聖徳太子の部下【小野妹子】彼らが隋に派遣された目的は?(遣隋使)お墓はどこにあるの?

多くの人が日本史の授業で小野妹子を知ったのではないでしょうか。「妹子」という名前でありながら、女性ではなく男性であった小野妹子。推古天皇に仕え、聖徳太子の部下として推古天皇15年(607年)、日本の隣国である大唐(当時の中国)に遣隋使として派遣されました。目的は大唐との外交、つまり結びつきを深めるためだった、文化と技術を取り入れるためだったとされています。こうして遣隋使として活躍した小野妹子でしたが、いつどこで誕生したのか、また亡くなったのかは分かっていません。
そのため、聖徳太子よりも年下であったのか、年上であったのか、または同じ年であったのかも分かっていません。

しかし、墓は大阪や滋賀県などに存在しています。そんな小野妹子の遣隋使となった経緯や派遣された目的、墓などをご紹介いたします。

小野妹子の生い立ち

小野妹子は現在の滋賀県大津市小野に位置する近江国滋賀郡小野村の豪族・小野氏の出身であるとされています。小野妹子の出身である小野氏は天足彦国押人命を祖としており、『日本書紀』によると小野妹子は「春日小野臣大樹」の末裔で春日仲君の子供とされています。

『日本書紀』『古事記』によると天足彦国押人命とは、孝昭天皇(第5代天皇)とその妻・世襲足媛との間に誕生した第一皇子とされています。

小野妹子、聖徳太子に選ばれ遣隋使となる

推古天皇15年(607年)小野妹子は通訳・鞍作福利らとともに、大唐(当時の中国)へと派遣されます。当時、治天の君であったのは日本で女性初となった推古天皇でした。この推古天皇を補佐したのは、かの有名な聖徳太子です。

聖徳太子

聖徳太子の肖像画出典画像:wikipedia

聖徳太子は推古天皇にとって甥にあたる人物で、推古天皇に代わり政治主導権を握っていました。摂関を行っていた聖徳太子は、遣隋使に小野妹子を選抜します。こうして遣隋使に任命された小野妹子は推古天皇15年(607年)、通訳・鞍作福利らとともに大唐へと渡ったのでした。当時の中国は隋と呼ばれる時代で、隋朝第2代皇帝・煬帝と呼ばれる人物が国を治めていたとされています。

煬帝の肖像画出典画像:wikipedia

「遣隋使」という言葉の「隋」とは中国の王朝の名前からとられています。ちなみに、「遣唐使」とは隋王朝の後、中国を統一したのが唐王朝であったため「唐」という言葉が使用されています。「遣隋使」と「遣唐使」は全く別物ということです。

隋へ派遣された目的

小野妹子らが隋へ派遣された目的は

  • 隋との良好な関係を築くため
  • 先進国でもあった隋の文化を日本に取り入れるため

とされています。日本の隣国でもある隋は当時、東アジアの中心国でもあり、先進国でもありました。そのため日本は遣隋使を派遣し文化や技術などを学ばせ、日本に持ち帰ってきてもらおうと考えたのです。

隋の皇帝・煬帝が激怒

遣隋使として推古天皇15年(607年)、隋に派遣された小野妹子らでしたが、この際、聖徳太子が隋の皇帝・煬帝に宛てた手紙も持っていきました。(国書)その手紙は、隋の皇帝・煬帝に渡されることとなったのですが、手紙を読んだ煬帝は大激怒します。

聖徳太子が煬帝に宛てた手紙には「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と記されていました。簡単に要約すると、太陽が昇る位置にある国(日本)の天皇から、太陽が沈む位置にある国(中国)の皇帝へと宛てた手紙です。元気ですか?という手紙でした。この手紙を読んだ隋の皇帝・煬帝は

  • 世界を統治する者という意味である「天子」という言葉を、自身ではなく、日本の天皇が使用していた。
  • また隋を太陽が沈む位置にある国、つまり衰退に向かう国であるかのように記された。

という点に怒りを覚え、激怒したのです。

隋の皇帝・煬帝
隋を馬鹿にしたな!!!

日本としては皇帝・煬帝を怒らせる意味で記したのではないと考えられていますが、この時、隋の国内情勢は非常に悪く、皇帝・煬帝は聖徳太子が皮肉を込めてこの手紙を送ってきたのだと考えたのです。激怒した皇帝・煬帝でしたが、派遣された小野妹子らを処刑しませんでした。それは日本が隋と対立関係である高句麗と手を結ぶことを恐れたからとされています。

こうして小野妹子らは、推古天皇16年(608年)日本に帰国します。その際、隋の使者・裴世清も連れて帰ってきたとされています。

小野妹子の失態

小野妹子は隋から日本に帰国する際、聖徳太子からの手紙で激怒した皇帝・煬帝から返書を預かっていました。しかし、小野妹子は失態を犯します。なんと日本に帰国途中、その返書を百済(朝鮮半島西部、南西部にあった国家 )で失くしてしまったのです。

非常に重要な手紙であったので、小野妹子は帰国すると、手紙を失った罰として流刑に処されます。

流刑とは、罪を犯したものを島に送るといった追放刑です。

しかし、小野妹子の罪は軽減されることとなり、流刑は免れ、官人の中でも最も身分の高い「大徳」に昇進します。手紙を失くしたという小野妹子の失態は

  • 小野妹子が日本と隋の関係を配慮し、わざと手紙を紛失させたのではないか
  • 実は聖徳太子だけに手紙を読ませたのではないか

などの憶測がされています。この翌年、小野妹子らは再び

  • 高向玄理
  • 南淵請安

らとともに隋へと派遣されます。目的は返書を渡すため、また共に日本に帰国した隋の使者・裴世清を返すためでした。

小野妹子のその後

小野妹子らは再び隋へと派遣されることとなりましたが、その後の小野妹子の記録は残されていません。

小野妹子の墓

小野妹子がいつ、どこで亡くなったのかは分かっていません。しかし、大阪府南河内郡太子町のにある科長神社の南側に小野妹子の墓があります。一方で滋賀県大津市小野にある小野妹子公園の近くの唐臼山古墳も小野妹子の古墳(墓)と考えられています。

唐臼山古墳

小野妹子の古墳

出典画像:wikipedia

この古墳の南側にも古墳があり、この古墳は小野妹子の父の墓であるとされています。

まとめ

いかがでしたか?小野妹子は遣隋使として隋に派遣されるも、皇帝・煬帝には激怒され、また需要な返書を紛失するといった失態を犯した人物でした。その生涯は謎に包まれており、今でも生年月日や没年、死因などは謎のままです。これからの小野妹子の歴史調査次第では、その生涯が明らかになるかもしれません。

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