【桓武天皇】が長岡京から平安京に遷都した理由とは?生母についても調べてみました

白壁王(後の光仁天皇)の長男として誕生した桓武天皇。実は、もともと生母・高野新笠の身分が低いため天皇になることはなかった人物でした。しかし、政変によって状況は変わり桓武天皇は天応元年(781年)4月15日に即位し第50代天皇となりました。

即位した桓武天皇は平城京内にいる奈良仏教の勢力や貴族から距離を置くためなどの理由で平城京から長岡京へ遷都し、その約10年後には災害や、早良親王の怨霊などの理由で長岡京から平安京に遷都しました。他にも坂上田村麻呂を征夷大将軍にたて蝦夷を平定した人物としても知られています。

そんな生母の身分が低いがために天皇になれるはずのなかった桓武天皇の生い立ちや2度にわたる遷都、坂上田村麻呂を征夷大将軍とした蝦夷討伐について画像を用いながらご紹介します。

 

桓武天皇の生い立ちと身分の低かった生母・高野新笠

桓武天皇は天平9年(737年)、父・白壁王(後の光仁天皇)と母・高野新笠の長男として誕生しました。桓武天皇の生母・高野新笠は百済から来た渡来人の和乙継の娘であったこともあり、身分は低かったとされています。そのため、生母の身分が低いということから桓武天皇が天皇になることは予想されていませんでした。

当時は天皇の長男であれども母親の身分が低ければ天皇になることはありませんでした。

桓武天皇の父・白壁王(後の光仁天皇)も実は天皇になることはないと予想されていた人物です。
というのも、父・白壁王(後の光仁天皇)には弟・天武天皇がおり、奈良時代後半に入ると弟・天武天皇に系統が引き継がれるようになっていたからです。そのため兄にあたる白壁王(後の光仁天皇)には皇位継承はなされることはなく、その息子である桓武天皇も皇位を継げる立場ではなかったのです。

しかし、宝亀元年(770年)10月、藤原氏の政変などがあり桓武天皇の父・白壁王が62歳で即位します。(光仁天皇)高齢による即位でありました。この時、桓武天皇は36歳と考えられています。もともと天皇となることを予想されていなかった桓武天皇でしたが、父・光仁天皇が天皇となったことで、皇位を引き継げることが期待され始めました。

 

桓武天皇の即位

62歳であった父・光仁天皇は宝亀8年(777年)11月頃から病を患い始めたとされ、天応元年(781年)4月3日になると行く末を案じ、息子である桓武天皇に譲位しました。譲位された12日後の天応元年(781年)4月15日には桓武天皇は即位したとされ藤原良継の娘・藤原乙牟漏を延暦2年(783年)4月18日に皇后にたてました。

桓武天皇が即位したのは43歳となった頃です。他の天皇に比べかなり遅い年齢での即位となります。

 

仏教勢力から距離を置くため平城京から長岡京へと遷都する

こうして第50代天皇となった桓武天皇は延暦3年(784年)長岡京に都を造営します。

長岡京とは現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区にあたる場所に作られた都のこと。

これまで、現在の奈良県奈良市、大和郡山市近辺に平城京と呼ばれる都があったのですが、桓武天皇は

  • 皇位の系統が天武天皇系から父・光仁天皇に戻ったことによる人心一新
  • 交通面
  • 平城京内にいる奈良仏教勢力や貴族から距離を置くため

などの理由で平城京から長岡京に都を移すべく、造営を開始したのです。

平城京

平城京の写真

出典画像:Wikipedia

 

平安京に遷都

延暦3年(784年)11月11日には平城京から長岡京に都を移したとされていますが

  • 災害
  • 身内の不幸
  • 早良親王の不自然な死

などが相次ぎ、これらの不幸は桓武天皇に徳がなく、天皇の資格はないと民衆から評価されることを恐れ、平城京から長岡京に遷都したわずか10年後の延暦13年(794年)、長岡京から現在の京都府京都市・京都市街にあたる平安京へと再び都を移しました。

都を移すことを「遷都」といいます。今では考えられませんが、当時は災害や身内の不幸などが続くと都の場所を変えるという考えがあったのです。

簡単に遷都された順をまとめると、平城京→長岡京→平安京となります。

長岡京跡碑

長岡京跡碑の写真

出典画像:Wikipedia

平城京

平安京復元模型の写真出典画像:Wikipedia

 

早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇

長岡京から平安京に遷都した理由の中に早良親王の不自然死があります。早良親王とは、桓武天皇の同母弟にあたる人物です。桓武天皇には安殿新王と呼ばれる息子がいました。この息子桓武天皇は譲位させる予定でしたが、まだ安殿新王は幼かったため、早良親王を皇太子にたてました。兄弟でありながら、ともに政治活動を行ってきた2人でしたが、事件が起きます。

桓武天皇によって平城京から長岡京に遷都された頃、長岡京遷都の責任者であった藤原種継が暗殺されるといった事件です。この事件の容疑者は未だ判明していませんが、当時、疑われたのは早良親王であったとされています。暗殺の容疑者として疑われた早良親王は容疑を晴らすため絶食を続けました。

しかし、淡路国に流罪に処されることとなり、結局、早良親王は淡路国に向かうまでの間で餓死したとされています。暗殺したという証拠もないまま早良親王は流罪となり亡くなりました。その後、都では不可解な死や災害などが多く起きたため、これは早良親王による祟りだと恐れられ、桓武天皇は長岡京から平安京に遷都したとされています。桓武天皇は早良親王の怨霊を鎮魂するため「崇道天皇」という追号を与えるなどしました。
桓武天皇は同母弟である早良親王の怨霊を恐れていたのです。

桓武天皇
 早良親王の祟り、恐ろしい!

蝦夷の討伐

桓武天皇は平城京から平安京に遷都する一方で、現在の関東地方と東北地方あたりにいた蝦夷と呼ばれる人々の討伐にあたっていました。当時、蝦夷は大和朝廷に服従しておらず、そのため桓武天皇は蝦夷を大和政権に服従させ東北地方を平定するため、蝦夷討伐を行ったのでした。

桓武天皇
蝦夷の討伐、任せた!

征夷大将軍・坂上田村麻呂の活躍

この討伐は3回行われ、1回目となる討伐は延暦8年(789年)に行われたとされています。この時、蝦夷征討の総司令官となったのは紀古佐美という人物でした。しかし、1回目の蝦夷討伐は惨敗に終わります。延暦13年、2度目となる蝦夷討伐が行われました。

この2回目の蝦夷討伐では、かの有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役に任命され、
延暦20年(801年)の3度目となる蝦夷討伐で、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命されます。坂上田村麻呂は見事、蝦夷の軍事指導者・アテルイを打ち破り、蝦夷は滅亡、平定されました。

坂上田村麻呂の写真出典画像:wikipedia

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桓武天皇の最期

桓武天皇は延暦25年(806年)4月9日、70歳で亡くなりました。桓武天皇の死因は分かっていませんが、桓武天皇は死の直前まで弟である早良親王の怨霊を恐れていたとされています。

 

まとめ

いかがでしたか?桓武天皇は遅咲きの天皇で、平城京から長岡京、長岡京から平安京に遷都した人物でした。またその間にも、蝦夷の討伐などを行っていたとされています。しかし、在任中に亡くなった弟・早良親王の怨霊を非常に恐れていたとされ、自身の死の直前まで早良親王の怨霊に読経をほどこしていたとされています。

桓武天皇亡き後、桓武天皇の第1皇子・平城天皇が即位しました。しかし、病気がちであった平城天皇は病気の原因は早良親王の怨霊だと考え、即位からわずか3年で譲位します。父・桓武天皇の恐れた早良親王の怨霊は息子・平城天皇の代でも恐れられる結果となっていました。

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