【大塩平八郎の乱】の真実!なぜ起こったの?死体を塩漬けにされたって本当!?様々な謎を解説します

大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎。知らない人は少ないのではないでしょうか。

大塩平八郎はもともと大坂町奉行に勤める役人でした。不正や汚職を嫌った大塩平八郎は大坂町奉行に勤めながら次々と内部告発をし、悪を正したとされています。

大坂町奉行を辞めた後は、学問に専念し弟子たちに講義を行っていました。そんな中、「天保の大飢饉」と呼ばれる飢饉が発生します。

この飢饉によって全国各地で死者が続出、大阪の民衆も飢餓に喘ぐこととなります。

どうにかしたい思いで大塩平八郎は様々な行動を起こしますが、結果は出ず。ついに何もしない幕府に不満を爆発させ、反乱を起こすこととなりました。

これが有名な「大塩平八郎の乱」です。

結果は半日で鎮圧され、大塩平八郎は自害することとなります。

今回は大塩平八郎の生涯や「大塩平八郎の乱」の原因と事実、また大塩平八郎の遺体の塩漬けについてご紹介いたします。

 

大塩平八郎の生い立ち

大塩平八郎は江戸時代後期の1793年3月、大阪の天満で誕生しました。

大塩平八郎が生まれた大塩家は今川家の末流であるとされ、代々、大坂東町奉行組与力を務めていました。

大坂町奉行とは

大坂町奉行とは江戸幕府が大阪に置いた役職の1つです。大阪の警察や裁判所、租税の徴収などの役割を果たしていました。

江戸奉行と同様に、大阪町奉行も「東の御番所」「西の御番所」と2つに分けられ、1か月ごとの月番制で勤務していたとされています。

大塩家はこの大坂町奉行の「東の御番所」に初代・大塩六兵衛成一の代から属しており、大塩平八郎は初代から数えて8代目にあたります。

 

 

大坂東町奉行組与力での大塩平八郎の活躍

大坂東町奉行組与力であった大塩平八郎は、厳格で真面目な性格だったとされています。

そのような性格であったため、不正や汚職などを許すことができず、西の御番所に属していた同僚・弓削新左衛門の汚職を上司に内部告発したとされています。同僚であっても大塩平八郎は汚職を許すことができなかったのです。

他にも

  • 当時禁止されていたキリスト教の信仰者(キリシタン)を摘発
  • 戒律を破った破戒僧の摘発

など次々と暴きました。

奉行所内では正義感溢れる大塩平八郎の行動を嫌い、疎む者もいたとされています。

しかし、上司の高井実徳は大塩平八郎の行動を高く評価しました。

 

大塩平八郎のスケジュール

大坂東町奉行組与力にいた大塩平八郎は私塾・洗心洞を開き、そこで弟子たちに講義をしていました。

大塩平八郎の1日のスケジュールはだいたい決められており

  • 夕方には就寝
  • 午前2時に起床し、天体観測
  • 武芸をした後、朝食
  • 午前5時から弟子たちに講義
  • その後、出勤

といったスケジュールであったとされています。

 

真面目過ぎる大塩平八郎のエピソード

大塩平八郎の真面目さが分かるこのようなエピソードが残されています。

ある日、大塩平八郎は大坂西町奉行・矢部定謙に招かれ矢部定謙の邸宅で食事をとることとなりました。

食事中は大塩平八郎は江戸幕府に対する不満を述べていたとされています。しかし、江戸幕府に対する不満や怒りがヒートアップしたのか、歯で噛み砕くことができないほど硬いとされている魚の頭を、大塩平八郎は怒りのあまり噛み砕いてしまったのでした。

とても硬い魚を怒りのあまり噛み砕いてしまう。大塩平八郎はそれほど江戸幕府に不満を抱いていたのですね。

 

隠居し、学問に専念

文政13年(1830年)大塩平八郎は大坂町奉行を辞め、その役目を養子の大塩格之助に譲ります。

大坂町奉行を辞めた大塩平八郎は陽明学(儒学)を独学で学び始め、隠居後は学業に専念しました。この時、大坂町奉行時代に開いていた私塾・洗心洞で弟子たちに指導したとされています。

大塩平八郎の行う講義は非常に厳格なもので、弟子たちは緊張のあまり大塩平八郎の目を見れなかったとされています。

 

大塩平八郎の乱の真実

大塩平八郎は天保8年(1837年)、後に大塩平八郎のと呼ばれる反乱を起こします。

この反乱は大塩平八郎が弟子たちと共に江戸幕府に起こしたもので、結果的に反乱軍である大塩平八郎が負け、自決することとなりました。

 

大塩平八郎の乱

  • 時期:江戸時代後期の天保8年(1837年)2月19日
  • 場所:大阪
  • 交戦:反乱軍(大塩平八郎)vs江戸幕府
  • 結果:大塩平八郎の自害、江戸幕府の勝利

 

 

大塩平八郎の乱はなぜ起こったのか

では大塩平八郎の乱はなぜ起こったのでしょう。ここで経緯をご紹介します。

 

原因は天保の飢饉

1度目の飢饉

「大塩平八郎の乱」が行われる前の天保4年(1833年)秋から翌5年(1834年)夏、この年は大雨により洪水が発生、冷害が起こるなど、農作物の収穫量が非常に少ない1年でした。

画像出典:Wikipedia

収穫量が激減することにより百姓は商売をすることができなくなり、これによって貧困の百姓が増え、各地で多くの餓死を出すこととなります。

大塩平八郎のいた大阪でも被害があり、大坂西町奉行の矢部定謙は大塩平八郎の意見を聞くなどして飢饉対策を行いました。矢部定謙のもとには経済の専門家ともいえる内山彦次郎がいたため、天保4年(1833年)秋から翌5年(1834年)夏にかけての飢饉はなんとか乗り越えることができました。

 

2度目の飢饉

天保7年(1836年)秋から翌8年(1837年)夏にかけてまたもや大雨による水害が起こり、農作物の収穫量が激減します。またもや全国各地で死者を出すこととなり、大阪もまた飢饉に悩まされていました。

天保4年(1833年)秋から翌5年(1834年)夏にかけての飢饉、天保7年(1836年)秋から翌8年(1837年)夏にかけての飢饉、2つ合して天保の飢饉と呼ばれています。

この時、前回、飢饉対策をしていた矢部定謙は栄転し、その代わりに大坂町奉行の跡部良弼という人物が飢饉対策を行っていました。

しかし、この跡部良弼は江戸幕府に機嫌をとるため大阪にある米を強制的に江戸へと送り込んでおり、その結果、大阪の米の量は激減することとなります。また米が無くなることを危惧した豪商が米を買い占めたことによって米価が高騰となりました。

飢饉だけではなく、米価の高騰などもあり、大阪の民衆たちは飢饉により一層悩まされることとなったのです。

 

苦しむ民衆を救いたい!

この状況を見た大塩平八郎は心を痛め、跡部良弼に対し

大塩平八郎
米蔵の米を民衆に与えよう!豪商の買い占めをやめさせよう!

と提案します。

しかし跡部良弼は全く聞き入れることはありませんでした。

それでも大塩平八郎は諦めず、豪商・鴻池幸実に

大塩平八郎
苦しむ民衆に米を買い与えたい!そのために私と弟子たちのお金を担保に1万両貸してくれませんか。

と持ち掛けたとされてます。しかしこれも、断られてしまいます。

2人に断られた大塩平八郎はなんと、自らの蔵書5万冊を売り、そのお金で米を買い与えました。そんな大塩平八郎の行動を大坂町奉行は売名行為と評価していたとされています。

京都でも米の買い占めなどが行われ、米を求め京都から大阪に民が流れてきました。その結果、大阪の治安は悪化することとなります。

 

ついに幕府に対し反乱を起こす

計画の失敗

民衆たちが貧困に喘ぐ中、豪商たちがこぞって米を買い占める。また町奉行は見てみぬふり。そんな状況に怒りを見せた大塩平八郎は、ついに江戸幕府に対し反乱を起こすことを決意します。

大塩平八郎
もう、我慢できない!豪商を焼き討ちにする以外、根本的解決はない!反乱を起こすぞ!

と大塩平八郎は焼き討ちを決め、家財を売り払い、家族と離縁したうえで、大砲や爆薬などの武器を集めました。

新しく就任した大阪西町奉行の堀利堅が、2月19日に東町奉行の跡部良弼に挨拶を行うことを知ると、この日を決行日と決め、両者を襲撃し爆死させるといった計画を立てます。

しかし、この計画は失敗に終わることとなるのです…。

 

決行日直前、反乱軍として同じ仲間であった平山助次郎が大塩平八郎を裏切り、2月17日の夜、爆死させるといった計画を跡部良弼に密告します。計画だけではなく、反乱軍のメンバーも密告したのでした。

平山助次郎
大塩平八郎らが反乱を起こそうとしていますよ!

密告を聞いた跡部良弼は反乱軍の中にも幕府に仕える役人がいることに驚いたとされています。

 

再び決起!

跡部良弼はさっそく計画が実行される前に大塩平八郎を捕らえようと考えました。しかし、大塩平八郎の弟子であった部下から

部下
何かの間違いかもしれません。私が真意を確かめてきますので、それまで捕縛するのは待ってくれませんか。

と懇願されたため、跡部良弼は大塩平八郎の捕縛を延期することとしました。

しかし、19日早朝、跡部良弼のもとに反乱軍のメンバー数人がやってきてまたもや計画が密告されます。

反乱を察知されたことを受け、大塩平八郎は計画を変更。天保8年(1837年)2月19日の朝、自身の屋敷に火を放ち弟子や民衆とともに決起しました。

 

叔父が島流しに

堀利堅は古河藩主・土井利位に大塩平八郎の反乱を報告すると、土井利位はこれを受け大塩平八郎の叔父・大西与五郎に

土井利位
大塩平八郎に腹を切るよう説得しろ。それができないのであれば刺殺しろ。

と命じます。

しかし、叔父の大西与五郎はこの時、病気を患っていたため、代わりに養子の善之進が大塩平八郎の説得に向かいました。

説得に向かった善之進。ところがすでに大塩平八郎は決起しており不在でした。善之進は急ぎ大西与五郎のもとに戻り相談します。

大西与五郎は

大西与五郎
反乱を起こした親族だから、きっと私らも許されないだろう。

と判断、逃げることを決意します。

しかし大阪で捕らえられ、大西与五郎は島流し、善之進は追放となったのでした。

 

大塩平八郎の乱は半日で鎮圧される

天満橋にある大塩邸を出た大塩平八郎たちは、町の豪商を狙い襲撃しましたが、それが原因で火災が発生したとされています。

この火災は大坂市中の5分の1を焼失させ、7万人程度が火災により負傷、270人以上が火災によって亡くなりました。

当時の大阪の人口は約36万人であったとされています。

大塩平八郎の反乱軍は約300人いたとされていますが、たちまち幕府軍に半日で蹴散らされ大塩平八郎の反乱は鎮圧されました。

大塩平八郎率いる反乱軍は死者・3人を出したのに対し、幕府軍には負傷者すらいなかったとされています。

画像出典:Wikipedia

 

大塩平八郎の最期

大塩平八郎は以前から交流のあった商人の美吉屋五郎兵衛のもとで匿われましたが、商人美吉屋五郎兵衛の女中が

女中
五郎兵衛さんは神棚に2人分の食事をお供えとして用意するのですが、いつも食べられた状態で返ってくるのが不思議だわ…。

と帰郷した際に漏らしてしまいます。

この話を聞いた役人はすぐさま領主・土井利位に通報。これによって大塩平八郎が美吉屋五郎兵衛のもとに隠れているとバレ、3月27日早朝、大塩平八郎の隠れる美吉屋五郎兵衛の店は包囲されることとなりました。

敵に囲まれた大塩平八郎は逃げることもなく火薬を使い火を放ち、自害しました。享年45歳とされています。

 

大塩平八郎の死体は塩漬けに

火を放ち自害した大塩平八郎の死体は、顔の判別もつかないほど悪い状態でした。そのため大塩平八郎の遺体や反乱参加者の遺体は塩漬けにされ保存されることとなります。

顔の判別がつかないため

民1
本当に大塩平八郎は死んだのか?
民2
実は生きているのでは?
民3
外国に逃げた!

などの噂があったとされています。

また反乱を起こした大塩平八郎の仲間の遺体を幕府はまだ磔にしていなかったため、より一層噂に拍車をかけることとなりました。

重大事件であり、反乱に参加した者が多くいたため事件の調査は難航し、反乱参加者の処分は事件翌年の天保9年8月にようやく下されることとなります。

幕府が下した処分は

  • 大塩平八郎は引廻しの後、飛田刑場で磔
  • 竹上万太郎も引廻しの後、飛田刑場で磔
  • その他の参加者17名も引廻しの後、飛田刑場で磔

計19名が磔となりました。

大塩平八郎を含め、塩漬けにされた遺体の磔は異様な光景であったとされています。

また

  • 美吉屋五郎兵衛を含めた11名の参加者が引廻しの上、打首獄門(斬首)
  • 他3名が死刑
  • 他3名が追放
  • 大塩平八郎の近親者4名が島流し

となりました。

 

まとめ

大塩平八郎の生涯や大塩平八郎の乱の真実をご紹介いたしました。

大塩平八郎について簡単にまとめると

まとめ▼
  • 江戸時代後期、大阪の天満で誕生
  • 大阪奉行で活躍後、学問に専念
  • 天保の飢饉で飢餓対策を行い、苦しむ民衆を救う
  • 苦しむ民衆は救えず、幕府に不満を持った大塩平八郎は反乱を起こす(大塩平八郎の乱)
  • 大塩平八郎の乱は半日で鎮圧
  • 大塩平八郎は自害し、その後、遺体は塩漬けに

大塩平八郎の乱を起こした大塩平八郎。

真面目な性格で不正を嫌った大塩平八郎はどうしても飢饉に喘ぐ民衆を救いたかったのでしょう。

反乱を起こすまでに、跡部良弼に民衆に米を与えてはどうか提案、お金を借りその金で民衆に米を与えようとするなど、様々な行動を起こしました。

しかし、結果はでず…。大塩平八郎はもしかすると反乱など起こしたくはなかったのかもしれませんね。