【マリーアントワネット】はどんな性格だったの?死刑になった理由など、その生涯を調べてみました

フランス革命の渦に巻き込まれ、「悲劇のヒロイン」と呼ばれたフランスの王妃マリーアントワネット。オーストリアのウィーンに女帝マリアテレジアの娘、オーストリア皇女として生まれました。のびのびと育ったマリーアントワネットは、やがてフランスに嫁いでいきます。

フランスの社交界1の地位と財産を手に入れた彼女は、多くの人々を魅了していきます。王太子妃時代には「ファッションの女王」と呼ばれ、当時の流行を先導していきました。入浴や香水を使う習慣などは現代にも伝わるものです。18歳の若さでフランス王妃となりますが、やがて宮廷や民衆からの反感を買っていくことになります。

やがてフランス革命が勃発し、国王一家はフランスにとって敵とみなされるようになります。最終的にマリーアントワネットを含む国王一家は革命裁判にかけられます。そして死刑判決を受け、断頭台の露と消えたのです。

そんなフランス王妃マリーアントワネットについて、どのような性格だったのか、最期の瞬間を迎えた死刑の場所とその理由など、彼女の生涯を探ってみたいと思います。

マリーアントワネットの生涯

オーストリア・ハプスブルク家に生まれた皇女アント―ニア

オーストリアハプスブルク家の皇女として生まれたマリーアントワネット。ドイツ語名で、

マリア・アント―ニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリゲン

と言います。母親は、政治面で手腕を発揮した不動の女傑マリアテレジアでした。兄姉弟妹も多かったですが、中でも3歳上のマリア・カロリーナとは大変仲が良く、カロリーナが嫁ぐまでは、同じ部屋で生活や教育をされてきました。

フランス王妃は、本当はマリーアントワネットではなかった?!
姉のマリア・カロリーナが最初は、ルイ16世の結婚相手の候補でした。しかし、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉のマリア・ヨーゼファが結婚直前に急死したため、急遽マリア・カロリーナが繰り上がってナポリ王と結婚することになりました。
その為アント―ニアが繰り上がって、愛するオーストリアとフランスの同盟のためにルイ16世に嫁ぐことになったのです。

フランス王家に嫁いだマリーアントワネット

フランスに嫁いだことでアント―ニアは、フランス語で

マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリッシュ

 

と名前が変わります。のびのびと育ったオーストリア時代と比べて、昔からの慣習を重んじるフランス王家での生活は、
マリーアントワネットにとっては窮屈極まりないものでした。そんな彼女が18歳の時に、ルイ15世が天然痘で逝去し、マリーアントワネットは王妃となりました。

国民たち 
愛妾の為に、私たちの税金を湯水のように使ってきたルイ15世から、新しい国王に変わったことで、生活が少しずつ豊かになるのでは!!
と、若い夫妻が王位に就いたことを、国民たちは大変に喜びました。

しかし王妃となったマリーアントワネットは、ベルサイユ宮殿にあった習慣や儀式の廃止や簡素化を進めていきます。こういった独断で物事を進めていく彼女の行動は、宮殿内の人々の反感を徐々に買うことになりました。また以前からの仮面舞踏会、ファッション、賭博は更に拍車をかけ、使われる金額は増える一方でした。

本当は、どんな性格だった?!3つの出来事

自由に育った幼少期

出展画像:Wikipedia

マリアテレジアは子供たちに対しての教育は厳しかったと言われています。外国語や作文、歴史、読書、歌、ピアノ、ダンスなど、多くの教育を受けてきました。
ただ、深く物事を考えることを苦手とし、落ち着きがなく、勉強嫌いで、真面目に物事を考えるのが嫌いな性格だった為、真面目に先生たちの授業を受けず、あまり身にはなりませんでした。

ルイ15世の愛妾、デュ・バリー夫人との対決

出展画像:Wikipedia

当時の宮廷内では身分の低い者が、身分の高い者が先に話しかけるという行為は許されていませんでした。ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人は低い身分の出身でしたが、マリーアントワネットが宮廷に来るまでは、宮廷で1番権力のある女性でした。そんな夫人に、マリーアントワネットは決して声を掛けようとはしませんでした。

宮廷では「いつアントワネットが話しかけるのか」 と話題になりましたが、
結果的にはフランスとオーストリアの同盟破綻の危機にまで至り、

マリーアントワネット 
今日のベルサイユは大層な人ですこと
という言葉をデュ・バリー夫人に掛けることになったのでした。この事件は、マリーアントワネットの気位の高さが伺い知れるものとなりました。

疑惑が深まった『首飾り事件』

出展画像:Wikipedia

ヴァロア家の血を引く、ジャンヌ・ド・ラ・モット伯爵夫人が大金を手に入れるために、王室御用達の宝石商から160万リーブルの首飾りをローアン枢機卿に買わせ、マリーアントワネットに渡すと言って騙し取るという事件が起きました。この事件は、一向に代金が支払われないので痺れを切らした宝石商が宮廷に赴き、発覚しました。

この事に激怒したマリーアントワネットは裁判にかけましたが、
判決はラ・モット伯爵夫人は有罪、ローアン枢機卿は無罪となりました。実はこのような大きな事件になる前に、宝石商がマリーアントワネット宛てに、「もうすぐ1回目の支払いの期日になるので、忘れないでください」という内容の手紙を送っていました。
しかし深く物事を考えない性格の彼女は、手紙を燃やしてしまったといいます。

この事件は、”本当は王妃の陰謀ではないのか?!”と世間の噂になり、マリーアントワネットへの反感に拍車をかけることになってしまいました。

フランス革命勃発

宮殿内の人々だけでなく、民衆の間での王政に対する反感が生まれ、フランス革命が勃発しました。なんとか生き延びようと国外への亡命計画が練られ、実行されますが、結局国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、パリへ連れ戻されてしまします。
このヴァレンヌ事件が、いよいよ国王一家が親国王派の民衆からも見放されることになってしまうのです。この後、国王一家は革命裁判にかけられることとなります。

死刑宣告とその理由

1793年10月12日から15日の3日間で裁判は行われました。マリーアントワネットに下されたのは3つの罪でした。

①国家を浪費したこと
②オーストリアに軍事機密を漏らしたこと
③息子であるシャルルと不適切な関係性を結んだこと

全ての内容に関して、マリーアントワネットは無罪を主張しました。

とくに3つめの罪は、新聞記者のエベールがでっちあげた内容でした。

「わたしが答えませんでしたのは、母である身に向けられたそのような誹謗に対して何か応じるというのを、自然が拒むからであります。」

「ここにおいでの母であるすべての方々に、わたしは伺ってみたいと思います。」

【出展元:『マリーアントワネット』ツヴァイク(角川書店)】

このように王妃は、答えています。3つめの罪に関しては、王妃の評判を下げるどころか、王妃としての高貴さを改めて実感するものとなりました。しかし無罪の主張も空しく、1793年10月15日に死刑判決が下されることとなりました。

フランス王妃最期の場所

出展画像:Wikipedia

1793年10月16日、マリーアントワネットの処刑は革命広場(現在のコンコルド広場)で執行されました。美しかったブロンドは恐怖の逃亡生活によって白髪に、長かった髪もギロチンの邪魔にならないように、短く切られてしまっていました。透き通るように白かった肌は、牢獄での厳しい環境での生活でのために青白くなっていました。

12時15分、マリーアントワネットの首に、ギロチンの歯が落とされました。執行人が、血の滴る首を死刑を見守った民衆たちに見せると、
共和国万歳!!』という歓声が、革命広場に広がりました。

まとめ

フランスの王妃マリーアントワネットについてご紹介しました。贅の限りを尽くした生活と、物事をあまり深く考えずに、自分の気持ちの思うままに行動してきたマリーアントワネット。

遅かれ早かれ、いずれフランス革命は起きていたかもしれません。ただマリーアントワネットが、もっと国民を思い、少しでも物事を深く考え、行動できていたら。彼女の最期はもっと違う結末を迎えたかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

two + 18 =