【清少納言と紫式部】の関係 二人はライバル?それぞれの性格の違いやエピソードも解説

平安時代の代表的な作品、枕草子と源氏物語を書いた清少納言と紫式部は、ほぼ同時代に活動した女流作家です。歴史の教科書などでは並んで出てくる事が多いので、ライバルのような印象を受ける方が多いのではないでしょうか?ここでは清少納言と紫式部の2人の生涯の比較、性格の違い、
そして2人の関係はどうだったのか?をエピソードを交えて探っていきます。

2人の生い立ち・エピソードを比較

まずは生い立ちを比較してみましょう。

どんな家に生まれたの?

 

この時代はどんな家に生まれるかが人生を左右しました。この2人はどんな家に生まれたのでしょうか?

清少納言:父は清原元輔、歌人です。清原氏は中堅貴族で、学者・歌人など学問系です。

紫式部:父は藤原為時、名門藤原北家の流れです。ただし、父は中堅貴族で、一族には歌、文などの素養のある人が多かったようです。

地方で暮らした経験

2人とも、若い頃に父の任地の関係で地方で暮らした経験があります。

清少納言:周防国(現在の山口県)

紫式部:越前国(現在の福井県)

結婚は?

2人とも結婚歴があります。

 

清少納言:橘則光→離婚→藤原棟世と再婚

紫式部:紀時文?→離婚?→藤原宣孝と再婚?

2人とも生涯について正確な記録が残っていません。紫式部の初婚は、状況証拠的な記録しかありません。

仕えた人

清少納言、紫式部共に、中宮(天皇の妻)に仕えます。宮中にいた期間も併記します。

 

清少納言: 一条天皇の中宮、定子・藤原道隆の娘、993年頃〜1000年頃

紫式部:一条天皇の中宮、彰子・藤原道長の娘、 1006年頃〜1012年頃

 

あれ?と思った方がいらっしゃるかもしれません。清少納言と紫式部は、宮中にいた期間が重なっていません。つまり、宮中で顔を合わせることはなかったのです。清少納言が仕えた定子は藤原道隆の娘ですが、関白の藤原道隆が亡くなると、定子の兄、弟が左遷されます。そして権力は道隆の系統から藤原道長の手に渡ります。

後ろ盾を失った定子は宮中での力を失い、権力を握った道長は娘彰子を中宮として宮中に送り込みます。ですので、清少納言と紫式部の宮中在籍期間にズレがあるのです。

2人はライバルではない?性格の違いなど

土佐光起の描いた紫式部

出典:Wekipedia

宮中で才女2人がバチバチとライバル心を燃やす、という状況ではありませんでした。となると、この2人の関係はどうなのでしょうか?ライバル関係は後世の創作なのでしょうか?

紫式部は手厳しい

 

紫式部については、他の女流作家への批評を書き記したものが紫式部日記に残っています。和泉式部に対して:素行は良くないのですが、歌はすばらしい

和泉式部は中古三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれるほどの実力者です。恋愛遍歴が多く、恋歌に秀作が多く残されています。また、恋文の完成度は紫式部も絶賛しています。

赤染衛門に対して:家柄は良くないのですが、歌はすばらしい。

赤染衛門も中古三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれるほどの実力者です。出身の赤染家は飛鳥時代からの家ですが、確かに家格は高くありません。ただし、赤染衛門は年上であり、年上として尊敬するという内容の文章もあります。

紫式部、ちょっと口が悪い印象を受けますね。さて、では清少納言に対しての評価はどうなのでしょうか?

紫式部の清少納言評

紫式部の清少納言に対する評価です。
「得意そうに漢字などを書き散らかしているのですが、よく見ると間違いがあちこちにあり、大したことはない。」

当時、漢字は主に公文書に使われており、男性が使う文字でした。女性は仮名を使っていたのです。

こんな人の行く末に、いったい良いことがあるのでしょうか。」漢字については、主に歌を作る家の出身である清少納言に対して、漢文などを主とする家出身の紫式部が噛みついた、ととることもできます。とにかくひどいですね、酷評です。「あんな人、大したことありませんわ。」という気持ちだったのでしょう。

清少納言の紫式部評

それでは清少納言は紫式部をどう思っていたのでしょうか?紫式部を直接評価した文章は見つかっていません。やはり清少納言のほうが一歩先にメジャーな舞台にデビューしたので、紫式部という名前を聞いたとしても問題にしなかったのかもしれません。しかし、紫式部の夫である藤原宣孝、紫式部の従兄弟である藤原信経を揶揄するような文章は枕草子にあるので、何かの思いはあったという可能性はあります。

宮中を退いてからは謎

土佐光起による源氏物語・若紫

出典:Wikipedia

そして、2人に共通なこととして、宮中を退いてからはどちらの生涯も正確にはわかっていない、という点があります。清少納言は退いてから、再婚相手の藤原棟世の任地である摂津国(現在の大阪北部と兵庫南部)に行き、晩年は和泉式部、赤染衛門と交流があったという事くらいしかわかっていません。

清少納言の没年は不明です。また墓所が各地にあり、どこで亡くなったのかも不明です。紫式部の没年も不明です。最近の研究でも、1014年説から1031年説まで、かなり幅があります。

まとめ

宮中にいた期間以外がなかなかはっきりわからない2人です。しかし、それが逆に宮中での2人の活動を際立たせる結果になっているのかもしれません。約10年くらいの間に現れ、枕草子と源氏物語という不朽の名作を書き上げて消えていった2人だからこそ、いろいろな想像ができるのではないでしょうか?史実的には2人は宮中で顔を合わせなかったでしょう。しかし、作家は顔を合わせなくても、作品さえ読めば、ライバル心を燃やすには十分な理由になります。少なくとも紫式部は清少納言に思うところはあったようです。清少納言はどうだったんでしょうか。そういう想像をするのも歴史の楽しみ方ではないでしょうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

five × five =