1968年4月4日、テネシー州メンフィスにあるモーテルのバルコニーで打ち合わせをしていた午後6時過ぎ、キング牧師が白人男性に銃撃されました。当時、筆者はまだこの世に産まれてはいませんでしたが、キング牧師の有名な演説を中学の教科書で習って感銘を受けたこと、今でも鮮明に覚えています。彼は当時、公民権運動の指導者であり、アフリカ系アメリカ人(昔の言い方ですと「黒人」) の人種的差別の歴史の中ではキーパーソン的存在として知られています。
この記事では、アメリカ公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師) が歩んだ生涯や、「I have a dream(私には夢がある)」という、教科書にも載るほど有名な演説や功績について、そして彼が暗殺されたという事件に関して、まとめてみたいと思います。
目次
生い立ち~幼少期時代のキング牧師
キング牧師の本名はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。1929年1月15日アメリカジョージア州アトランタに産まれました。父親はマーティン・ルーサー・キング・シニア(キング一世)で、エベネザー・バプティスト教会で牧師の助手をしていました。母親はその教会牧師の一人娘、アルバータです。夫婦にとっては3番目の子供となり、2歳年上の姉のウィリー・クリスティーン、1歳年下の弟のアルフレッド・ダニエルの3人兄弟です。
父マイケル・ルーサー・キングは息子にも同じ名前を付け、後にマーティンと改名した際に息子も同様に改名し、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとなりました。
彼が生まれた1929年は世界大恐慌の始まった年ですが、キング牧師の家は比較的裕福な中流家庭で貧困とは無縁の豊かな生活を送ることができていたそうです。
キング牧師が初めてうけた黒人差別
キング牧師は幼少の頃から隣の家の白人家庭の男の子2人と仲良く遊んでいたようです。しかしキング牧師が小学校に入った6歳の時、急に友達から


彼らの両親が「黒人とは二度と遊ばせない」と宣言したことが理由でした。後に勇敢に差別と戦うことになるキング牧師は、この時はじめて 「自分は人種差別を受けているのだ」 と知りました。

高校時代のスピーチ【黒人と憲法】
高校生になり15歳のキングは、弁論大会で「黒人と憲法」というスピーチをして優勝しました。しかし、その帰りのバスの中で、バスの運転手に


この頃のアメリカでは、白人と黒人が全く別の人生を歩むように定められていて、南部ではこの人種差別を受け入れていました。当時、黒人は水飲み場やトイレも決められた所しか使うことができませんでした。さらに、黒人は白人と一緒に学校に通ったり、公共の図書館や公園に行ったりすることもできませんでした。このように、キング牧師は自身がアフリカ系アメリカ人であることで小さい頃からとてもつらい経験をしてきました。
- 鉄道や学校、プール、映画館では、白人と黒人で使える施設を分ける
- もしも黒人が白人の施設に無断で入ったら、裁判にかけられて有罪にされる
- バスでは白人専用席と黒人専用席が分けられているが、バスが込み始めたら、黒人の乗客は白人の乗客に席を譲って立たなければいけない
- 黒人の定義は、先祖に1人でも黒人がいて、1滴でも黒人の血が流れていたら黒人とみなす
という内容の州法が、南部のあらゆる州で定められていました。この州法は、まとめて「ジム・クロウ法」と呼ばれます。
大学時代のキング牧師
キングは成績優秀だったため、普通より3年も早く、9年生と12年生を飛び級。なんと15歳で、アトランタのモアハウス大学に入学しました。彼は高校生の時まで、自分は父親と同じ牧師にはならないと思っていました。しかし、大学に入学してからは、宗教を通じて人種差別が行われている社会を変えることが出来るかもしれないと、少しずつ考えが変わりました。1947年に牧師の資格をとり、1948年に大学を卒業するとさらに神学校に入学。 この時にガンジー(1869~1948)の非暴力・不服従運動の思想を知り、大きな影響を受けた といいます。

また、キング牧師はボストン大学に在籍していた時に同じアフリカ系アメリカ人であるコレッタ・スコットという女性に出会い、1953年6月18日に24歳で結婚していました。(後に四人の子供をもうけました)モンゴメリへはアフリカ系アメリカ人へのコレッタも、一緒に行っています。
ローザ・パークス事件

ローザパークス事件
キング牧師は26歳の時、ボストン大学から博士号を受けました。そしてこの年の12月1日「ローザパークス事件」が起きました。この運動はローザ・パークスというごく普通のアフリカ系アメリカ人主婦が、たった一人で始めた抗議行動がきっかけで始まったものでした。そして、その運動を引き継ぎ、指揮することになったキング牧師は、この事件で得た経験、知名度、人脈を駆使して、その後20世紀を代表する英雄の一人へと登りつめて行くことになります。
1955年アメリカ南部アラバマ州のモントゴメリー市を走る市営バスでは、昔ながらの人種差別が行われていました。基本的には、前方の10列が白人用で、後方の26列が黒人用と座席が分けられていたのです。ただし、その境目は白人の運転手によって自由に変えられるようになっていました。
12月1日の夕方、市営バスに一人の主婦が乗り込みました。彼女の名はローザ・パークス。デパートで縫製の仕事をしていた彼女は、疲れた身体を休めようと黒人席の最前方に腰をおろしました。当時彼女は42歳。
その日はなぜか白人の乗客が多く、いつの間にか白人席が満員になってしまいました。すると、席がなくなった白人乗客を座らせるため、運転手が後を振り返り、席を一列ずつずらすよう命令しました。普段ならその言葉に逆らう者はいませんでした。しかし、寒さと疲労で足が痛んでしかたがなかった彼女は、運転手の言葉を無視し席を立とうとはしませんでした。
「警察を呼んでもいいのか?」という運転手の脅し文句に対し、彼女は「お好きなように!」と言い返したのです。それは黒人の乗客たちがそれまで当たり前と思って我慢してきた差別に対し、ごく普通の主婦が実に当然の抵抗をしただけのことでした。しかし彼女は運転手の座席指定に従わなかったという理由で警察へ逮捕されてしまいました。
エドガー・ニクソンとキング牧師
ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソンは、ジョージア州アトランタからモンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけました。

運動の成功


クークラックスクラン
クークラックスクラン・・・アメリカ白人による、黒人を差別する秘密結社。白い服と白覆面が特徴でした。
キング牧師の功績~伝説のスピーチ

座り込み運動
キング牧師は28歳の時、南部キリスト教指導者会議の会長に選ばれました。
そして31歳の時、黒人の学生たちが白人専用の食事の席に座り込み、抗議運動を始めました。白人専用モーテルでのスリープ・イン、図書館でのリード・インなど、運動は南部を中心にどんどん広がりました。参加者は5万人におよび、検挙者も3600人になりました。この運動は、ブラウン判決によって「人種隔離は違憲」とされたのに、いっこうに改善しないアメリカ社会への苛立ちの表明でした。しかし一方で、各地の当局や白人差別主義者たちによる妨害も激しさを増していました。
「私には夢がある」 ワシントン行進とキング牧師の演説
それから、各地で大きなデモ行進をしました。1963年、ワシントン行進では25万人を超えました。白人もたくさん参加しました。そしてその大行進で、キング牧師は「私には夢がある」と演説し、人種を超えた融和を説いたのです。演説の内容はこのようなものになります。(一部抜粋)
私には夢がある。私の幼い四人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく、人格の深さによって評価される国に生きられるようになることだ。
私には夢がある。いつの日か、今は知事の唇が(連邦政府の)介入拒否と州権の主張で満たされているアラバマ州で、情勢が変わって幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと手を結びあい、兄弟姉妹として一緒に仕事ができる環境ができるようになる夢が。
私には夢がある。いつの日かあらゆる谷間は高められ、あらゆる丘や山は低められ、凸凹の場所は平らにされ、曲がりくねった場所は真っ直ぐにされ、神の栄光が輝いて、あらゆる生き物が一緒にそれをみるようになるという夢が。
それが私たちの願いなのです。
ノーベル平和賞
そして1964年、人種差別をなくす法律「公民権法」が成立しました。そしてその年の12月10日、ノルウェーのオスロにてノーベル平和賞を授与したキング牧師。当時35歳にして、公民権運動における非暴力による促進が称賛されたのです。翌年36歳の時には、黒人の投票が守られる「黒人の投票権法」を成立させました。
キング牧師暗殺事件
1968年4月、テネシー州メンフィスのローレイン・モーテルのバルコニーに立っているところを一人の暗殺者によって撃たれキング牧師は亡くなりました。
友人たちと、今後の抗議について話し合っている途中で、疲れた体を休めようとバルコニーに出た時のことでした。ジェームズ・アール・レイという心無い人種主義者によって、近くのアパートの屋上から狙い撃ちされたのです。
銃弾は首の皮で破裂しており、キング牧師は39歳の若さで生涯を閉じました。キング牧師の死の直後、黒人の暴動が全米60以上の都市で起こりました。その二ヶ月後、民主党の大統領指名に向けてキャンペーン中であったロバート=ケネディ元司法長官(ケネディ大統領の弟)がロサンジェルスで暗殺されました。尊敬を集めていた黒人運動家と、リベラル派で反戦と反差別を訴えていたケネディの相次ぐ遭難は、アメリカ社会の暗部をかいま見せた形となりました。
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