戦国随一の名将【毛利元就】とは何者?三本の矢と三人の息子との逸話 など、語り継がれる名言を探ります!

戦国の知将と呼ばれる毛利元就は子供の頃はとても苦労されて育ちました。毛利元就は、幾度とある戦に戦略を立て、次々に勝利していきます。毛利元就は、自身の知恵で毛利家の勢力を中国統一まで導き、部下や家臣からとても慕われた武将です。毛利元就は愛妻家で有名で、息子達に話した三本の矢が逸話になっています。
これから毛利元就とはどのような人物なのか、また毛利元就の名言や逸話も紹介していきます。

毛利元就の生い立ち

毛利元就の画像

出典画像:Wikipedia

  • 1497年3月14日に安芸の国領主、毛利弘元の次男として産まれました。幼名は松寿丸です。
  • 妻は吉川国経の娘の妙玖
  • 子息が3人、隆元・元春・隆景が誕生する
  • 1571年7月6日に亡くなる。

毛利元就の幼少期

1500年に毛利弘元は元就の兄である興元が家督を譲ります。元就は隠居した父親と一緒に猿掛城へ移住します。1506年に父の弘元がお酒が原因で亡くなってしまいます。家臣の井上元盛に城を乗っ取られ、まだ小さい元就は城を追い出されてしまい、貧しい暮らしをせざる得なくなります。ぼろぼろの空き家で暮らしていたので「乞食若様」と呼ばれていました。

弘元の継室である杉大方が、貧しい暮らしから元就を救い、育ててくれました。そして1511年、当時の毛利家の当主である、興元に許可をもらい、松寿丸が元服し、多治比元就となり分家になりました。

元就の初陣

1516年に 毛利興元 が亡くなってしまいます。興元の息子、幸松丸が毛利家の家督を継ぎます。まだ幸松丸が幼いので 叔父の元就が後見人を務める
ことになりました。

1517年にこの跡継ぎ騒動で毛利家がざわついている最中、安芸武田氏が吉川氏の守る有田城を侵略しようと攻めてきます。元就は幸松丸の代わりに、有田城を護りに出陣します。これが、 元就にとっての初陣で有田中井手の戦い と言います。

元就は安芸武田氏の猛将の熊谷元直を見事討ち取ります。戦の状況は、戦力に優っている武田軍が優位でしたが、元就は、武田軍の大将、武田元繁をも矢で討ち倒すという活躍をします。武田軍は大将を失い、また他の有力な武将をも倒され、退却します。

この大勝を「西国の桶狭間」と呼ばれ、 安芸国人「多治比元就」の名が全国に知れ渡りました。 この戦いで武田氏の勢力が衰え、毛利家の勢力が増すきっかけになりました。

家督を継承して毛利元就となる

家臣の信望を集める

鏡山城遠景

出典画像:Wikipedia

それから元就は、1523年に鏡山城の戦いで、安芸国西条の尼子氏と大内氏の対戦で尼子氏側にに付き戦います。大内氏側が有利でしたが、 元就が敵将の蔵田直信に「蔵田家の家督を継承する」という約束をし、蔵田直信が寝返り尼子軍を城に率いれて、鏡山城を落城しました。 この元就の智略によって勝利していく姿に毛利家の家臣たちの信望を集めます。

この鏡山城の戦い後、寝返った蔵田直信を尼子経久は処刑してしまいます。援軍した毛利家にも何も恩賞を与えず、毛利家は尼子氏に不信感を抱き、尼子氏は元就を警戒するようになります。

元就が結婚し、子供が誕生する

その後、元就は吉川国経の娘の妙玖と結婚します。これにより、吉川氏の勢力も手に入れることになります。そして1523年に甥の幸松丸が亡くなってしまいます。家臣の信望を集めていた元就が家督を継承し、多治比元就から毛利元就と名を改めました。

毛利元就は側室を持たず、生涯、妙玖一人を愛し続けたという愛妻家です。

元就の継承に反発が起きる

多くの家臣から信望を集めていた元就ですが、中には元就の継承に納得いかない家臣がいました。反発している坂氏の一部と渡辺氏の一部の者が尼子氏の支援のもと、元就の異母弟とクーデターを起こしますが、元就の手によって鎮められ、失敗します。

この出来ごとに責任を感じた坂氏の一族の桂広澄は、元就が止めの説得も聞かず自害してしまいました。この継承の騒動で、ショックを受けた毛利元就は尼子経久を敵視するようになります。その後、毛利家は尼子経久と対立している大内義興の傘下へ加わることになります。

毛利元就の名言と逸話

大きな抱負を抱く

元就が12歳と幼いころに、厳島神社にてお参りをした後、何を祈ったのか従者に尋ねると、そのうちの一人が「中国(中国地方)制覇の祈願をした」と言ったら、

元就 
日本全国を支配するように祈ればいいものを。日本全国を取ろうとすれば、段々と中国は取れる。中国だけをと思えば、どうして中国を取ったらよいのか。

と返答し、 若くして大きな抱負を抱いていると従者たちが感心した そうです。

桂元澄を諭した言葉

元就の継承の反発が起き、自害してしまった桂広澄の子の桂元澄らが城に籠ってしまいます。使者を出しても相手にしてもらえないので毛利元就が直接会いに行きます。

毛利元就 
私には全く隠すような真意ない。もし元澄が疑うのなら、今私は1人でいるのだから討ち殺すがよい。

それからも毛利元就は温かく諭し、桂元澄らも元就に謝罪し、毛利家の家臣になったと言われています。

尼子氏の不調

尼子晴久の画像

出典画像:Wikipedia

尼子晴久と戦う前に家臣達が、尼子春久病気で弱っているという噂を聞き、喜んで毛利元就に伝えてきたところ

毛利元就 
敵がわざと言いふらした策略かもしれないのに、それを我々父子の前で伝えにくるとはあるまじき事だ

と怒り、頭のきれる毛利元就は噂などに惑わされない人でした。実際に尼子晴久は病気で亡くなっています。

多くは望まない人

毛利元就は実質中国地方を制覇し、日本全国統一も出来る位勢力がありました。

毛利元就 
われ、天下を競望せず

「天下を競い合うつもりはない。日本統一は望んでいない。」という意味で、多くは欲しがらない人だったと言われています。

部下の怪我を治療をする

毛利元就は、出雲島津の陣で、部下である岩木道忠が矢に刺されてしまい、その矢の先が体内に残ってしまう怪我を負いました。足を切断しないと治らないと言われたが、毛利元就は岩木の傷口に口を付け、体内に残っている矢の先を吸い上げ治療しました。

毛利元就 
部下の命を守るのは当たり前だ!

と毛利元就の行動に道忠を始め、多くの部下が感動し、毛利元就と信頼関係が強く結ばれるようになりました。

有名な名言「三本の矢」

教訓を書いた勝栄寺

出典画像:Wikipedia

毛利元就 
この矢一本なれば、最も折りやすし。しかれども一つに束ぬれば、折り難し。汝ら、これに鑑みて、一和同心すべし。必ずそむくなかれ。

元就が死ぬ間際に3人の息子に語った教訓です。元就は1本の矢を渡して折るように言うと、息子たちは簡単に矢を折る事が出来ました。次に元就は息子たちに3本の矢束を折るように言うと、誰も3本の矢束を折ることができません。

それを用いて、 1本では弱く折れてしまう矢も複数の束にすれば丈夫になり折る事が出来ない事から、兄弟3人の団結が強ければ何事にも勝り、乗り越えていけると教えた名言 です。この3本の矢の教訓の事を三矢の訓と呼ばれています。

吉川家・小早川家を事実上の支配下に置く為の策略

毛利隆元の画像

出典画像:Wikipedia

出典画像:Wikipedia

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毛利元就は息子を養子に出します。毛利隆元は、後の毛利家を継ぎます毛利元春は吉川氏の養子に出し、吉川元春となります。毛利隆景は小早川氏へ養子になり小早川隆景となります。この吉川家と小早川家を事実上の支配下に置くことが出来たので毛利元就の勢力が中国統一し、日本統一出来るほど大きくなることが出来ました。 毛利家を守るにはこの3家の団結が必要なことから有名な3本の矢の教訓を話されたと言われています。

まとめ

いかがでしたか?

毛利元就は、幼少時代に苦労こそしますが、その後は自信の知恵と策略で毛利家の勢力をひろげ、元就の家臣や部下に対する行動が、皆から信頼を得て絆を大切にする武将です。
毛利家の戦力はさほど多くはありませんでしたが、元就の戦略のおかげで幾度と戦に勝つことができ、戦国最高の知将と呼ばれています。毛利元就の戦を学ぶと、その策略にとても驚いてしまいます。

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