【源義朝】鎌倉幕府の初代征夷大将軍!平清盛との関係や彼の最期まで

源義朝と妻との間に誕生したのは後に征夷大将軍となる源頼朝です。

そんな源義朝は平清盛の戦友でもありライバルでもあると知られています。彼は20代半ばという若さで来た関東の豪族を統治すると、その後、保元の乱では平清盛とともに後白河天皇方に味方し、平治の乱では、平清盛のライバルとして反信西派に味方しました。

しかし、平治の乱で平清盛に破れた源義朝は、尾張へと落ち延び、そこで保護されたものの裏切られ入浴中に襲撃を受け最期を迎えたとされています。なんとも悲しい最期を迎えた源義朝の生い立ちや妻・由良御前との出会い、平清盛との関係性や野間大坊にある墓についてご紹介していきます。

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源義朝の生い立ち

源義朝は源為義と淡路守・藤原忠清の娘(白河院の近臣)の長男として保安4年(1123年)に誕生しました。
源義朝が誕生したこの年、崇徳天皇が即位したとされています。

崇徳天皇

崇徳天皇の肖像画出典画像:Wikipedia

崇徳天皇とは鳥羽天皇と藤原璋子(待賢門院)の第一皇子です。しかし、藤原璋子(待賢門院)と白河法皇(鳥羽天皇の祖父)との間にできた子供と噂されることとなり、父の鳥羽上皇から嫌われるようになります。

 

源義朝の父・源為義は検非違使と呼ばれる官職についており、当時の天皇である崇徳天皇の父・鳥羽上皇、その父親である白河法皇を護衛していました。

また検非違使であった父・源為義は河内源氏のリーダーのような存在であったとされています。

しかし、父・源為義は犯罪者を隠匿させたり、同僚と対立したり粗暴な振舞いを見せるなど日ごろの行いが非常に悪く白河法皇・鳥羽上皇から信頼を失うようになります。

そのため白河法皇・鳥羽上皇から信頼を失った源氏は不遇な時期を迎えることとなりました。
この頃、まだ源義朝は幼かったとされています。

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関東に移り住む

少年期、源義朝は父・源為義らとともに京都で住んでいたとされていますが、その後、父・源為義や兄弟から離れ関東地方に移り住み、関東地方で勢力を伸ばしていた上総氏らの庇護のもと成長したとされています。

父・源為義から離れ関東で育った源義朝はその後関東で勢力を伸ばし始め有力豪族であった三浦義明・大庭景義を傘下に収めました。東国で勢力を伸ばした源義朝でしたが、源義朝の他にも東国で勢力を伸ばそうとしているものは多く存在しました。

その中でも特に対立関係となっていたのは
現在の栃木県に位置する下野国足利に本拠を置いていた義朝の伯父・源義国であったとされています。しかし伯父・源義国と源義朝の対立は、両者が同盟関係を結ぶことによって解消されることとなりました。20代半ばとなった源義朝はこの頃までに関東の豪族を統治していたとされ、非常に力の持った青年でした。

 

京都へと戻る

源義朝の関東での活躍は京都に知れ渡るようになります。これをチャンスと感じた源義朝は再び京都へと戻りました。この際、源義朝は関東の統治を京都郊外の遊女または三浦義明の娘との間に誕生した長男・源義平に任せたのでした。

源義平

源義平の絵画出典画像:Wikipedia

源義朝
 義平、関東は任せた!

 

源義朝の妻と子供

京都に戻った源義朝は熱田大宮司の娘で正室・由良御前との間に、久安3年(1147年)長男・源頼朝が誕生します。

源頼朝

源頼朝の肖像画出典画像:Wikipedia

いつ由良御前を正室に迎えたのかは分かっていませんが、源義朝はこれまでに3人の女性を妻に迎えていました。

  • 京都郊外の橋本の有力者の娘、または三浦義明の娘
  • 波多野氏の娘(波多野義通の妹)
  • 遠江国池田宿の有力者の娘

それぞれの女性と源義朝との間にはすでに子供がおり、

●永治元年(1141年)京都郊外の橋本の有力者の娘、または三浦義明の娘との息子・源義平が誕生
●康治2年(1143年)波多野氏の娘(波多野義通の妹)との息子・源朝長が誕生

しています。久安3年(1147年)正室・由良御前との間に源頼朝が誕生すると、その3年後には遠江国池田宿の有力者の娘との間に授かった源範頼が誕生しました。源義朝の正室・由良御前は熱田大宮司・藤原季範の娘であり、非常に家柄の良い妻でした。

これまでに誕生した熱田神宮の娘たちは待賢門院(後白河院の母)や姉・統子内親王(上西門院)の女房として仕えるものや、
息子として誕生した者たちは後白河院の北面武士となることが多かったとされています。

北面武士とは上皇の護衛を担当する武士のこと。

このような良き家柄出身の正室を持った源義朝は、正室の力を後ろ盾に仁平3年(1153年)従五位下・下野守に任命されることとなりました。

この時、源義朝は31歳であったとされ、従五位下・下野守に就任したことによって、父・源為義の地位よりも上につくこととなったとされています。

 

父と弟との対立

この頃になると、父・源為義は摂関家である藤原氏と仲を深めるようになります。

摂関家とは大納言、右大臣、左大臣となった後、摂政・関白、太政大臣に昇任することができた家柄のことをさします。

当時、摂関家と鳥羽上皇はあまり良好な関係ではありませんでした。しかしそんな中で、 父である源為義は摂関家と良好な関係を結び、 息子である源義朝は摂関家と対立していた鳥羽上皇から従五位下・下野守の位を与えられたのです。

そのため、源為義・源義朝親子にも対立が生じることとなりました。
こうして父と息子の対立が生じると、 父・源為義は 源義朝 がいた北関東に源義朝の 弟・源義賢を向かわせます。これに対し、 源義朝は自身の長男・源義平 を 弟・源義賢の討伐に向かわせると、久寿2年(1155年) 弟・源義賢は大蔵合戦において 源義平 に破れ、源義朝に対抗する勢力はなくなりました。

源義朝の長男・源義平
父の弟・源義賢を破ったぞ!

この源為義と源義朝が起こした代理戦争以降、2人の仲は修復することはなく、対立関係は続くこととなりました。

 

保元の乱、平清盛とは戦友に

保元元年(1156年)7月、保元の乱が勃発します。

保元の乱

保元の乱が描かれた作品出典画像:Wikipedia

この保元の乱とは鳥羽上皇崩御後、 鳥羽上皇の第一皇子であった崇徳天皇と、 鳥羽上皇の第四皇子であった後白河天皇 が次期後継者を巡り対立したもので、大きな対立に発展し、朝廷内でも崇徳天皇方、後白河天皇方に分離することとなりました。また朝廷内だけで話は収まることはなく、源氏や平氏を巻き込んだ大きな武力衝突に発展します。また源氏の中でも崇徳天皇方、後白河天皇方に分離されることとなり

  • 源義朝は後白河天皇方に味方
  • 父・源為義、弟・源頼賢、弟・源為朝は崇徳天皇方に味方

することととなったのでした。

この戦いにおいて後に源義朝と対立関係となる 平清盛も源義朝と同じく後白河天皇方に味方 していたとされています。

平清盛

平清盛の肖像画出典画像:Wikipedia

保元の乱は、 後白河天皇方の勝利に終わり、 敗北した崇徳天皇 は島流しといった結果となりました。

崇徳天皇方に味方していた父や弟たちを源義朝は命だけは助けてくれ。と朝廷に助命を求めましたが、朝廷は受け入れることはなく、源義朝の父や弟たちは源義朝の手によって斬首される最悪な結果に終わりました。源義朝はこれまで父・源為義と対立していましたが、まさか自分の手で斬首するといった結果は予想していなかったでしょう。

朝廷に命じられるまま、父と弟たちを泣く泣く処刑した源義朝でしたが、世間の評価は非常に冷たく、保元の乱後、源義朝は世間から「親殺し」のレッテルが貼られることとなります。勝利に導いたにも関わらず朝廷からの評価も低かったとされ、源義朝は朝廷に対し不満を抱き始めます。また勝者でありながら「親殺し」と呼ばれた源義朝に対し、ともに戦った平清盛や平家一門は源義朝よりも多くの恩賞を受けていました。

源義朝
どうして勝利に導き、親も泣く泣く自らの手で処刑したのに、世間や朝廷の評価は低いんだ!
このような不満が後に勃発する平治の乱に繋がったと考えられています。

 

平治の乱、平清盛とライバル関係に

保元の乱の後、即位したのは後白河天皇でしたが、この天皇は中継ぎ天皇であったため、後白河天皇の息子でる二条天皇が即位します。上皇となった後白河天皇は息子である二条天皇が即位してもなお、権力を持つ続けようとしましたが、この行動が二条親政派から反感を買うようになります。

またこの頃になると平清盛や平家一門が朝廷内で発言権を持つまで昇進を果たしていました。

平清盛や平家一門が昇進できたのは後白河院の側近であった 信西 という人物の力があったからとされており、信西は次第に朝廷内で権力を持つようになりました。

この 信西 に対抗する勢力は 反信西派と呼ばれ、 藤原信頼という人物が中心的に活動を行っていました。源義朝はもともと 藤原信頼と関わりがあり、また信西をあまりよく思っていなかったため 反信西派に味方するようになり、平治元年(1160年)12月、とうとう反信西派によるクーデターが起こされました。

平清盛が京都から離れている隙をつき、反信西派が後白河上皇の御所に襲撃し、後白河上皇を軟禁、また信西を排除したというクーデターで、このクーデターによって信西は処刑される事態となります。

その後、反信西派は二条親政派と手を結ぶようになります。

平治の乱

平治の乱が描かれた絵画出典画像:Wikipedia

 

源義朝の最期

二条親政派はクーデターを起こした反信西派に対し、多くの恩賞を与え、源義朝もまた播磨守に就任という恩賞が与えられました。しかし、次第に反信西の中心メンバーであった 藤原信頼と 二条親政派 は対立関係を起こし始め、そこへ京都へ戻ってきた 平清盛が二条親政派 に味方したことによって平治元年(1160年)12月27日、 平清盛・二条親政派反信西派であった藤原信頼、源義朝による衝突が勃発します。

平清盛・二条親政派に比べ反信西派の藤原信頼、源義朝の勢力は圧倒的に少なく、瞬く間に藤原信頼・源義朝らは平清盛・二条親政派に敗れました。

 

入浴中に襲撃を受け亡くなる

源義朝は藤原信頼を見捨て、自身の子供たちと逃亡を図りましたが、子供たちとは逃亡の末離れ離れとなり、その後、源義朝は尾張国野間にいた長田忠致とその息子である景致に保護されることなりました。保護された源義朝はでしたが、京都を抜け出してから3日後の平治2年(1160年)1月3日、保護していてくれたはずの長田忠致とその息子・景致によって裏切られ、入浴中に襲撃を受け38歳で生涯を閉じました。

入浴中に襲撃を受けた源義朝は

「我れに木太刀の一本なりともあれば」(太刀の1本でもあれば、反撃できたかもしれないのに)
と叫び亡くなったとされています。

 

源義朝の墓

源義朝の墓は、愛知県知多郡美浜町にある野間大坊と呼ばれる真言宗の寺にあります。美浜町野間は源義朝が命を落とした場所であることから、美浜町野間にある野間大坊に墓が建立されました。

源義朝の墓

出典画像:Wikipedia

 

まとめ

いかがでしたか?源義朝は保元の乱、平治の乱を戦った武士でした。保元の乱では平清盛と戦友となりましたが、戦友である平清盛に比べ、
恩賞が少ないなどの理由で平治の乱では平清盛のライバルとなりました。平清盛のライバルとして有名な源義朝でしたが、その最期は非常にあっけない最期であったとされています。

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