数多くの戦を経験し「天下人」となった織田信長。しかし家臣である明智光秀に謀反を起こされ本能寺で最期を迎えました。
知らないという人はいないであろう織田信長は一体どのような戦を経験してきたのでしょうか。今回は織田信長の主な戦について簡単にご紹介いたします。
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目次
弘治2年(1556年)8月 稲生の戦い
弘治2年(1556年)4月、妻・濃姫の父である斎藤道山が斎藤義龍(斎藤道山の長男)との間におきた長良川の戦いで戦死します。信長は斎藤道山の救援に向かいましたが、斎藤道山を討ち取った義龍軍に苦戦することとなり撤退することとなりました。
斎藤道山
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織田家の当主を狙っていた信長の弟・信行は信長の有力な見方であった斎藤道山の死をチャンスと考え、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家とともに信長に挙兵しました。

弘治2年(1556年)8月、信長と弟・信行は稲生(現在の名古屋市西区)で衝突を起こします。8月24日に始まったこの戦いは序盤、信行方の柴田勝家の活躍により押される形となりましたが、勢いを取り戻し信行を敗走に追い込みました。
敗走した信行は信長の母でもある土田御前の仲介によって助命されることとなりました。その後、助命された信行は再度謀反を企てますが、柴田勝家によって密告され弘治3年(1557年)11月2日、清須城で信長から命を受けた河尻秀隆らによって殺害されました。
兄・信長と弟・信行の兄弟同士の争いは結果、信長の勝利に終わったのです。(稲生の戦い)
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対戦相手:信行軍(総大将・織田信行)
場所:尾張国稲生(現在の名古屋市西区)
戦力:信長軍700 信行軍1700
結果:信長の勝利
永禄3年(1560年)5月 桶狭間の戦い
『尾州桶狭間合戦図』
永禄3年(1560年)5月、駿河国、遠江国、三河国を支配していた戦国大名・今川義元が2万5千もの大軍を率いて信長の領国である尾張国に侵入してきます。
永禄3年(1560年)5月19日、信長は数千人の兵力で今川軍の陣中に奇襲を仕掛けました。結果、総大将・今川義元を討ち取ることとなり、桶狭間の戦いは信長の完全勝利に終わりました。
信長がこの戦いで行った奇襲は日本三大奇襲の1つとされています。
今川義元画像出典:Wikipedia
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対戦相手:今川軍(総大将・今川義元)
場所:尾張国桶狭間
戦力:織田軍3,000~5,000 今川軍25,000~45,000
結果:信長の勝利
元亀元年(1570年)6月 姉川の戦い
姉川古戦場跡
元亀元年(1570年)4月、信長は自身に対抗する朝倉義景の討伐のため越前国へ出陣します。しかし、妹・お市の嫁いだ浅井家が信長に謀反を起こしたため金ヶ崎の戦いで撤退に追い込まれた信長は京へと戻りました。

同年6月、信長は自身に反旗を翻した浅井氏、そして朝倉氏を討つため徳川軍とともに近江国に出陣します。この戦いは姉川の戦いと呼ばれ、浅井・朝倉氏を敗走に追い込んだ織田・徳川連合軍の勝利に終わりました。
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対戦相手:朝倉・浅井連合軍(総大将・朝倉景健、浅井長政)
場所:近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)
戦力:織田・徳川連合軍13,000~40,000 朝倉・浅井連合軍13,000~30,000
結果:織田・徳川連合軍の勝利(朝倉・浅井連合軍の敗走)
元亀2年(1571年)9月 延暦寺焼き討ち
「絵本太閤記」二編巻六
姉川の戦いのあと、信長と対立していた浅井・朝倉軍の兵は比叡山の延暦寺に匿われていました。それを知った信長は延暦寺に対し浅井・朝倉軍と手を切るよう説得します。それでも手を切らない延暦寺に対し、信長は焼き討ちにすると脅しをかけました。しかし、延暦寺は信長の脅しに屈せず浅井・朝倉軍の兵をかばい続けました。

そのため、信長は元亀2年(1571年)9月退避勧告に従わない延暦寺を焼き討ちにしました。
この焼き討ちの際、信長は戦いに関係のない僧侶、学僧、上人、児童なども殺害したとされています。
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対戦相手:延暦寺山門衆
場所:現在の滋賀県大津市比叡山周辺 (延暦寺周辺)
戦力:織田軍120000 延暦寺山門衆約4,000
結果:織田軍の勝利(延暦寺の焼き討ち)
天正3年(1575年)4月 長篠の戦い
長篠の戦い画像出典:Wikipedia
天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけて甲斐国の武田氏は織田・徳川領に侵入を繰り返していました。天正3年(1575年)4月、武田勝頼は徳川氏に寝返った奥平貞昌を討つため長篠城を攻めます。信長はすぐさま徳川軍に合流しました。こうして織田徳川連合軍と武田軍の戦いが始まりました。(長篠の戦い)
結果、火縄銃を用いた織田軍の活躍によって武田軍は総崩れとなり、織田徳川軍の勝利に終わりました。
この戦い後、武田勝頼は信長との和睦を試みますが、天正10年(1582年)信長が同盟者である徳川家康、北条氏直らとともに武田勝頼領を本格的に侵攻してきたため、甲斐武田氏一族は滅亡となりました。(甲州征伐)
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対戦相手:武田軍(総大将・武田勝頼)
場所:三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)
戦力:織田・徳川連合軍38,000~72,000 武田軍15,000~25,000
結果:織田・徳川連合軍の勝利
天正10年(1582年)6月 本能寺の変
錦絵「本能寺焼討之図」
天正10年(1582年)5月、信長は備中高松城の毛利軍と対峙していた羽紫秀吉から援軍の要請を受けます。この要請を受け5月29日小姓衆のみを率いて安土城から上洛しました。

羽柴秀吉の援軍の要請は信長だけではなく家臣の明智光秀も受けていましたが、その明智軍が突如京都へと進軍を開始し、天正10年(1582年)6月2日未明、信長が滞在していた本能寺に攻撃を仕掛けてきます。

寝込みを襲われわずかな小姓しか率いていなかった信長は必死に明智軍に抵抗を見せましたが、圧倒的な兵力を持つ明智軍には敵わず、信長は自ら本能寺に火を放ち自害し49歳で亡くなりました。(本能寺の変)
その後、信長の遺体は発見されなかったとされています。
信長に謀反を起こしその後「天下人」となった明智光秀は、信長の死を知り急いで畿内に戻ってきた羽柴秀吉によって山崎の戦いで亡くなりました。
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対戦相手:明智軍
場所:本能寺と二条御新造
戦力:信長・小姓衆20~30人または150~160(信忠・母衣衆は500~1,500) 明智軍1万3,000名
結果:明智軍の勝利 織田信長・信忠の自害
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まとめ
織田信長の主な戦をご紹介いたしました。
桶狭間の戦い、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、長篠の戦いなど数多くの有名な戦を経て信長は天下統一を果たしました。天下統一後も天下統一事業を進めていた信長でしたが、その最中、家臣・明智光秀によって裏切られ49歳で亡くなります。
その遺体は今だ見つかっておらず、また明智光秀が信長に謀反を起こした理由も分かっていないため本能寺の変は「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれています。
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