【菅原道真】なぜ学問の神様と呼ばれるの?遣唐使廃止にした理由は?

学問の神様と呼ばれる菅原道真は、845年に生まれました。出生地は、奈良、京都、堺、松江、など諸説あり、正確にはわかっていません。別名として、 菅公、菅丞相、天神、天神様  などが挙げられます。「天神様」と呼ばれる神社、聞いたことがある方は多いと思います。この天神様は菅原道真なのです。

菅原氏は代々学者の家系で、道真は幼い頃から詩歌を作ることに長けており、20歳を過ぎる頃には歴史・漢文学の学者の道を歩いていました。そしてあることがきっかけで天皇に見出されて政治の中心に入ります。政治の世界では学者らしい合理性で遣唐使の廃止などの新しい政策を実行し、政治の中心を担うようになります。しかし、菅原道真に悲劇が訪れます。

ここでは、菅原道真に訪れた悲劇、そしてなぜ政治の道に入った道真が学問の神様と呼ばれるようになったかを探っていきます。

学者から政治家へ

菅原道真の肖像画

出典:Wikipedia

学者として活動していた菅原道真は、41歳の時に讃岐の国司となります。道真の政治家としての活動はここから始まります。

国司とは、現在の知事のような役職です。讃岐国は現在の香川県ですので、香川県の知事のようなものです。当時、道真のような中級貴族にとって国司になるということは大出世でした。

藤原氏のわがままにストップをかける

道真が讃岐にいる間に、都ではある事件が起きます。その事件をきっかけに、大きな力を誇っていた藤原氏の中心人物、藤原基経が宇多天皇に無理な要求を突きつけたのです。当時、藤原基経は強大な権力を持っていました。みなさんは「関白」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。藤原道長、豊臣秀吉が関白だったことは有名です。藤原基経は、日本の歴史上初めて関白になった人です。

基経と宇多天皇が対立したことにより、朝廷は何もできなくなりました。政治がストップしてしまったのです。困ってしまったのは宇多天皇です。そこで道真は基経に手紙を書きます。

菅原道真
無理な要求をするのは藤原氏のためになりません。ここは要求を取り下げて、譲ってみてはいかがですか?

基経は道真の言うことを聞き、要求を取り下げ、朝廷の政治がまた動き出しました。貴族のトップに君臨する藤原基経が中級貴族の道真の言うことを聞くということは異例なことです。おそらく道真はわかりやすく、理路整然とした文章で基経を説得したのでしょう。

道真、政治の中心へ

その事件の2年後、道真は都に戻ります。道真が都に戻ってすぐ、藤原基経が亡くなります。基経の子である藤原時平はまだ若かったため、宇多天皇は道真を出世させて藤原氏を抑えようとします。順調に出世した道真は、国政の中心を担う貴族の最高幹部にまで上り詰めます。これは中級貴族としては異例の大出世です。

さらに道真は、長女を宇多天皇の女御とし、三女を宇多天皇の三男である斉世親王の妃とします。こうして姻戚関係も強化していきます。

女御とは、奥さん候補、または皇后の次に地位の高い奥さんです。当時は一夫多妻制で、宇多天皇には5人の女御がいました。

遣唐使の廃止

894年、56年ぶりの遣唐使が計画され、道真は遣唐大使に任ぜられます。しかし、唐はすでに弱体化しており、それまでの遣唐使によってもたらされたものが日本独自の発展を遂げていました。そのため、道真は費用のかかる遣唐使を送る意味はないのではないか?と宇多天皇に提案しました。これが遣唐使中止の理由とされていますが、実は本当の理由がどうかはわかっていません。

そして、菅原道真は遣唐使の廃止を天皇に提案したのではなく、唐の状態が不安定なので、しばらく延期したらどうか、と提案したとも言われています。結局その後10年くらいで唐は滅びてしまい、道真が遣唐使を廃止したかたちとなったのです。

藤原氏の巻き返し

藤原基経が亡くなったとき、長男の時平はまだ21歳でした。まだ若かったため、政治的権力を宇多天皇から与えられず、道真の重用などで肩書きは上がっていくがなかなか権力は持たせてもらえない状況でした。

さらに宇多天皇は時平を抑え込みます。醍醐天皇を即位させ、自らは宇多上皇となり、上皇になることによって後ろから天皇をコントロールしようとします。

ただ、やはり藤原氏の力は無視できません。時平を左大臣に任じ、その時平を抑えるために、右大臣に道真を任じます。そして時平にチャンスが訪れます。天皇をコントロールしていた宇多上皇が、仏教に夢中になり、出家して法皇となったのです。法皇となってあちらこちらの寺院に参詣し始めたので、天皇のコントロール、道真のバックアップを宇多法皇は十分にできなくなります。

そして都にはこんな噂が流れました。

菅原道真は、自分の娘を嫁がせた斉世親王を醍醐天皇の後継者にしようとしている。

これを期に、時平は道真から、醍醐天皇は宇多法皇から政治の実権を奪おうとします。

道真の左遷とその後

道真は醍醐天皇の命令で太宰府に左遷されます。宇多法皇は醍醐天皇に会って道真を許してもらおうとしますが、醍醐天皇は宇多法皇に会うことを拒否します。

901年、道真は太宰府に流され、その2年後亡くなります。この左遷は、藤原時平vs菅原道真、醍醐天皇vs宇多法皇という対立が生んだ悲劇と言われています。政治の実権はこうして醍醐天皇と時平の手に渡りました。しかし、時平は39歳の若さで病死します。
さらに道真追放に加わった貴族などが次々と亡くなります。

そして政治を行う重要な場所でもある清涼殿に落雷が起きます。この落雷で多数の貴族が亡くなり、3ヶ月後には醍醐天皇も崩御します。これらは道真の祟りと言われ、この後も100年あまりにわたって、自然災害が起きるたびに道真の祟りと言われるようになります。

道真と天神信仰

道真が祭られている太宰府天満宮

出典:Wikipedia

これらの事から、清涼殿への落雷と道真が結びつけられ、道真の怨霊は雷神という考えが起こります。朝廷は道真の怨霊を鎮めるために、京都に北野天満宮を建立します。さらに道真が亡くなった地にも天満宮を建立します。これが今の太宰府天満宮です。雷神は天神とも言われ、道真の霊は天神様として祭られるようになります。

そして時代が江戸時代になると、道真の霊は、雷の神様ではなく学者であったことから学問の神様とされるようになります。それに伴って、天神様も学問の神様とされるようになります。

こうして全国の天神様は、学問の神様として信仰を集めるようになりました。今でも太宰府天満宮、北野天満宮をはじめとして、全国の天神様は受験生などの信仰を集めています。学問の神様として知られる菅原道真は、実は雷神様、つまり自然災害に関わる神様でした。それが時代が進むと学問の神様となったのです。

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