一騎打ち【武田信玄VS上杉謙信】結局どちらが勝者?川中島の戦いについて

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甲州、信濃と平定し勢力を拡大していく武田信玄と越後の支配者で幕府にその武力を買われた上杉謙信【川中島の戦い】は戦国武将の合戦の中でもとても人気です。この川中島の戦いは5回にも渡る長い戦いとなりました。
それぞれ、どのようなエピソードがあったのか、また勝敗はどうだったのかわかりやすく解説します。

 

武田軍VS上杉軍 川中島の戦い

川中島の戦いの絵

出典画像:Wikipedia
川中島の戦いは、戦国大名である武田晴信(武田信玄)と長尾景虎(上杉謙信)の信濃国の北部の制圧をめぐり戦います。川中島の戦いは第1次から第5次合戦まであり、約12年もの長い間戦いが続きました

第一次川中島の戦い

川中島1次から5次までの戦い地図

出典画像:Wikipedia

1553年(天文22年)越後の長尾景虎と武田晴信が初めての戦いです。第一次川中島の戦いは別名、
更科八幡の戦い、布施の戦い
と呼ばれています。

村上義清景虎から兵を援助してもらい、八幡で晴信軍に勝利します。その戦いを
八幡の戦い
と言います。この勝利により村上義清は葛尾城を取り返しますが、再び武田軍が村上の城を落城し、村上義清が籠る塩田城を攻撃します。また村上義清は城を放棄し、越後国へ逃げてしまいます。

同年、長尾景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣します。これを 布施の戦い と言います。布施で武田軍の先頭の部隊を突破し、荒砥城を落としたら、次は青柳城を攻撃しました。
武田軍は、今福石見守が守る苅屋原城の援護する為、援軍を派遣し、夜に荒砥城を奇襲し、長尾軍の退路に仕留めようとしたので、景虎は八幡まで兵を撤退させます。景虎は、兵を塩田城に向けたましたが、塩田城に籠もっている晴信が決戦を避けたのを見て、景虎はそれを良しとして越後国へ引きあげ、晴信も本拠地である甲斐国・甲府へ戻りました。

この戦いで、 長尾軍は村上義清の旧領地を取り戻すことは出来なかったけれど、北信濃国衆の離反を防ぐ事が出来ました。武田軍も、村上の諸城や領土を守れたのでお互いに戦果を挙げたとして引き分けの戦い でした。

第二次川中島の戦い

信濃国の善光寺の栗田永寿が武田軍に寝返った為、長野南半分が武田の支配下になりました。
1555年(天文24年)長尾景虎は、武田晴信から善光寺を奪い返したいと戦いが始まります。栗田軍と武田軍は3000人の兵力で栗田氏のもつ旭山城に籠ります。対する長尾軍は旭山城を封じる為葛山城を築き、拠点にします。そして犀川を挟んで、両軍がにらみ合ったことから、この第二次川中島の戦いを 犀川の戦い と呼ばれています。

お互い戦いをしかけますが、埒が明かず、このにらみあいの戦いは200日余も続きました。この長い期間のの戦いに両軍の兵糧を確保するのに苦しみます。駿河国の今川義元の仲介で和解します。その和解の条件として、晴信は信濃国北部の須田氏、井上氏、島津氏の旧領地を返し、旭山城も手放すことに武田軍が了承し、両軍は撤兵します。これにより、長尾軍の勢力は長野の北半分を占めることになります。

この後、武田晴信は木曽郡の木曾義康と義昌を降伏させて、南信濃を平定します。

第三次川中島の戦い

甲斐善光寺の画像

出典画像:Wikipedia

 

長尾景虎は内紛が起こり、高野山へ出家してしまいます。一方武田晴信は、信濃北部への侵攻を開始します。晴信は景虎の家臣である大熊朝秀に反乱を起こさせます。この動揺の中、晴信は長尾軍の支配下にある葛山城を落城します。この事態に、長尾景虎は怒り、出家をやめて挙兵します。

1557年(弘治3年)長尾景虎は、10000の兵を連れて、春日山城を出陣し川中島へ向かいます。一方武田軍は20000人の兵力で待ちかまえます。そして、両軍は善光寺の北に位置する上野原で合戦します。これを 上野原の戦い と呼びます。

この合戦でお互いに打撃を与える事が出来ずに引き分けで終わります。その理由として、長尾景虎は、室町幕府第13代将軍の足利義輝が松永久秀と三好長慶の乱で追い込まれていて助けに上洛するようにと命令されていました。ですので、長尾景虎は兵を撤退せざるを得なくなり、成果も出せずにこの合戦は終わったと言われています。

1559年(永禄2年)に武田晴信が出家し、武田信玄に改名します。長尾景虎も関東管領就任し、上杉政虎に改名します。

第四次川中島の戦い

第四次川中島の戦いの絵

出典画像:Wikipedia

1561年(永禄4年)川中島の戦いで 一番激しく両軍が争った とされているのは第四次川中島の戦いと言われています。武田軍の兵力は20000人、上杉政虎率いる兵力は13000人です。

この第四次川中島の戦いが有名なのは戦略が優れていることです。上杉軍が妻女山に陣を取ります。戦うにしろ、上杉軍は山を降りなくてはならりません。そこをついて、武田信玄は軍を2つに分け攻撃をする戦略を立てます。上杉軍の背後から別働隊に襲わせ、敵が前に逃げてきたところにもう一つの本隊が攻撃して仕留める戦略です。これが、啄木鳥戦法と呼ばれ、啄木鳥が木を叩いて木の中の虫をおびき出す様に似ていることから名づけられました。

深夜に信玄は、この啄木鳥戦法を実行するために動き出します。しかし、海津城から炊煙が多いことを政虎は見逃さず、信玄が位置に付く前に山を降りて八幡原に布陣しました。そして、朝の霧が晴れると信玄達の前には陣をとっている政虎軍がいます。そこから両軍の合戦が始まります。上杉軍は戦いと休憩を部隊ごとに繰り返して戦い続ける、車懸りの陣と呼ばれる戦法で突進してきます。

信玄と謙信の一騎打ちの銅像

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そしてこの戦いで、上杉政虎が武田信玄と一騎打ちしたと言われています。上杉政虎が名馬に跨り、名刀を持ち信玄の前まで突き進んできます。政虎が信玄に刀を振り下ろすと、信玄は持っていた軍配(相撲の行司が持っているもの)で応じたと言われています。

初めは上杉軍が優勢でしたが、武田軍の別働隊が八幡原に戻り参戦されると、武田軍が優勢になってしまったので、上杉軍は撤退し、越後まで戻ります。同じく武田軍も追撃を止めて八幡原に戻り、合戦は終わりました。この戦いで上杉軍は3000人、武田軍は4000人もの死者をだします。

この合戦で政虎が諸将に宛てた感状を血染めの感状と呼ばれています

1561年(永禄4年)に上杉政虎から上杉輝虎と改名します。

第五次川中島の戦い

1564年(永禄7年)上杉輝虎は武田信玄の飛騨国侵攻を止める為に川中島に出陣しました。武田信玄は長野の南端にある塩崎城に進出しますが、合戦は無く、2ヶ月間対陣しますが、両軍とも撤退し終結しています。この戦いを 塩崎の対陣 と言います。

これ以降、武田信玄は東海道の美濃や上野方面に侵攻していき、上杉輝虎も関東出兵に出向き戦いが起きる事はありませんでした。

まとめ

いかがでしたか?
川中島の戦いは約12年と長い間戦ってきました。武田信玄の戦略は見事ですし、上杉謙信の作戦を見破り、兵力の違いも物ともせず戦い進めて行く姿が魅了されます。
しかし、この長い期間の川中島の戦いは、勝敗はつかず引き分けで終わっています。それが、またこの川中島の戦いの人気の理由なのかもしれません。

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