【源義経】はチンギスハンだった!?静御前との出会いや物語にもせまります

悲劇のヒーローとされている源義経は、歴史的な資料に名前が登場するのは、わずか10年足らずです。さらに死んだ後も、チンギスハンとして生き続けた、などの伝説が伝えられています。弁慶を従えて平氏の軍と戦い、重要な合戦に勝利した義経は、静御前との間の悲恋の物語も有名です。

源義経はどんな人物?何をしたの?静御前との出会いや物語・出身地、死因、お墓はどこにあるのかなどなど、義経の謎の多い、波乱の生涯について解説します。

弁慶を家来にする

中尊寺に保存されている義経の肖像画

出典:Wikipedia

出身地はどこ?

義経の母である常盤御前は、源義朝の側室であり、近衛天皇の中宮、藤原呈子に仕えていたと言われています。義朝が敗死した後に罪人とされたために、子の義経に影響が及ばないように大和国(現在の奈良県)に逃れた、などの状況から、京で生まれたのではないかと予想されています。父義朝は反乱軍として亡くなり、罪人とされたために、出家した後に、京都の鞍馬寺に預けられます。

しかし僧になりたくなかったのか、鞍馬寺を逃げ出し、奥州藤原氏を頼って奥州の平泉(現在の岩手県平泉市あたり)に向かいます。

当時、奥州藤原氏は、東北地方で生み出されている砂金と、現在の青森県を窓口の貿易港として行っていた中国大陸(当時の国家は北宋)との貿易で大きな富と財を築き、奥州はほぼ独立国と言ってもさしつかえなない力を持っていました。

武蔵坊弁慶との出会い

鞍馬寺を逃げ出し、奥州に向かう途中で元服して義経となります。五条大橋上の弁慶との決闘は、元服する前の姿で描かれているケースが多いので、義経と弁慶は、義経が奥州に向かうまでにはすでに会っていたと考えられます。

義経と弁慶の話については、後世に創作されたものが多く、どこまでが歴史上の事実かはわかりません。が、義経が弁慶という名前の家来を従えていたということは事実のようです。しかし、義経が奥州に潜伏し、頼朝と出会って平氏と戦うまでは歴史的資料が乏しく、弁慶がいつ、どこで義経の家来となったのかは不明です。

この後、奥州で成長した義経は、打倒平氏の挙兵をした兄、源頼朝のもとに駆けつけます。平氏との合戦では平氏討伐に功を挙げたとされていますので、この頃までには家来となっていたのでしょう。

平氏との戦いと静御前との出会い・物語

奥州から頼朝のもとに馳せ参じた義経は、もう1人の兄、源範頼と共に平氏追討の命令を受けます。義経、範頼という2人の信頼できる弟がいたからこそ、頼朝自身は東国の鎌倉にじっくりと腰を据え、東国掌握に集中できたと言われています。義経・範頼は同じ源氏一族である源(木曽)義仲を討ち、京を制圧します。

その間、西国に逃れた平氏が力を取り戻しますが、義経・範頼連合軍は一ノ谷の合戦で平氏を打ち破ります。

葛飾北斎が描いた静御前

出典:Wikipedia

静御前との出会い

一ノ谷の合戦後、義経と静御前は出会ったのではないか? と言われています。出会った場所はいくつか伝えられており、「合戦勝利を祝う、朝廷主催の祝賀会が行われた、京の神泉苑」という説と、「住吉(大阪府住吉区)で行われていた雨乞い」という説があります。どちらの場合も、白拍子として招かれ、そこで舞を踊っていた静御前と義経が出会ったのではないかといわれています。

静御前は白拍子という歌舞を踊る「芸人」とされる人でした。
歴史の書物では白拍子は遊女とまとめて表現されることもありますが、白拍子にはいろんなタイプがいました。
白拍子の中には歌舞だけでなく、知識、教養(文学・史学等々の)を備え、貴族・武士の側室にまでなった人が少なくありません。

祝賀会、雨乞い、どちらの場合だったとしても、合戦に勝利したという手柄を立てた義経達が招かれるレベルのですので、白拍子もそれなりの、高い品格をもつ人達が呼ばれていたと考えられます。何はともあれ、この時期に義経と静御前は出会ったことは歴史上の事実です。

平氏の滅亡

西国に落ち延びた平氏追討と、京周辺の治安維持・制圧の為に、義経は京に残って近畿地方の軍事力で押さえ、範頼は西国に大軍を率いて向かい平氏を一ノ谷に続いて追討しようとします。しかし、範頼主導による、平氏追討が順調にいきませんでした。どうしても一気に平氏を滅ぼしたい後白河法皇の命令によって義経は軍を率いて西国に向かいます。

そして屋島の戦い(現在の香川県高松市周辺)、さらに壇ノ浦の戦い(現在の山口県下関市)で平氏を滅ぼします。大きな功績を挙げたとされる義経ですが、実は戦後処理で大きなミスをしてしまうのです。

頼朝との対立、静御前との別れ

義経は壇ノ浦の戦いの時に、鎌倉の頼朝から重要な命を受けていました。それは天皇が即位するため、かつ天皇の正当性を示すための三種の神器です。これを平氏から奪い返すことです。平氏は安徳天皇だけでなく三種の神器と共に西国に逃げており、新しい天皇即位、そしてその天皇の正当性を主張するためにはどうしても三種の神器が必要でした。

合戦の最終局面で、平清盛の正室であった二位尼が「波の下にも都はございます」と、安徳天皇を抱いたまま入水。共に三種の神器も海へ沈みましたが、 義経軍は三種の神器のうち、勾玉と鏡を海中から回収 します。しかし、最後の一つの神器である剣が見つかりません。必死の捜索を行いましたが、最後の剣は見つける事ができませんでした。

頼朝が重要視し、どうしても手にしたかったていた三種の神器の平氏からの奪還ができなかったばかりか、安徳天皇を京都に連れ帰ることができなかったことは、この後の義経の人生に影を落とすミスでした。

三種の神器は現存するんだろうか?という論争はいまだに行われています。伊勢神宮の神体である鏡がそうである、という説、皇居に勾玉が保存されている、という説、様々です。
そもそも、三種の神器そのものは専用の入れ物に収められており、歴代の天皇でさえも実物を見ることが許されていないと言われています。

兄頼朝との対立

さらに、頼朝は自分の承諾なしで、朝廷から官位をもらった義経の行動を問題視、疑いを持ち始めます。義経の弁明も叶わず、頼朝と義経は決裂し、頼朝はついに京へ義経追討の大軍を送ります。義経は京周辺、近畿の武士を集め、頼朝に対抗する軍を作ろうとしますが、味方になる武士は意外と少なく、苦戦を強いられます。

静御前との別れ

義経は吉野に逃れますが、ここでも追討の軍がジリジリと迫ってきます。ここで静御前は捕らえられ、義経とは今生の別れとなってしまいます。義経と静御前が勝利した武将と白拍子として出会い、わずか1年と数ヶ月後の別れでした。

この後、静御前は鎌倉に送られたと言われています。その後は京に戻ることを許されたとありますが、消息は不明です。

義経、奥州へ

義経は西国の勢力を集めて頼朝に対抗することを考えますが、それもうまくいかず、育った地であり恩人のいる、奥州の藤原氏を頼ります。当時の藤原氏の当主であった藤原秀衡は、頼朝によって奥州が制圧され、自らの立場が奪われることを警戒し、義経を中心に立てることにより、奥州に独立勢力を作って頼朝と対抗しようとします。

これによって、現在の東北地方と、 関東勢力の対立 が生まれました。

源義経のその後

東北地方と関東の対立も長くは続きませんでした。藤原秀衡が亡くなったのです。頼朝は後を継いだ泰衡に朝廷を通じて、頼朝に反逆した義経について圧力をかけます。頼朝にとっては、藤原泰衡と義経はかなりの厄介な存在です。そのため、一計を案じ、泰衡に義経を討たせ、その後に泰衡を自らが討ち、奥州を手に入れようとしたのです。

そして泰衡が仕掛けた衣川の戦いで、義経は自害しました。

死因から生まれた疑惑

義経の首は鎌倉に送られ、義経をよく知っている和田義盛と梶原景時によって確認されます。しかし、義経が亡くなってから首を鎌倉で確認するまで40日以上かかったと記録にあります。当時の保存技術を考えると、果たしてちゃんと義経かどうかが判別できるレベルだったのか、が疑問です。

鎌倉幕府にとって重要な敵である義経の首が、40日以上もかかって鎌倉に運ばれるのはおかしいのではないか、という議論もあったそうです。

そして、義経の死因も問題となりました。義経は自害しています。つまり、泰衡方の兵が、義経と確認して討ったわけではないのです。

義経=チンギスハン説

古今東西、常に政治に対して民衆は不満を持ちます。その不満は、その時の政治に反旗を翻した人への同情と変化することがあります。

鎌倉幕府に逆らった義経に

 
本当は生きていて欲しい
という気持ちが出てきても不思議ではありません。

実際に、義経生存説は、まずは「蝦夷地(現在の北海道)に渡ってアイヌの王になった」という説が出て、次いで有名な「義経=チンギスハン説」が出てきます。

これらは全て現在では否定されていますが、蝦夷地、中国大陸と、日本人の興味が向けられた地域に義経生存説が作られることは、社会学的に興味深い現象とされています。

義経、静御前の墓

義経の墓は、胴体が葬られたとされる、宮城県栗駒市判官の森と、首が葬られたとされる、神奈川県藤沢市白旗神社があります。一方で静御前の墓とされているものは、全国各地に点在しています。最も北が、静御前を祭っている岩手県宮古市の鈴ヶ神社。南は福岡県、香川県にも墓と伝えられているものがあります。

まとめ

鎌倉時代の中期には義経の名誉は回復されており、鎌倉には義経の霊を鎮める為の永福寺という寺がありました(現在は廃寺)。歴史の舞台に登場している期間が約9年、その間に成し遂げたことが隆盛を極めた平氏の追討という大きな仕事であり、さらに悲劇的な最期を遂げたことで、悲劇のヒーローとされ、さらには「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉まで生まれました。

判官は”はんがん”と読みますが、判官贔屓と書かれていた場合は、”ほうがん”と読みます。義経が、左衛門少尉(判官と言われる役職)から、「弱いものに対して同情を寄せてしまうこと」を判官贔屓と言うようになりました。

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