織田信長は戦でも政治でも天才といった評価が目立ちます。
天才を印象付ける織田信長の戦としてあげられるのは、奇襲で勝利を収めた桶狭間の戦い、鉄砲隊を用い騎馬隊を打ち破った長篠の戦いではないでしょうか。そこで今回は、天才と評価されるきっかけとなった桶狭間の戦い、長篠の戦いについてご紹介していきます。
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目次
桶狭間の戦いから見る
- 対戦相手:今川軍(総大将・今川義元)
- 場所:尾張国桶狭間
- 戦力:織田軍3,000~5,000 今川軍25,000~45,000
- 結果:信長の勝利
織田信長が天才的な経歴といえば、まず初めに頭に浮かぶのは「奇襲作戦」で勝利を収めた桶狭間の戦いではないでしょうか。
桶狭間の戦いとは永禄3年(1560年)5月に行われた織田軍vs今川軍との戦いです。
『尾州桶狭間合戦』出典画像:Wikipedia
開戦に至った経緯
織田氏と今川氏の対立
駿河国の戦国大名であった今川義元は三河・尾張方面へと領土を広げようとしていました。尾張国の織田信秀(織田信長の父)もまた三河国へと領土を広げようとしており、今川氏と織田氏は三河・尾張両国の国境地帯の支配をめぐり対立するようになります。
今川義元出典画像:Wikipedia
織田勢力の弱体化
そんな中で天文20年(1551年)織田信秀が急死、さらに後を継いだ織田信長は弟の信勝と内紛を起こし、結果、尾張・三河国境地帯の織田勢力は弱体化となりました。それによって尾張・三河国境地帯を守っていた織田氏の勢力は今川氏に降伏となり、尾張は徐々に今川氏に侵略されつつありました。
しかし、織田氏もただ黙っているだけでけではなく今川氏の進出阻止や逆襲などに動きはじめます。
今川義元が大軍を率いて出陣
今川氏と織田氏が緊迫する中で、永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は約2万5千の大軍を自ら率いて尾張を目指し進出してきます。今川氏の進撃を受け織田氏は清須城に籠城するか、それとも出撃するか軍議が行われていました。
清洲城模擬天守出典画像:Wikipedia
開戦
織田信長の出陣
5月19日、今川方の松平元康と朝比奈泰朝は大高城周辺に築かれた織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃をしかけます。前日の軍議で今川氏の接近を知っても動かなかった織田信長でしたが、攻撃の一報を受け、「敦盛」を舞った後明け方の午前4時頃に清須城を発ちます。この時、小姓衆5騎しか率いていなかったとされ、織田信長は今川氏との交戦に備え熱田神宮で戦勝祈願を行いました。

丸根砦、鷲津砦が制圧される
その後、10時頃には鳴海城近くにある善照寺砦で約2,000から3,000人の軍勢を整えます。この頃になると大高城周辺に築かれた丸根砦、鷲津砦は今川氏によって落とされ、大高城周辺は今川氏によって制圧されていました。
丸根砦、鷲津砦を制圧し、残る丹下砦・善照寺砦・中島砦も落とせば今川氏の勝利は目に見えていました。
丸根砦址出典画像:Wikipedia
鷲津砦址出典画像:Wikipedia
中島砦も制圧される
正午頃、織田軍の佐々政次、千秋四郎らが中島砦付近にいた今川軍の前衛部隊に独断で攻撃をしかけます。しかし、今川軍前衛部隊の反撃に遭い中島砦は陥落となっていまいました。丸根砦、鷲津砦を制圧、中島砦までも陥落させた今川義元は余裕の表情を見せたのか、桶狭間で休憩を挟んだとされています。
中島城址出典画像:Wikipedia
総大将・今川義元を討つ
織田信長は桶狭間方面に敵軍の存在があることを察知すると、2,000人の兵を率いて今川義元が休憩する桶狭間へと向かいます。
桶狭間古戦場伝説地出典画像:Wikipedia
13時頃、桶狭間周辺で豪雨が発生します。『信長公記』には「石水混じり」と記されているため雹が降っていた可能性もあります。織田信長はこの悪天候に乗じて兵を進め、今川義元本隊に奇襲を仕掛けました。
『信長公記』によると、織田信長の攻撃を受けた今川義元は輿から降り、300騎の親衛隊に囲まれながら馬で逃亡を図ろうとしましたが、織田軍の攻撃を受け今川義元を守る親衛隊を失い、ついに織田信長の馬廻に追いつかれ織田氏の家臣・毛利良勝によって討ち取られたと記されています。
総大将である今川義元を失った今川軍は戦意を失い、結果、織田信長の勝利に終わりました。名古屋市・長福寺に所蔵されている「桶狭間合戦討死者書上」には今川軍の戦死者は2753人、織田軍の戦死者は990人(うち272人は近江国佐々木方からの援軍)と記されています。
実は奇襲ではなかった?
織田信長が休憩中の今川義元に奇襲を仕掛け今川義元を討ったとして有名な桶狭間の戦い。
織田信長は奇襲を仕掛けた際、今川義元本隊に気づかれないよう迂回しながら攻撃を仕掛けたと小瀬甫庵が記した『信長記』には記されています。
織田信長が迂回しながら今川義元本隊に攻撃を仕掛けたこの作戦は「奇襲」として長らく定説とされてきました。
多くの方が
- 今川義元が桶狭間で休息をとっていることを織田信長は知っていて桶狭間に軍を進め「奇襲作戦」を取ることとした
- 今川軍の2万人5千人もの大軍に対し、織田軍は3,000人から5,000人の兵力だった
- 織田軍は今川義元本隊に気づかれぬよう迂回しながら、豪雨に乗じて奇襲を仕掛けた
- 混乱する今川義元本隊を打ち破り、今川義元を討ち取った
と認識していることでしょう。これは『信長記』に記されたもので、桶狭間の戦いの定説となりました。
しかし一方で『信長公記』には
- 今川義元が休憩しているとは知らず、桶狭間方面に敵軍がいることを知り織田信長は軍を進めた
- 今川軍は総勢2万人5千人の兵力であったものの、今川義元を守っていたのは5,000から6,000人の兵だけであり、互角の戦いであった
- 豪雨で視界が悪いうちに今川軍の正面から攻撃を仕掛けた
- 予想外の正面からの攻撃に驚いた今川軍は混乱し、その混乱が今川義元本隊にも波及し、今川義元は討たれた
と記されているのです。 『信長記』に記されている「奇襲説」とは違い、 『信長公記』のこの説は「正面攻撃説」 と呼ばれています。
『信長記』と『信長公記』には大きく食い違う点があるため、現在最も信頼性の高い『信長公記』に記された「正面攻撃説」が桶狭間の戦いの真意ではないかと考えられています。
絶好の条件が重なって勝利した
もし『信長公記』に記されている「正面攻撃説」が正しいのであれば、桶狭間の戦いでの織田信長の戦いは「奇襲」とは言えないのかもしれません。
つまり、「正面攻撃説」が正しいのであれば、
- 天候の悪さ
- 織田信長がたまたま攻撃した今川軍が今川義元本隊であった
- 今川義元を守っていた兵力が互角の数だった
という絶好の条件が重なって織田信長は桶狭間の戦いで勝てたといっていいのではないでしょうか。

「奇襲」ではなかったとされる桶狭間の戦いですが、桶狭間の戦い後織田信長は、三河国の徳川家康と手を結び同盟を組み(清洲同盟)、その後も姉川の戦い、長篠の戦いなどを経て天下人となります。
天才と称される織田信長にとって今川義元を討ち取った桶狭間の戦いは天下人となるための重要な戦だったのです。
長篠の戦いから見る
- 対戦相手:武田軍(総大将・武田勝頼)
- 場所:三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)
- 戦力:織田・徳川連合軍38,000~72,000 武田軍15,000~25,000
- 結果:織田・徳川連合軍の勝利
長篠の戦いとは天正3年(1575年)4月におきた織田徳川連合軍と武田軍の戦いです。
長篠の戦い出典画像:Wikipedia
開戦に至った経緯
足利義昭の挙兵
美濃国を支配した織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、甲斐国の武田氏とは友好的な関係を築けていました。しかし、将軍となった足利義昭と対立関係となると元亀3年(1572年)反信長勢力となった足利義昭が挙兵してきます。
足利義昭出典画像:Wikipedia
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徳川領に侵攻する武田氏
この頃、甲斐国の武田氏は織田信長と同盟国である徳川氏の領国・三河に侵攻を繰り返していました。(西上作戦)そのため、徳川氏と同盟関係である織田氏も武田氏と対立するようになります。
しかし、元亀4年(1573年)武田信玄が亡くなったことにより、西上作戦は台無しとなり武田軍は甲斐国へと引き返していきます。この頃になると織田信長は反信長勢力であった朝倉氏・浅井氏を滅ぼし、また将軍・足利義昭を京都から追放、「天下人」となっていました。

自国の領土から武田氏が撤退していくと徳川家康は、武田領国に対し反撃を仕掛けました。
奥平信昌の寝返り
天正元年(1573年)8月、武田氏の家臣・奥平信昌が徳川氏に寝返りました。徳川家康は武田家から奪還したばかりの長篠城に奥平信昌を配置させます。
奥平信昌出典画像:Wikipedia
長篠城が包囲される
この頃、武田氏の後継者となっていたのは武田勝頼(武田信玄の四男)でした。武田勝頼は天正3年(1575年)4月、徳川方に寝返った奥平信昌を討つため大軍を率い三河に侵攻、翌月には奥平信昌のいる長篠城を包囲します。これにより、織田・徳川連合軍vs武田軍の衝突が始まりました。
長篠城本丸跡出典画像:Wikipedia
開戦
1万5000人の兵を率いてきた武田軍に対し、奥平信昌のいる長篠城を守っていたのはたったの500人だけでした。しかし、鉄砲や大鉄砲を約200丁保持していたとされ、また谷川に囲まれた地形のおかげでなんとか防衛することはできていました。
数日続いた防衛でしたが、食料が底をつきはじめてきたため落城寸前まで追い込まれます。そのため5月14日の夜、岡崎城にいる徳川家康に援軍を要請することとなりました。
馬防柵を設置
このころ岡崎城ではすでに織田信長が率いる援軍3万人、徳川軍8000人が長篠城に出撃準備をしており、5月18日には長篠城手前の設楽原に着陣することができました。
設楽原は、なだらかな起伏や丘が連なる丘陵地で、織田信長はこの地の利点を活用しここに3万の兵を敵から見えないよう途切れ途切れに布陣させます。また馬防柵と呼ばれる武田の騎馬軍団に対抗した柵を設置しました。
設楽原の空中写真出典画像:Wikipedia
織田・徳川連合軍は特に武田氏の騎馬隊に特に注意を払っていたとされ
- 徳川家康から家臣に宛てた手紙には「柵などをよく念入りに構築するように。武田氏は馬一筋に突入してくるぞ」といった内容
- 『信長公記』には「武田軍は馬の扱いに上手く、この時も馬を扱いかかってきた」
- 長篠の戦いに参戦した徳川氏の家臣の日記には「武田の騎馬武者が数十人が集団を攻めかかってきた」
といった記録が残されています。

武田軍の騎馬隊を恐れた信長は、長篠の戦いにおいて鉄砲隊を防御策で守り、馬防柵で武田の騎馬隊を迎え撃つといった作戦にでたのでした。
長篠城の救援に成功
5月20日深夜、信長は徳川家康の家臣・酒井忠次を呼び出し鉄砲に優れた2000人の兵を集めさせます。この2000人の兵に自身の鉄砲隊500人と検使ら合わせ4000人の別機動隊をつくり奇襲を命じました。
別機動隊は迂回しながら長篠城を包囲していた鳶ヶ巣山砦を襲いました。織田信長の命じた奇襲は成功し、見事長篠城の救援に成功します。
勝利を収める
5月21日早朝、設楽原では約8時間の交戦の末、織田・徳川連合軍が武田軍を追撃、その結果武田軍は10,000人の犠牲者を出し敗北となりました。この戦いにおいて織田・徳川連合軍の犠牲者は約60名だったのに対し、武田軍の犠牲者は約10,000人から12,000人であったとされています。
馬防柵が勝利へと導いた
長篠の戦いで織田・徳川連合軍が勝てた要因としてあげられるのは馬防柵の存在です。
信長や徳川氏は武田氏の騎馬隊を非常に恐れていました。そのため騎馬隊を迎え撃つために馬防柵をつくったのです。さらにはその馬防柵の後ろに鉄砲隊を配置し、次から次へと鉄砲を撃てるように工夫しました。また馬防柵と馬防柵の間にあるスペースから槍隊も構えていました。
織田信長が考えたこの画期的な「馬防柵作戦」は当時、誰も行ったことのない作戦で非常に近代的な作戦だったのです。ではなぜ信長はこのような画期的な「馬防柵作戦」を思いついたのでしょう。理由としてあげられるのは海外の鉄砲を用いた戦争を知っていた、宣教師から銃が使用されていたイタリア戦役について聞いていたなどが挙げられます。
「三段撃ち」戦法は実は存在していなかった?
また長篠の戦いで信長の率いた鉄砲隊は「三段撃ち」といった戦法を使用していたとして有名です。
この有名な「三段撃ち」ですが、実は具体的な戦法や、三段打ちを行ったという記述は史料には見られず、また『信長公記』には、「武田騎馬隊が押し寄せた時、鉄砲の一斉射撃で大半が打ち倒されて、あっという間に軍兵がいなくなった」と記されているため、「三段撃ち」という戦法は使用されていなかったと考えられています。
「三段撃ち」は行われていなかったかもしれませんが、信長が考えた「馬防柵作戦」のおかげで長篠の戦いは勝利に終わりました。画期的な作戦を考えた信長、やはり天才なのかもしれません。
まとめ
天才とされる織田信長の代表的な戦を2つご紹介いたしました。
「奇襲」で有名な桶狭間名の戦い、実は織田信長は奇襲を行ったわけではなかったと今では考えられています。一方で、鉄砲を使用し武田氏の騎馬隊を破ったとされる長篠の戦い、織田信長が考えた画期的な「馬防柵」は勝利の要因となりました。
どちらも有名な戦いですが、「奇襲」は存在していなかった、「三段撃ち戦法」は用いられていなかったなどの事実が判明しています。ですが、天才武将とされる織田信長にとって桶狭間の戦い、長篠の戦いでの勝利は必要不可欠なものだったのです。
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