開国を要求!?【ペリー】の黒船が来航した場所や本当の目的とは?日本に与えた影響も解説!

江戸時代、日本の浦賀黒船でやってきたペリー。日本に開国を要求したことで有名な人物です。

日本は米国との間で「日米和親条約」を締結し、下田箱館を開港したことによって200年以上続いた鎖国に終止符を打つこととなりますが、一体、ペリーはどのような活躍をしたのでしょうか。

今回は

  • ペリーの生い立ち
  • 黒船はいつ、どこに来航したのか
  • 米国が開国を要求した目的
  • 「日米和親条約」のその後の影響

についてご紹介いたします。

長い間、鎖国をしていた日本

江戸幕府は寛永16年(1639年)頃から寛永16年(1854年)頃

  • スペイン、ポルトガルといったキリスト教国人の来航の禁止
  • 東南アジア方面への出入国の禁止
  • 貿易の管理、統制

などの対外政策を行いました。

参考記事

外国との関わりを断つことによって日本は世界から孤立することとなり、独自で経済を回すこととなりました。この孤立状態は鎖国と呼ばれています。

一般的に鎖国は寛永16年(1639年)頃から始まったとされていますが、天正15年(1587年)豊臣秀吉が行った「キリスト教宣教の制限」から長い鎖国は始まったとも考えられています。

なぜ鎖国は行われたのか

ではなぜ日本は鎖国を行っていたのでしょうか。

鎖国を行うまで日本は海外との貿易を行っていました。海外と貿易をすることによって異国の情報や異国の文化を知ることができ、日本にとってその利益や情報は有益なものでした。

しかし、貿易とともにキリスト教も持ち込まれることとなったのです。

キリスト教が日本に持ち込まれると、キリスト教宣教師は日本での布教活動を開始。瞬く間にキリスト教は布教され、キリシタン(キリスト教徒)を増やすこととなりました。

画像出典:Wikipedia

「神の下では皆平等」というキリスト教の教えは当時の身分制度に反していました。そのため豊臣秀吉は身分制度が維持できなくなることを危惧し、天正15年(1587年)キリスト教の布教拡大を抑えるため「キリスト教宣教の制限」をだします。

しかし、布教活動は収まることなく、徳川家康の時代になってもキリスト教は全国に布教されることとなりました。

それでも、キリスト教の広がりを抑えたい江戸幕府は徳川家康の時代からキリスト教国人の来航の禁止、貿易の管理・統制などを行うようになり、日本は孤立状態に近づくこととなります。

参考記事

鎖国に繋がった主な政策

  • 慶長17年(1612年)江戸幕府、直轄地内に禁教令を出す。
  • 元和2年(1616年)中国以外の貿易船の入港は長崎・平戸に限定。
  • 寛永元年(1624年)スペインの来航を禁止、スペインとの国交を断絶。
  • 寛永10年(1633年)奉書船以外の渡航の禁止。5年以上、海外に留まっている日本人の帰国の禁止。
  • 寛永13年(1636年)以降、ポルトガルは出島のみの貿易を許されていましたが、寛永16年(1639年)徳川幕府はポルトガル人を追放し、ポルトガル船の入港を禁止。
  • 翌年、通商再開依頼を目的にポルトガル船が来航するも、江戸幕府は来日した使者61名を処刑。
  • 寛永18年(1641年)ポルトガル人が追放され空き地となった出島にオランダ人を収容。
  • 正保元年(1644年)中国の明が滅亡。明の再興を目指す勢力が日本に支援を求めるも、江戸幕府は拒否。
  • 正保4年(1647年)ポルトガルが国交回復依頼のため来航。しかし江戸幕府はこれを拒否。

 

延宝元年(1673年)イギリス船が長崎に来航します。これまで日本はイギリスと貿易を行っていましたが、イギリスが残虐事件を起こしたことを機に、貿易は中止されていました。

長崎に来航したイギリスはこの際

イギリス
また貿易を再開しましょう!

と持ちかけましたが、日本はこれを拒否。以降、100年以上ヨーロッパ(オランダ以外)からの船が日本に来ることはありませんでした。

 

鎖国の完成

外国との関わりを断った日本は完全に孤立状態となり、「鎖国」となります。

それでも、ロシア帝国、アメリカ合衆国、イギリス、フランスなどの国は日本に対し貿易の再開、開国などを要求していました。

 

ペリーが来航するまでに行われた主な要求

  • 安永7年(1778年)ロシア連邦に属するヤクーツクの商人が来航し、交易を要求
  • 寛政4年(1792年)ロシア帝国の軍人が来航し通商交渉を要求。江戸幕府はこれを拒否。
  • 文化元年(1802年)ロシア帝国の外交官が来航し、通商交渉を要求するも、江戸幕府はこれを拒否。
  • 天保15年(1844年)琉球王国にフランス海軍の遠征隊が来航、通商を要求するも琉球王国はこれを拒否。
  • 弘化元年(1844年)オランダ軍艦パレンバン号が来航。開国を要求するも江戸幕府はこれを拒否。
  • 弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将が浦賀に来航。開国を要求するも江戸幕府はこれを拒否

 

その後、後に日本にペリーが来航することとなります。

 

ペリーを簡単にご紹介

画像出典:Wikipedia

日本に来航したペリーとは一体どのような人物だったのでしょうか。簡単に紹介いたします。

1794年4月10日、アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートでマシュー・ペリーは誕生しました。

アメリカ海軍大尉の父を持っていたペリーは1809年、14歳にしてアメリカ海軍に入隊します。その後

  • 1812年、2人の兄とともに米英戦争に参加
  • 1833年、ブルックリン海軍工廠の造船所長に就任
  • 1837年、海軍大佐に昇進
  • 1840年、海軍工廠の司令官に就任
  • 1846年、米墨戦争に参加。この際、後に日本に来航するミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副司令となる

海軍で活躍していたペリーは蒸気船を主力とする海軍教育も熱心に行っていたため「蒸気船海軍の父」とたたえられていました。

1852年11月、ペリーは東インド艦隊司令長官に就任します。数々の国が、日本に開国を要求していた時代、アメリカ合衆国もまた日本に開国を要求していました。

 

アメリカが開国を要求した理由

なぜアメリカは鎖国をしていた日本に開国を要求したのでしょうか。開国を要求した理由は主に2つあります。ここでご紹介いたします。

 

1つ目の理由:東アジア進出のため

当時、アメリカは主に清国をはじめとした東アジアと貿易を行おうと考えていました。当時のアメリカの所有していた蒸気船では十分な燃料を積むことができず、途中、燃料を補給しなければなりませんでした。そのため大西洋を横断し、燃料を補給しながらアフリカの南端を回りようやく東アジアに上陸することができたのです。

しかし、大西洋を横断しアフリカを回ってアジアへ行くよりも、太平洋を横断したほうがずっと早く東アジアに到着できます。そのためには新たな燃料供給地は必要となる。

そこで太平洋横断ルートの中にある日本を燃料供給地として利用するために開国を要求したのでした。

 

2つ目の理由:捕鯨のため

当時、米国は鯨の脂を燃料や灯油に使用していました。そのため、さかんに捕鯨が行われていました。

捕鯨は日本の海の近くで行うことが多かったため、米国は日本を燃料の供給地、食料の供給地にしたいと考え、開国を要求しました。

 

ペリーに与えられた任務

日本の開国を要求するアメリカ合衆国大統領は

大統領
日本に開国に向けた交渉を依頼する大統領の親書を渡してこい。

とペリーに任務を与えます。

もともと、この任務は先代の東インド艦隊司令長官であるジョン・オーリックに与えられていたものでした。しかし、ジョン・オーリックが部下とトラブルを起こしたため解任されることとなり、ペリーがこの任務を引き継いだのでした。

 

浦賀に到着、開国を要求

日本に大統領の親書を手渡す任務を与えられたペリーは1852年11月、フリゲート艦ミシシッピ号を含めた4隻の艦隊でアメリカ合衆国を出発し、1853年7月8日、浦賀に到着しました。

浦賀とは現在の神奈川県横須賀市東部にある地域です。

ペリーが来航するまでにも通商や補給を求めて外国船がたびたび来航していたとされていますが、その船は全て帆船でした。

しかし、ペリー率いるフリゲート艦ミシシッピ号は黒塗りの大きな蒸気船で、日本人にとって初めて目にする蒸気船でした。日本人はこの黒塗りの大きな蒸気船を「黒船」と呼びました。

ペリーは日本側からの攻撃を恐れ大砲を用意し、臨戦態勢をとっていたとされています。

浦賀に来航した一行は7月14日、戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡し日本に開国を要求しました。

しかし、江戸幕府は

江戸幕府
今、将軍(徳川家慶)が病気であるため決定できない。1年の猶予が欲しい。

と返答。これを受けペリーは

ペリー
開国の返答を聞くため1年後にまた日本に来る。

と告げ、7月15日、浦賀を出発しました。

攘夷論の高まり

ペリーが日本から去った10日後の7月22日、体調を崩していた将軍・徳川家慶が亡くなります。次に将軍の候補にあげられたのは、徳川家慶の四男・徳川家定でした。

しかし、当時29歳の徳川家定は病弱で国政を任すことのできるような人物ではありませんでした。

徳川家定画像出典:Wikipedia

当時、日本国内では攘夷論が高まっていました。

攘夷論とは外国との通商を反対したり、開国を要求してくる外国を撃退し、鎖国を続けようという考えのことです。つまり日本の開国を反対していたということです。

攘夷論が高まっていたこともあり、老中の阿部正弘はペリーの開国要求に頭を悩ませていました。そこで、阿部正弘は多くの意見を取り入れようと、8月5日、庶民から大名、旗本、また政治に関わらない者までに意見を聞きました。しかし名案はなかったとされています。

また老中・阿部正弘はアメリカ合衆国と戦闘になった時のことを考え、江戸湾警備の増強を行いました。

約束よりも早く再来航

1854年2月13日、ペリーは約束よりも早く浦賀に来航します。

開国に対する返答は1年後にすると江戸幕府に告げられていましたが、アメリカ合衆国で将軍の死を知ったペリーは混乱の隙をつこうと、半年で日本に来航したのでした。

半年も早くやってきたペリーに江戸幕府は大慌てしましたが、前回のように黒船に対し鉄砲を向けるなど敵対的な行動はとりませんでした。

1854年の黒船来航の様子

画像出典:Wikipedia

日米和親条約の締結

3月8日、横浜応接所において開国の交渉が開始され、約1か月にも及ぶ協議の末、3月3日全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印しました。

日米和親条約英文原文画像出典:Wikipedia

日米和親条約の内容

  • 第一条

日本とアメリカ合衆国の両国、そして両国民の間には人、場所の例外なく、今後永久的に和親が結ばれる。

  • 第二条

下田は即時、箱館は1年後に開港する。この2港では薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。

物の価格は日本の役人が決め、その支払いは金貨または銀貨で行う。

  • 第三条

米国の船が座礁、難破した場合、その船の乗組員は下田または箱館に移送し、身柄を米国に引き渡す。

避難者の持ち物は全て返還され救助と扶養に発生した出費の弁済の必要は無い。(米国で日本船が遭難した場合も)

  • 第四条

米国人遭難者やその他の市民は、他の国と同様に自由で、日本において監禁されることはない。しかし、公正な法律には従う必要がある。

  • 第五条

下田および箱館に一時的に留まる米国人は、長崎におけるオランダ人および中国人とは異なり、行動を制限されることはない。

行動範囲は下田においては7里以内、箱館はまた定める。

  • 第六条

必要な物品や取り決めに関しては、両国間で慎重に決める。

  • 第七条

下田、箱館の両港において金貨・銀貨での購買、および物品同士の交換を行うことが可能。

交換できなかった物は全て持ち帰ることができる。

  • 第八条

物品の調達は日本人の役人が行う。

  • 第九条

米国に対して「片務的最恵国待遇」(アメリカのみに最も有利な待遇)を与える。

  • 第十条

遭難・悪天候を除き、下田、箱館以外の港への来航は禁止。

  • 第十一条

両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18ヶ月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。

  • 第十二条

両国はこの条約を遵守する義務がある。

両国は18ヶ月以内に条約を批准する。

 

「日米和親条約」の影響:後に「不平等条約」と呼ばれる

この日米和親条約は後に不平等条約と呼ばれるようになります。

第九条に記された「片務的最恵国待遇」とは、もし日本が米国以外の国と条約を結び、その条約が米国との条約よりも有利なものであった場合、自動的にその有利な条約が米国にも与えられるといった内容のものです。

しかし、「片務的」と記されていることから、この条約はアメリカにしか適応されません。つまり、アメリカが非常に有利な条約なのです。

この九条が後に「不平等条約」と呼ばれる原因となりました。

参考記事

まとめ:下田、箱館を開港したことによって日本の鎖国が終わる

日米和親条約によって日本は下田と箱館を開港することとなり、結果、200年以上続いた鎖国は終わりを迎えることとなりました。

ペリーの来航によって鎖国を終えた日本はその後、異文化を取り入れながら急激に成長していくこととなります。

ペリーについて簡単にまとめると

まとめ▼
  • アメリカで誕生し「蒸気船海軍の父」と呼ばれた
  • 開国を要求するため鎖国を続ける日本に黒船で来航
  • 日米和親条約を結ぶ
  • 日本の鎖国を終わらせる