本居宣長は『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』を記した江戸時代の国学者です。
木綿仲買商の次男として誕生し、兄が亡くなったことによって家業を継ぐこととなりましたが、商売には関心がなく店をたたむと医師となります。
医師となった本居宣長でしたが、日本の古典研究に興味を持ち始め、昼間、医師として活動しながら夜、古典の研究に没頭しました。
その後、国学者の賀茂真淵と出会った本居宣長は、賀茂真淵の弟子となり「古事記」の研究に打ち込みます。古事記の研究は長く続けられ、寛政10年(1797年)69歳にして「古事記」を詳しく注釈した「古事記伝」を完成させました。
本居宣長が完成させた「古事記伝」は現在でも「古事記」の研究の基本書として用いられています。
そんな本居宣長の生涯や「古事記伝」、「もののあはれ」や「源氏物語」、また医師としての活躍についてご紹介いたします。
目次
本居宣長の生い立ち
本居宣長は江戸時代にあたる享保15年(1730年)5月7日、現在の三重県松阪市にあった木綿仲買商の小津家の次男として誕生したとされています。
元文2年(1737年)8歳になると寺子屋で勉強を始めたとされ、ここから本居宣長の学者としての人生はスタートすることとなりました。
元文5年(1740年)本居宣長が11歳の頃、父が亡くなります。
『大日本天下四海画図』を製作
延享2年(1745年)本居宣長は江戸大伝馬町に住む叔父の店で商売を学ぶため江戸に移ります。松坂や京都にした行ったことのなかった本居宣長は初めて江戸に行き、江戸の広さに驚いたとされています。
この頃、本居宣長は日本地図の製作を行っていました。
当時から日本地図は存在していましたが、出回っている地図の多くは間違ったものばかりでした。そのため本居宣長は

と決意し、日本地図の製作にあたります。この時、まだ17歳であったとされ、自宅の畳の上で作業を行っていたとされています。正しくまとめられた日本地図は『大日本天下四海画図』と名付けられました。
- 『大日本天下四海画図』に記された現代語訳
「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。延享三年五月吉日」
- 原文
「識語、夫レ日本の絵図世に多しといゑども諸国の城下其外名所旧跡悉く在所相違せり。旦又行程の宿駅微細ならず。依是予今この絵図をなすに、城下船津名所旧跡遺跡其方角を改め在所を分明にし、道中の行程駅みさいに是を記し山川海島悉く図する。並に側に六十六洲の諸郡を顕し、又知行高田数を書し大坂より諸方への道法を東西に分てこれを記す。異国の道のり略顕せり。是が為に名て曰、大日本大絵図行程記、時延享第三年丙寅五月吉日」
延享2年(1745年)から江戸に移り住んでいた本居宣長でしたが、翌年には故郷へと帰ります。
小津家を継ぐも…
寛延元年(1748年)本居宣長が19歳の頃、伊勢山田で紙商兼御師をしていた今井田家の養子となります。しかし、その3年後には離縁し松坂へと帰ります。
本居宣長が22歳の宝暦2年(1764年)、兄である本居定治が亡くなります。これによって本居宣長が小津家を継ぐこととなりましたが、読書に夢中になるあまり商売には関心がなかったため店を閉めることとなりました。
読書家だった本居宣長
本居宣長は読書家でした。それと同時に、本の貸し借りにはこだわりがあり、
「借りた本は傷めてはいけない。」
「本を借りたらすぐ読んで返せ。しかし、良い本は多くの人に読んでもらいたい。」
といった考えが自著に記されています。
医師を目指す
店を閉めた本居宣長は母親と相談した結果、医師になることを決意します。
医師になると決意した本居宣長はさっそく勉強をするため京都へと向かいました。
- 堀元厚、武川幸順から医学
- 堀景山から儒学
を学んだとされています。
古典の研究に没頭、王朝文化に憧れる
同年、これまで小津を名乗っていた本居宣長は、先祖の姓であった「本居」を名乗るようになります。
この頃から本居宣長は日本の古典に興味を持ち始め、熱心に研究を始めるようになりました。また京都で生活をしていた本居宣長は王朝文化に憧れを持つようになります。
昼間は医師として活動、夜は研究に没頭
このように文学の研究を熱心に取り組んでいた本居宣長でしたが、医師になるための医学もしっかり勉強しており、宝暦7年(1758年)松坂で病院を開業します。
医師として(主に小児科、内科)の活動は40年以上続けられ、昼間、医師として活動するかたわら、夜、自宅で『源氏物語』や『日本書紀』といった文学の研究を行っていたとされています。
『源氏物語』とは
『源氏物語』とは平安時代中期に成立したとされる長編物語です。作者は紫式部で、主人公・光源氏を通して平安時代の貴族社会が描かれました。
『日本書紀』とは
『日本書紀』とは奈良時代に成立したとされる日本の歴史書です。弥生時代後期以前から持統天皇の時代までの日本の歴史が記された書物で、日本最古の正史とされています。
賀茂真淵との出会い
『万葉集』の枕詞を研究しまとめた賀茂真淵の『冠辞考』に出会った本居宣長は、国学の研究を始めるようになり、賀茂真淵と文通を始め、指導を受けるようになりました。
宝暦13年(1763年)5月25日、本居宣長は伊勢神宮の参拝のため松坂に訪れた賀茂真淵と初めて顔を合わせます。
賀茂真淵を前にした本居宣長は

と入門を願いました。
賀茂真淵は本居宣長の入門を受け入れ、翌年、本居宣長は賀茂真淵の弟子となります。
賀茂真淵はさっそく万葉仮名に慣れるため本居宣長に『万葉集』の注釈をするよう指導します。
賀茂真淵画像出典:Wikipedia
その後、本居宣長は『古事記』の研究に打ち込むようになりました。
医師として昼間活動し、夜、文学の研究を行う生活は続けられ、本居宣長に弟子がつくこともあり、天明8年(1788年)末までには164人の門人がいたとされています。最終的には本居宣長が亡くなった時点で487人の門人がいたとされています。
門人の内訳
門人の中の約半数にあたる200人は伊勢国の人であったとされています。職業別でみると町人が約34%、農民が約23%をしめていたとされています。
「古事記伝」の完成
寛政2年(1790年)60歳となった本居宣長は名古屋、京都、和歌山、大阪など各地を旅し、旅先にいる門人を激励するなどを行いました。
寛政5年(1793年)からは散文『玉勝間』を書き始めます。この散文には自身の研究、思想、信念などが記されました。
寛政10年(1797年)、69歳にして『古事記』の注釈書である『古事記伝』を完成させます。明和元年(1764年)から書き始められ、34年を経て完成しました。
『古事記』とは
『古事記』とは和銅5年(712)成立したとされる日本最古の歴史書です。上中下3巻からなり、上巻には神代、中巻は神武天皇から応神天皇の時代、下巻は仁徳天皇から推古天皇の時代の歴史がまとめられています。
『古事記』が完成した8年後の養老4年(720年)日本最古の正史として『日本書紀』が完成します。『日本書紀』が完成したことによって、本居宣長の時代まで『古事記』はあまり読まれなくなったとされています。
本居宣長はそんな『古事記』の研究を熱心に行い、寛政10年(1797年)『古事記伝』を完成させたのでした。
『古事記伝』とは
全44巻からなる『古事記伝』は『古事記』を詳しく注釈したもので、奈良時代に成立したとされる『日本書紀』などとの比較や神道の神について、『古事記』の本文と訓読、注釈などが記されました。
本居宣長が記した『古事記伝』は古代文学研究、古代史研究に強い影響を与え、現在でも『古事記』の研究、古代史研究の基本書として『古事記伝』が使用されています。
『古事記伝』再稿本画像出典:Wikipedia
本居宣長の最期
本居宣長は『古事記伝』が完成した4年後の享和元年(1801年)9月29日、本居宣長は72歳で亡くなりました。
亡くなる直前、本居宣長は遺言書を残していたとされています。そこには
- 墓のデザイン
- 相続
- 供養の仕方
- 命日定め方
などが記されました。
医師としてのエピソード
本居宣長は江戸時代の国学者として知られる人物ですが、実は医師としても約40年間活躍していました。
宝暦7年(1758年)に医師として開業した本居宣長は主に内科、小児科を得意としいたとされ、昼間は患者を診断し、夜、古典の研究や門人たちに指導するといった生活は40年間続きました。
本居宣長は
- 1日の患者の診察内容
- 薬の処方
- 薬代
などを日誌に記していました。これは『済世録』と名付けられています。この記録によると本居宣長は亡くなる10日前まで診察を行っていたことが分かります。
内科、小児科医として活動していた本居宣長は

と考え、診察の付き添いにきた母親を子供以上に詳しく診察したとされています。本居宣長は患者思いの医師であったのです。
医師として立派な活動を見せた本居宣長でしたが、

と子孫に述べていたとされています。
あくまでも医師の仕事は生活費を稼ぐためであり、本居宣長にとっては文学の研究が本業であったようです。
もののあはれ(もののあわれ)とは
「もののあはれ」とは本居宣長が著作『紫文要領』(宝暦13年6月7日)や『源氏物語玉の小櫛』(寛政8年)において提唱した美的理念です。
触れたり、目で見たり、耳で聞いたりしそれによって生じる、しみじみとした感情を持つこと、また無常観的な哀愁を「もののあはれ」と名付けました。人によってもののあはれの解釈は様々ですが、「哀れみ」「悲哀」「悲惨」「悲しみ」「美」「感動」「同情」などの感情がもののあはれに含まれています。
「もののあはれ」の例
「もののあはれ」は少し難しい言葉ですが、例としてあげるなら桜ではないでしょうか。日本人は古くから桜を愛し、桜を題材にした和歌や俳句が多く残されています。今でも桜を題材にした多くの歌が作られ、お花見といった文化があるように、日本人と桜には深い関係性があるのです。
そんな日本人の愛する桜ですが、一般的に咲いてしまうと10日から2週間程度で散ってしまうとされています。
たった2週間程度しか咲かない桜を人々は昔から愛しているのです。しかし、満開になった桜だけではなく、散りゆく桜、散ってしまった桜に儚さを感じる人もいます。花が咲き美しさを感じると同時に、散りゆく儚さも感じることができるのです。このような感情を本居宣長は「もののあはれ」と表現しました。
そんな「もののあはれ」の頂点は「源氏物語」であると本居宣長は考えました。
「もののあはれ」=「エモい」?
若者言葉で「エモい」という言葉があります。
この言葉は、2016年頃から使用されたと考えられており、気持ちや感情が揺さぶられた時や言葉に表せない気持ちを表現する際に使用されることが多いです。
「もののあはれ」は現在でいう「エモい」かもしれませんね。
まとめ
本居宣長の生い立ちや「古事記伝」、「もののあはれ」についてご紹介いたしました。
本居宣長は生涯「古事記」の研究に没頭し、「古事記伝」を完成させた人物でした。
「古事記伝」は現在でも『古事記』の研究、古代史研究の基本書として使用されており、日本の文学研究に大きな影響を与えました。国学者として有名ではありますが、実は医師としても活躍しており、昼間は医師、夜は研究者として活躍していたとされています。