関ヶ原の戦いの敗者【石田三成】とは何者?その生涯から最期までを解説します

石田三成と言えば、関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れたことが有名です。多くのドラマ、映画で描かれており、かなりの方が御存じかと思います。

六条河原で最期をむかえるまでいくつかのエピドードがあり、処刑直前の柿のエピソードなども語り伝えられています。この記事では、石田三成の生涯を解説します。

石田三成肖像画

出典:Wikipedia

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生い立ち

石田三成は、近江の土豪、石田正継(京極氏の被官という説もあり)の次男として生まれました。

10代半ばで、父正継、兄正澄と共に、長浜城主となったばかりの羽柴秀吉に仕えたと言われています。

秀吉への仕官の時に、「三献茶」という逸話が残されています。

秀吉が鷹狩りの途中、のどの渇きを感じて寺に立ち寄り、茶を所望したところ、寺小姓はまず大きめの茶碗にぬるいお茶を出してのどの渇きを鎮め、次にやや小さい茶碗でやや熱めのお茶を、そして最後に小さな茶碗で熱い茶を出してお茶の味を秀吉に堪能させた、という内容です。

この心遣いに感心した秀吉はこの寺小姓を召し抱えた、それが石田三成と言われています。

この逸話は史実としては微妙であるとされていますが、三成の頭の回転の良さを示す逸話として知られています。

三成は秀吉の小姓として仕え、秀吉が信長の命令によって中国の毛利攻めを行っている際には、中国地方に同行しています。しかし生誕から秀吉が政権を取るまでは、さして目立つ行動はありませんでした。

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豊臣政権下で頭角をあらわす

本能寺の変後、秀吉が台頭するに従い、三成は側近として頭角をあらわし始めます。

柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで手柄を挙げ、徳川家康との小牧・長久手の戦いでも参陣しています。

実務家として台頭

秀吉が関白に任じられると、三成は従五位下治部少輔に任じられます。ドラマで秀吉が三成を「じぶのしょう」と呼ぶのはこの名を使っているわけです。

その後三成は、堺奉行として堺を秀吉の補給基地として整備し、秀吉の軍事行動を後方支援します。そして博多奉行として現在の福岡の発展の基礎を築きます。

朝鮮出兵の時には、総奉行として明との講和交渉に大きな役割を果たします。そして秀次事件では取り調べを担当し、この事件後、佐和山城主となります。

京都奉行に任じられた時期に、秀吉はキリシタン弾圧令を出します。この時三成は、京都のキリシタン捕縛数をなるべく減らし、処刑される予定の信者達の減刑を秀吉に進言しています。

そして二度目の朝鮮出兵時に秀吉が亡くなり、急ぎ終戦、撤退工作が必要になると、これを取りまとめます。

しかし、この過程で後に致命的となる対立が生まれてしまいました。

佐和山城跡

出典:Wikipedia

武断派大名との対立

秀吉配下の中で、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、黒田長政、浅野幸長、加藤嘉明は武勇でのし上がった武将です。一方で、石田三成、大谷吉継、小西行長は実務でのし上がった武将です。

この2つのグループに対立が生まれ、秀吉子飼いの武将達は一枚板ではなくなります。この2つのグループを取り持っていたのは、前田利家でしたが、利家が亡くなると、対立の激化が避けられなくなります。

そして、先に挙げた武断派の武将が三成を襲撃するという事件が起きます。この事件は家康の仲裁により解決しますが、三成は佐和山に引きこもらざるを得なくなります。

文治派の武将ということもあり、三成は戦がそれほど上手くなかった、と言われています。映画「のぼうの城」などにも描かれた三成も、その印象を強くしたのではないでしょうか。しかしのぼうの城で描かれた忍城攻めは、秀吉の命令通りに行ったという記録もあり、一概に戦ベタとは言えません。実際、関ヶ原の戦いでは、石田三成の軍勢は黒田長政・細川忠興の軍勢と正面からぶつかり合い、長時間もちこたえています。

家康との対立、そして関ヶ原の戦い

石田三成は家康と対立した武将として知られていますが、実際は対立できるだけの力があったのでしょうか。

秀吉が亡くなった時期の石高を比べると、徳川家康は250万石であったのに対して、石田三成は19万石です。領地の規模からすると、三成はとても家康に太刀打ちできません。

豊臣家の代弁者として

秀吉は自らの死後、幼い秀頼の後見・補佐にと、五大老・五奉行を作りました。五大老は、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、という大大名、五奉行は、石田三成、浅野長政、前田玄以、増田長盛、長束正家といった政治実務を担う官僚です。

大老は実際には小早川隆景を含めて六名でした。しかし秀吉がこのシステムを構築後、小早川隆景が亡くなり、実質五大老となります。小早川隆景は毛利元就の三男であり、毛利家当主の毛利輝元を補佐し、毛利三家(毛利家、小早川家、吉川家)を主導する重鎮でした。隆景が亡くなった事は、豊臣家にとって大きな痛手でした。

秀吉の死直後、家康と他の四大老、五奉行の対立が徐々に始まります。いったん家康が折れる形で事態は収束しますが、三成は家康への警戒を緩めませんでした。

三成は豊臣家の代表として家康と対立します。しかし、豊臣家内部では武断派の武将から三成は反感を買っており、必ずしも三成が意図する”豊臣家の代弁者”として周囲から認められていたわけではないようです。

豊臣家の代弁者であれば、勢力としては秀吉恩顧の大名と合わせて家康に十分対抗できると考えた三成でしたが、実際はそうではななかったようです。

実直さが招いた反感

理非直曲(東独的に正しい事と間違っている事、公正である事と公正でない事)をはっきりさせて政務を行っていた三成は、秀吉恩顧の武将から反感を買われていました。

加藤清正
三成は私の朝鮮出兵での失敗を太閤殿下(秀吉)に告げ口した。
黒田長政
三成は太閤殿下に私の事を悪く言った。そのせいで私は太閤殿下から叱責された。

実際はこのような告げ口はなかったと言われていますが、武将の不満は秀吉の最も信頼する側近の三成に集中した事は事実です。

そして、前田利家の言葉は三成の性格を如実に表しています。

前田利家
石田三成はよく切れるカミソリだが、才覚は素晴らしく忠義者である。だが、度量が狭い。実があって華がない。

関ヶ原の戦い

家康が会津の上杉征伐で東に向かうと、三成は家康に対して挙兵します。

豊臣家のため、という大義名分はあったのですが、福島正則、加藤清正、黒田長政などの豊臣恩顧の大名は家康の東軍に属しました。いずれも豊臣政権下で三成と対立していた大名です。

一方、三成方の西軍には、毛利、小早川、吉川の毛利一族、小西行長、大谷吉継、島津義弘、東日本では上杉景勝が家康と対峙していました。そしていざ関ヶ原で開戦となると、小早川秀秋、他にも朽木、脇坂、赤座の諸武将が裏切り、関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わります。三成は捕らえられ、斬首となり、その首は三条河原にさらされました。

斬首前、京を引き回されている最中にのどの渇きを訴えた三成に、田中吉政配下の武士が柿をすすめたところ、「柿は身体の毒なので食べない」と断りました。

「まもなく首をはねられるのであるからよいではないか」と言われると、「首を刎ねられるまでは、自分の目的を果たす事を諦める事はない。最後まで命を大切にして本望を達したい。」と答えたそうです。

まとめ

石田三成がどういう人間だったか、立場ごとに見てみましょう。

豊臣の家臣として

常に豊臣家のため、を考えていた三成は、カリスマ性を持った秀吉の下では非常に有能な人材でした。時に思いつき、気まぐれでいろいろと決めてしまう秀吉の政策を調整し、実行する能力は非常に高かったと思われます。しかし、秀吉が亡くなり、前田利家が亡くなると、三成に味方する武将はそれほど多くありませんでした。

度量の広い上司がいてこその石田三成ではなかったか、と考えられます。自らリーダーシップをとるのではなく、強いリーダーの下にこそ、三成の居場所があったのかもしれません。

戦国武将として

政治の実務担当として取り立てられた石田三成は、取り立てられる経緯もあって戦は下手と思われています。しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦、杭瀬川の戦いでは徳川軍を打ち破っています。実際はそれほど下手ではなかったのではないでしょうか。とはいえ、石田三成の戦は、三成配下の島左近に依存していたという説もあります。

領主として

関ヶ原の戦い後、三成は佐和山城を目指して逃れます。しかし佐和山城は関ヶ原の戦い翌日に落城しており、三成は近江国周辺に潜伏します。潜伏した近江国古橋村では、領主時代の三成の恩に報いて、三成をかくまいました。

三成が治めた領地は、過酷な税に苦しむ事もなく、飢饉の時には三成が城内から米を救援物資として供給したので、農民達に慕われていた、と記録にはあります。関ヶ原の戦い後、佐和山城を落とした東軍武将の記録には、城内には金銀どころか、備蓄米もほとんどなかった、とのことです。

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