く繋がらなかったことから、北海道と九州部分には大きな誤差が生じました。

 

「大日本沿海輿地全」にまつわるエピソード

伊能忠敬の死後、「大日本沿海輿地全」は江戸幕府が所有する紅葉山文庫で保存されました。

しかし文政11年(1828年)フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによってこの地図が国外に持ち出されるそうになるといった事件が起こります。未遂に終わりましたが、関わったとされる蘭学者・高橋景保らが江戸幕府によって処罰されるなど大きな事件として発展しました。

この事件はシーボルト事件と呼ばれています。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

画像出典:Wikipedia

 

まとめ:伊能忠敬の功績

伊能忠敬は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、日本各地の測量を行い、日本で初めての実測による日本地図「大日本沿海輿地全」を完成させた人物でした。

当時の平均寿命を超えた50歳から測量を始めた伊能忠敬。高齢でありながらも17年もの間、日本各地を歩き続けたのです。

まとめ▼

伊能忠敬の功績

  • 延享2年(1745年) 誕生
  • 宝暦12年(1762年) 伊能家に婿入り
  • 天明元年(1781年) 佐原村の名主に就任
  • 寛政6年(1794年) 隠居
  • 寛政7年(1795年) 暦学を学ぶ
  • 寛政12年(1800年) 第1次測量
  • 享和元年(1801年) 第2次測量
  • 享和2年(1802年) 第3次測量
  • 享和3年(1803年) 第4次測量
  • 文化2年(1805年) 第5次測量
  • 文化5年(1808年) 第6次測量
  • 文化6年(1809年) 第7次測量
  • 文化8年(1811年) 第8次測量
  • 文化12年(1815年) 第9次測量
  • 文化13年(1816年) 第10次測量
  • 文化15年(1814年) 死去。享年74。
  • 文政4年(1821年) 『大日本沿海輿地全図』の完成