悪党【楠木正成】最強の武将と呼ばれたその戦術とは?なぜ皇居の前に銅像があるの?

悪党と呼ばれた武士集団を率い、意表を突いた戦術を駆使して戦った楠木正成。その戦術能力から最強の武士と言われることもあり、根強い人気があります。

”悪党”とは、現在では悪い人という意味で使われていますが、
中世の日本では、”強い”、”反権力”の意味で使われていました。悪という字が入っていますが、悪党という呼び名は悪い意味で使われたのではありません。

この楠木正成は、皇居外苑に銅像が建てられています。皇居になぜ銅像があるのでしょうか?この記事では、楠木正成とはどんな武将だったのか、なぜ皇居に銅像があるのか、そして有名な桜井の別れについても解説します。

皇居外苑の楠木正成像

出典:Wikipedia

楠木正成の出身は?

楠木氏は、土豪説、御家人説、非御家人説と様々な説があり、楠木氏の由来については明らかになっていません。楠木正成は、大阪府の河内、千早赤阪村で誕生したと伝えられています。北条高時の命令で、畿内各地の幕府に反抗的な武士を討っていたことが資料に残っています。このことから、何らかの形で幕府に仕える武士であったことがうかがえます。

後醍醐天皇が挙兵したとき、思うように兵が集まらず不安に思っていたところ、後醍醐天皇の夢枕にあらわれた童が大木の南側を指し、「ここはあなたのための席です」と言いました。後醍醐天皇がこの夢の意味を考えたところ、木の南、つまり楠の字を表していると思い立ち、楠木正成に味方になるようにと使いを出したという伝説が残っています。

楠木正成肖像画

出典:Wikipedia

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後醍醐天皇と共に挙兵

後醍醐天皇の求めに応じて幕府に反旗を翻した正成は、戦術を駆使して幕府軍と戦います。しかし後醍醐天皇は笠置山で幕府軍に捕らえられてしまいます。

城を奪わせ、そして奪い返す

後醍醐天皇は捕らえられた後も、正成は赤坂城で粘ります。地方の土豪にすぎない正成に、幕府は大軍を投入しますが、偽の城壁、熱湯攻撃などにより苦戦を強いられます。長期戦は不利と考えた正成は、散々幕府軍を困らせた後に、城に火をかけて姿をくらまします。しかし数ヶ月後、正成は幕府軍が守る赤坂城に幕府の兵糧輸送隊に変装して入り、一気に攻め落とします。
その勢いで、和泉、河内(現在の大阪府南部)を一気に制圧します。

千早城の戦い

正成は金剛山(奈良県と大阪府の県境)にいくつもの城を作り、千早城を総指揮所として幕府の大軍と戦います。ゲリラ的な戦術を使い、幕府軍を相手に粘りに粘ります。そして後醍醐天皇は配流されていた隠岐の島を脱出、正成が粘って幕府軍を引きつけている間に、赤松則村が倒幕の挙兵、足利高氏(後の足利尊氏)が六波羅探題攻略、新田義貞が鎌倉攻略、ついに鎌倉幕府は倒れます。
正成は後醍醐天皇を先導し、7,000騎の兵とともに京に入ります。

建武の新政と正成

建武の新政では正成は高く評価され、領地が増えたばかりか、政権の要職に就任します。しかし、建武の新政は足利尊氏の挙兵によって危機に陥ります。

足利尊氏との戦い

足利尊氏の兵が京に迫ると、新田義貞が迎撃します。しかし、義貞は敗北し、京は尊氏の手に落ちました。ここで正成は、義貞の軍、北畠顕家の軍と共に、奇襲攻撃を駆使して京都を奪還します。尊氏は九州まで敗走します。

足利尊氏と敵対することになる楠木正成ですが、実は尊氏とは仲が良かったとされています。
それは、東国の武士である尊氏が倒幕後、寺や神社に寄進(寄付)を積極的に行ったからです。
近畿地方の武士の性質を理解し、西国のルールに従おうとする尊氏と、鎌倉武士こそ理想とする新田義貞とを比べ、
正成は自分たちを理解してくれる尊氏の方を好きになったと言われています。

尊氏の反撃と正成最後の策略

いったん九州におちのびた尊氏は、そこで勢力を盛り返し再び京を目指します。迎撃した義貞は敗北し、兵庫まで退きます。その義貞を援護するように正成に命令が下りますが、ここで正成は策を提案します。現時点で尊氏軍は10万騎に膨れ上がり、正面からぶつかったのでは勝ち目がない。自分はいったん河内に戻り兵を整えるので、後醍醐天皇は比叡山に避難して欲しい。京に尊氏軍が入ったら、背後から義貞軍、河内方面から正成軍、そして比叡山から後醍醐天皇直下の軍勢で京を包囲し、兵糧攻めで尊氏を討ちとる。これが正成が提案した策略でした。

しかしこの案は、貴族によって「何度も天皇が比叡山に逃れるのはみっともない」という理由で却下されます。正成はそれに従い、最後の決戦の地である兵庫に向かいます。

桜井の別れ

桜井(大阪府)で正成は長男正行を河内に帰します。これが 「桜井の別れ」 です。この時、正行の年齢は11歳から20歳前後と言われており、はっきりしていません。どうしても父正成についていくという正行に、正成は諭します。
「私が討ち死にした場合を考えて、お前を河内に残す。帝のために身を惜しまず働き、いつの日か必ず朝敵を滅ぼせ」この後、正行は南朝の主要武将となり、足利尊氏を悩ませることになります。

正成最後の戦い

正成・義貞連合軍は、兵庫県湊川で尊氏とその弟、足利直義の軍と対峙します。しかし兵力の差は歴然としており、正成は直義を討ちとる寸前まで行きながらも、次々と現れる敵軍勢に押され、最期は自害して果てます。

正成の評価

正成が用いたゲリラ的な戦法は、江戸時代には「楠木軍学」として流行します。古今東西、少数精鋭の軍勢で大きな軍勢を破ることに魅力を感じる人は多く、楠木正成の戦術は大きな人気があります。さらに、後醍醐天皇に最期まで忠誠を誓っていたことから、太平洋戦争前の日本では、
「日本人の鑑」「見習うべき武将」として、学校の教材にもなっていました。

皇居外苑の正成の銅像は、忠臣の手本としての評価もあって建てられてものと言われています。

まとめ

最後まで後醍醐天皇に忠誠を誓い、不利な戦いにも知恵を尽くして戦った楠木正成は、今でも大きな人気があります。小さな勢力からのし上がった武将なので、生涯にはまだ謎の部分が多いのですが、用いた戦術は、多くの研究者によって分析され、戦前の日本陸軍では戦術の参考にしています。戦術の天才とも言われている楠木正成について解説しました。

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