【中臣鎌足】は百済からの渡来人?何をした人なの?

後に藤原の姓を贈られ、藤原鎌足として知られることになる中臣鎌足。中大兄皇子と協力して大化の改新を成功させ、時の権力者となった中臣鎌足は、百済からの渡来人なのではないかという説があることをご存知でしたか?

今回は中臣鎌足がどんな人なのか、百済から来た渡来人なのかについて調べてみました。平安時代に藤原道長が大きな権力を握ることができたのも、中臣鎌足が中大兄皇子から信頼されて藤原の姓を贈られたからです。藤原氏の始祖である藤原鎌足について知って、この国の歴史の理解を深めてください。

百済からの渡来人?中臣鎌足はどんな人?

中臣鎌足は秀才だった

中臣鎌足の絵巻の写真

出典画像:wikipedia

中臣鎌足は、とても優秀だったことでも知られています。彼は早くから六韜を暗記するなど、勉学にも熱心に励んでいました。南淵請安の塾で儒教を学んでいて、その塾内でも蘇我入鹿とともに秀才とされていました。一族の中でも中臣鎌足の優秀さは知られていたようで、日本書紀によると中臣鎌足は家業である祭官に就くことを期待されていたようです。

六韜(りくとう)は、中国の兵法書です。当時最先端の知識を持っていた中国の兵法書を暗記していたことから、中臣鎌足が兵学にも興味を持っていたことが分かります。

中臣鎌足と中大兄皇子の出会い

中臣鎌足の切手の写真

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中臣鎌足が生きていた時代、時の権力者となっていたのは蘇我一族でした。そのため、中臣鎌足は蘇我氏打倒の計画を密かに立てていたのです。しかし、彼一人では蘇我氏の勢力を削ぐことはできません。蘇我氏討伐の後には蘇我氏の息がかかっていない擁立する皇子も必要がありました。

中臣鎌足はまず後の孝徳天皇となる軽皇子に近付き、その後中大兄皇子に近付いたとされています。中大兄皇子と協力して蘇我氏打倒の計画を立てるようになると、さらに有力な協力者として蘇我倉山田石川麻呂も仲間に迎え入れました。

乙巳の変後の中臣鎌足の活躍

乙巳の変を描いた絵巻の写真

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乙巳の変とは、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺した事件です。蘇我入鹿が暗殺されたことで入鹿の父、蘇我蝦夷は自害しました。蘇我一族の有力者が2人いなくなったっことで、蘇我氏が持っていた政治的権力は弱まりました。乙巳の変での戸籍が認められ、中臣鎌足は新しく置かれた内臣に任じられたのです。内臣になったことで、中臣鎌足は新政権の下で軍事的な権力を握ることができました。

飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、皇極天皇の皇居が置かれていた場所です。
今では元型を留めていませんが、飛鳥京跡にあるとされています。

藤原鎌足の晩年

談山神社の写真

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中臣鎌足は、死の直前に中大兄皇子が見舞いに訪れると私は軍事で国に貢献することができなかったと嘆いていたようです。

中臣鎌足は白村江の戦いに敗北したことに、強い責任を感じていたということが分かります。中臣鎌足は天智天皇となった中大兄皇子から「藤原」の姓を贈られた翌日に、56才でその生涯を終えました。藤原鎌足は、奈良県の桜井市にある多武峯(とうのみね)の談山(たんざん)神社に祀られています。この談山神社は桜と紅葉の名所になっていて、大和七福八宝めぐりの寺の1つにも数えられることで有名です。

彼の歴史に興味がある方は、是非談山神社を訪れてください。さらに大阪府の四條畷市(しじょうなわてし)にある忍陵(しのぶがおか)神社の主祭神としても藤原鎌足は祀られています。

中臣鎌足は百済からの渡来人?

中臣鎌足が渡来人だという証拠はない

百済の国の位置の写真

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中臣鎌足は朝鮮半島にあった国、百済からの渡来人なのではないかという説があります。残念ながら、この説には確かな根拠はありません。渡来人には優れた知識を持っている人も多く、日本でも重宝されている人が多くいました。中臣鎌足はとても優秀な人物で、大化の改新を成功させるために不可欠な人物でした。しかも、中臣鎌足はあまり出自がはっきりとしない人物です。

出自がしっかりしない→もしかしたら渡来人なのではないか?という説が囁かれるようになった、と考えられます。

中臣鎌足が出世できたのは、彼の能力が認められたから

藤原鎌足の像の写真

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中臣家は名前だけは名家ですが、鎌足の家は弱い分家です。中臣鎌足は一族から祭官に就くことを求められたほど優秀な人物でしたが、中大兄皇子と協力して大化の改新を行うまでは、あまり権力を持たない存在でした。そんな彼について記述が今でも残るようになったのは、彼の才能が認められて政治の面でも活躍したからです。

もしも中臣鎌足が百済からの渡来人であった場合、何らかの優れた知識を持っていて日本に来た可能性が高いため、渡来人だという記述が残っていてもおかしくないのですが、その記述はありません。これらのことから中臣鎌足は百済からの渡来人ではなく、自分の才能で出世した日本人と考える方が一般的です。

まとめ

今回は大化の改新で活躍した藤原道長の先祖であり、藤原氏の始祖である中臣鎌足の生涯について紹介しました。彼は百済から来た渡来人なのではないか、と言われることもありますが、正確な証拠は残っていません。百済からの渡来人という証拠がないため、才能が認められて活躍した優秀な日本人である可能性の方が高いです。あまり権力を持たない立場から努力と才能で出世した中臣鎌足からは、私達も沢山のことを学ぶことができます。

彼の生涯に興味がある方は、是非談山神社や忍陵神社を訪れてください。

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