平安時代の武士【平将門】 平将門の乱が起こった場所や背景について簡単に説明します

現在の関東は昔、東国と呼ばれ、日本の歴史では武士の国という印象が強い地域です。その武士の国という印象は、初めての武家政権を作った源頼朝、長期にわたる安定政権を作った徳川家康らによってつけられた感じがします。しかし、平将門を忘れるわけにはいきません。

平将門は、平安京を作った桓武天皇の血を引く武士です。当時はまだ武士という概念は薄く、刀を持った貴族という雰囲気でした。将門は、正確な時期、場所はわかっていませんが、関東地方で生まれ、16歳くらいまで育ちました。そして平将門は関東の独立戦争とも言える平将門の乱(承平天慶の乱)を起こし、天皇に敵対します。

この平将門はどんな人だったのか、そして同じ平氏である平清盛との関係などを簡単に見ていきましょう。

平氏の誕生

源氏は源頼朝、平氏は平清盛のように、源氏と平氏は武士の家系ではメジャーです。平氏は、平安京を作った桓武天皇の孫、高望王から始まりました。高望王は、宇多天皇から平の名前をもらい、平高望となります。平高望は上総介(千葉県の知事のような職です)に任命され、関東に行きます。
しかし、任期が過ぎても都には帰らず、土地を開墾して、関東に勢力を伸ばします。そして気づいた地盤を守るために平高望一族は武装します。こうして平氏は武士化していきます。後に平高望は西海道の国司(九州全体を統治する職)となり太宰府に移りますが、子供達は関東に残って勢力を広げ、桓武平氏の地盤を堅固にします。

平氏は桓武天皇の血筋なので、桓武平氏と呼ばれることがあります。一方、ライバルの源氏は清和天皇の血を引くため、清和源氏と言われます。

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将門の登場と平氏内の勢力争い

後年に製作されたと言われる平将門の肖像画

出典:ウィキペディア

関東で勢力を広げた平氏は、身内で勢力争いをするようになり、そこに登場したのが将門です。将門は都で藤原忠平の部下となっていましたが、貴族としての出世が思うようにいっていませんでした。そして10年ちょっと都にいた後、平氏の本拠である関東に向かいます。

関東に向かった将門は、東国の勢力争いに介入し、自らも叔父の平国香などと勢力争いをします。
この間、何度かの戦闘を経て、将門の勢力は大きくなります。その中で、将門に負けた者の1人が朝廷に訴えたため、将門は都で弁明をしなくてはならなくなりました。ここで将門は幸運にも全ての罪を許され、再び関東に向かいます。そして叔父の平良兼を破り、最も大きな勢力となります。

関東を支配し新皇となる

勢力を伸ばした将門の元には、多くの人が集まります。しかしその中に、国府(現在の県庁・県警を併せたような役所です)に逆らう者達が混じっていました。国の役人同士の争いの仲裁をしたり、国府から追われる者をかばっているうちに、国の機関である国府勢と戦うことになります。国府勢との戦いに勝ち、国府を占領した将門は、現在の茨城、千葉、群馬、東京、神奈川、埼玉をほぼ手中に収めることになります。

しかし、国府勢と戦うということは、朝廷に逆らうことです。将門の部下は将門に進言します。

将門の部下
ここまでやってしまったらどうしようもありません。将門様が王となってこの地を支配してはどうですか?

関東を支配し、朝廷に逆らうこととなった将門は、新皇を名乗ります。天皇に対して、新しい王、つまり新皇という意味です。

将門の敗死

新皇を名乗り、天皇に反旗を翻した将門に対して、朝廷は軍を派遣します。しかし、将門の敵は朝廷軍ではありませんでした。平氏の勢力争いで将門に敗れた国香の子、平貞盛とその親族である藤原秀郷が関東の反将門勢を統合し、将門軍に戦を仕掛けました。この平貞盛の子孫が、平氏の絶頂期を作った平清盛になります。

藤原秀郷は、都で権勢を誇った藤原氏の一員ですが、それほど位は高くありませんでした。しかし、彼は戦が上手く、将門の意表を突いて戦に勝利します。将門は戦死し、将門軍の幹部も全て誅殺されました。新皇を名乗ってから2ヶ月後の事です。将門の首は都に運ばれ、さらし首となります。

将門の残した伝説

あっけなく終わってしまった将門の反乱ですが、将門は多くの伝説を残しています。当時の日本の中心であった関西地方に対して、関東はまだ貧しい土地で、様々な負担を強いられていました。そんな中で都の朝廷に反旗を翻した将門は、苦しんでいる関東の人達にとってはヒーローだったのでしょう。

東京都千代田区にある将門の首塚

出典:Wikipedia

首が関東に帰る

都でさらされた将門の首は、いくら経っても生きているようだったと伝えられています。そしてある夜、白い光とともに将門の首が浮き上がり、そのまま東の方角に飛び去ったと言われています。その首が祭られたのが、千代田区にある将門の首塚と言われています。近代になって、都市開発などで移転させようとすると事故が起こると言われています。

実際に、関東大震災後、ここに政府の建物を建てようとしたところ、関係者が次々と亡くなり、ついには担当大臣である政治家も不審死をしました。

藤原純友との会談

比叡山には、将門岩と呼ばれる岩があります。ここで、同じ時期に西国で反乱を起こした藤原純友と将門が会談したという伝説があります。東と西で反乱を起こし、日本をひっくり返そう、その後、将門は桓武天皇の血を引くので天皇になり、純友は藤原氏の血を引くので関白になろう、という話がされたという伝説が残っています。
将門の乱と純友の乱を合わせて、承平天慶の乱と言いますが、その乱の打ち合わせがここで行われたという伝説の場所です。

まとめ

いかがでしたでしょうか?将門の乱は、武士が力を持つとどうなるかを歴史で最初に示した事件という評価があります。この乱には、平氏、源氏、藤原氏という、後の武家を生む系統が参加しており、この後これらの家系は栄えたり没落したりして日本の歴史を作っていきます。

平将門についての記事でした。

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