【足利尊氏】vs【楠木正成・新田義貞】湊川の戦いはなぜ起きた?場所や背景も解説!

湊川の戦いは、後醍醐天皇方の楠木正成、新田義貞が、北朝方の足利尊氏と戦った合戦です。

この戦いで後醍醐天皇方では重要な武将が戦死し、後醍醐天皇の南朝方は、北朝方に対して不利な状況に追い込まれます。

湊川の戦いについては、ターニングポイントの戦いであったことは知られていますが、合戦の場所はどこだったのか、なぜ起きたのかについてはあまり知られていません。

この記事では湊川の戦いについてわかりやすく解説します。

楠木の正成を祭る湊川神社

出典:Wikipedia

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湊川の戦いが始まるまで

湊川の戦いが始まるまでを時系列で見ていきましょう。日付は全て旧暦で表します。

足利尊氏の敗走

2月、豊島河原の合戦で、足利尊氏は新田義貞、楠木正成、北畠顕家の連合軍に敗退します。

尊氏は西国方面へ敗走し、九州まで落ちのびます。この時点で、近畿周辺は後醍醐天皇方の支配下に置かれ、後醍醐天皇が優位に立ちます。

尊氏追討軍の出撃

3月、後醍醐天皇は尊氏追討軍として、新田義貞を西国に派遣します。後醍醐天皇方が有利となったことで、尊氏の実力をよく知る楠木正成は和平に持ち込んではどうかと提案しますが、朝廷の怒りを買い、謹慎を命じられます。

たらればはあまり意味がありませんが、ここで追討軍に正成が加わらなかったことは追討軍にとって大きな痛手となります。

尊氏軍の体制立て直し

4月、九州に落ちのびた尊氏は、多々良浜の戦いに勝ち、軍勢の体制の立て直しに成功します。そして京を目指して東進を開始します。

この間尊氏追討軍は、兵庫の赤松氏に手こずります。この戦いで楠木正成がいないことで、知略を使った戦いができませんでした。

戦況が不利となり、尊氏東進開始の報告を受けた新田義貞は、5月13日に神戸あたりまで退却します。

 楠木正成、失意の中で出陣

5月16日、ついに楠木正成が謹慎を解かれ、義貞援護のために出陣します。

この時正成は、後醍醐天皇方がいったん京から撤退し、京に入ってきた尊氏軍を周囲から包囲して討ち滅ぼす策を献上しました。

しかし、貴族達がその策に反対します。

坊門清忠
そうそう何度も帝が京から逃げ出しては格好がつかないではないか。

後醍醐天皇は、坊門清忠らの意見を取り入れ、楠木正成には兵庫方面への出陣を命じます。

兵力は太平記によると、尊氏軍50万、後醍醐天皇方5万と言われています。ちょっと大げさな数だと思われますが、尊氏軍の兵力の方が圧倒的に多かったことは事実であり、正成はそれを知っていたようです。

圧倒的不利の中、死を覚悟した正成は、息子の正行を河内国に帰します。これが有名な桜井の別れです。

2月には近畿周辺を支配し、優勢となった後醍醐天皇方ですが、この戦いに負けると近畿を尊氏に奪い返されるところまで追い詰められます。

そして5月24日、正成は義貞軍と合流、5月25日の朝、現在の神戸市中央区周辺で湊川の戦いが始まりました。

湊川の戦い

5月25日の朝、足利尊氏は海から、弟の足利直義は陸路で湊川に進出し、楠木・新田の軍勢とにらみ合います。

新田義貞は、あえて退却に不利な陣型を作り、「背水の陣」で足利勢に対抗しようとします。

そして海からの足利勢と、陸の新田勢の間で戦いが始まりました。

連携不足だった新田軍と楠木軍

背水の陣をとった新田勢ですが、足利本隊と思い、尊氏配下の細川勢に兵を向けてしまいます。

新田勢が動いて、手薄になった場所に尊氏本隊は難なく上陸し、新田勢と楠木勢の間に入り込み、2つの軍勢を分断してしまいます。

作戦の失敗に気づいた新田義貞は、いったん退却します。その結果、楠木正成は周囲を足利勢に包囲され、絶体絶命となりました。

楠木正成の奮戦と戦死

楠木正成は、約700騎の軍勢で、陸路の足利直義の軍勢を押し返します。弟直義の危機に、尊氏は援軍を送り、正成勢を徐々に追い詰めます。

何度も突撃し、わずか数十騎となった正成勢は、湊川東方で自害します。

後醍醐天皇方の重要な武将であった楠木正成は、ついにここで戦死し、戦いは兵力に勝る足利勢に有利に傾きます。

粘る新田義貞

尊氏・直義は合流し、新田勢へと襲いかかります。兵力の差は歴然としており、新田勢は不利な戦いを強いられます。

義貞は軍勢を京方面に退却させようとします。

ここまでですと、新田義貞は、楠木正成との連携がうまくいかず、足利本隊を見誤り、ミスばかりという印象ですが、この退却戦で義貞は自らが殿を務め、追いすがる足利軍を防ぎつつ京まで退却しました。

湊川の戦いでの新田義貞

出典:Wikipedia

合戦で退却する時は、退却する軍の最後方に位置するところを「殿(しんがり)」と言います。この位置は、追ってくる敵軍と戦わなければなりません。勢いに乗る敵軍を防ぎつつ退却するのは非常に難しく、生きて帰ることが難しい役割です。

新田・楠木の敗因

湊川の戦いは足利勢の圧勝に終わりました。後醍醐天皇方の敗因は、兵力の差、後醍醐天皇方が有力な水軍を持たなかったこと、と言われています。

新田・楠木勢の連携不足などもありましたが、兵力の差が大きく、連携がうまくいったとしても勝利を収めることは難しかった、と考えられています。

また、戦いが始まる前から足利勢と比べると兵力が足りないことはわかっており、それを踏まえた上で楠木正成が提案した戦略を、合戦には素人の貴族達が却下したことも敗北の大きな原因と言われています。

戦いの後の情勢

新田義貞が京に帰ると、足利勢が攻めてくるということで京は大混乱に陥りました。

後醍醐天皇は三種の神器とともに比叡山に逃れます。新田義貞は比叡山まで同行した後、後醍醐天皇の二人の皇子と共に、北陸に拠点を作るために福井県に向かうことになります。

まとめ

湊川の戦いは、後醍醐天皇方にとって避けるべき戦いでした。兵力の差から、真っ向勝負をしてはまず後醍醐天皇方に勝ち目はなかったのです。

楠木正成の提案した、足利軍を京に引き入れて包囲する作戦は後醍醐天皇とその側近貴族によって否定され、楠木正成と新田義貞は劣る兵力で足利軍と戦わざるを得ませんでした。

この戦いによって後醍醐天皇方は劣勢となります。歴史の流れだと、このまま足利勢が一気に全国を統一しそうなのですが、この時代は一筋縄ではいきません。

この後、足利内部の分裂による観応の擾乱もあり、まだまだ混乱は続くのです。

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