本名ながっ!芸術家【ピカソ】は幼少期から天才だった!生涯初となる代表作はコレッ!

「一体何なんだ、この絵は!?」
1937年6月、フランスのパリ万国博覧会会場は、どよめきに包まれました。人々が目にしていたのは、会場内のスペイン館に掲げられた、高さ約3.5メートル、幅約7.8メートルに及ぶ巨大な壁画【ゲルニカ】という作品でした。(上の写真)その大画面には、人々がまるでモザイク模様のように異様な姿で描かれていました。何かを叫ぶように両腕を空へ突き出す人。歯をむき出して鳴いている馬。うつろな表情をした牛。なかには首だけが飛んでいるように見える人もいます。そして目をむいて地面に横たわる人、分解されたような体・・・。

絵画を見た人々
そうか、これはナチス・ドイツが空爆したスペインのゲルニカの町なんだ・・・
絵画を見た人々
なんてひどい光景。この絵には、卑劣な暴力に対する激しい怒りがあふれている!!

言葉で聞くよりも、文章で読むよりも遥かに強く、その絵は見る者たちに戦争のむごさを訴えかけていました。この大作【ゲルニカ】を描いた人物こそ、世界中の人々が認める世紀の大芸術家 パブロ・ピカソ です。

個性的な構図、独特の人物描写、目の覚めるような色遣いの作品の数々……ほかに類を見ないパワーに満ちたピカソの才能は、幼少期の頃から開花していました。そんなピカソが現世に遺した作品は数多くありますが、その中でも、世の中に初めて認知された伝説の作品とは一体どの作品なのでしょうか。
この記事では、ピカソの幼少期のエピソードや、生涯初の代表作が誕生するまでの足跡を辿ってみたいと思います。

ゲルニカ・・・1937年4月、ドイツの爆撃機はスペイン・バスク地方の小都市ゲルニカに無差別爆撃を行いました。この攻撃に激しく怒ったピカソは、怒りと共に人の命を無残に奪う戦争への恐怖を表現した「ゲルニカ」を制作しました。
「ゲルニカ」は黒・白・灰色のみで描かれた大きな作品(縦約3.5メートル、横約7.8メートル)で、パリ万国博覧会のスペイン館に展示され、多くの人に反戦の気持ちを起こさせました。

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ピカソは幼少期から天才だった

覚えられない(汗)ピカソの長~い本名

ピカソが生まれたのは1881年10月25日、スペイン南部にあるマラガという町でした。父親はドン・ホセ・ルイス・ブラスコという絵描きで、母親はマリア・ピカソ・ロペスといいます。二人にとっては初めての子供でした。父と母は、産まれた赤ん坊に非常に長い名前をつけました。一般的にはパブロ・ピカソとして知られていますが、彼の正式な名前は  パブロ、ディエゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ、マリア・デ・ロス・レメディオス、シプリアノ、デ・ラ・サンティッシマ・トリニダッドといいます。長すぎて覚えるのに苦労しそうですね。

スペインでは、子供に先祖や聖人の名をたくさんつけると幸せになれるという言い伝えがあるそうです
けれどさすがにこれでは長すぎるので、普段は彼の名前であるパブロと、父の苗字のルイス、母の苗字のピカソを組み合わせて「パブロ・ルイス・ピカソ」と呼ばれていたそうです。

父のドン・ホセは絵描きの仕事をしておりましたが作品はなかなか売れず、生活は苦しいものでした。ピカソが産まれた事を機にきちんと収入が得られる美術学校の教師の職につきました。ピカソが産まれたあとに「ローラ」と「コンチータ」という娘が産まれ子宝には恵まれましたが、一家の生活はますます苦しくなっていきました。

ピカソの最初の転機~美術学校で実力を上げる

ピカソが10歳になる歳、スペイン北部のラ・コルーニャという町に引っ越すことになります。そこの美術学校が父をより良い給料で雇ってくれることになったためです。父をさらにその気にさせたのは、その美術学校にピカソも通えることでした。この時すでに、父は、絵ばかり描いていた息子(ピカソ)に、才能があることを見抜いていたのです。
この頃からピカソの絵の才能は抜きん出ていましたが、 11歳で父の勤める美術学校に入ると、実力は着実に上がっていきました。 のちにピカソが語ったところによれば、

ピカソ
12歳の頃には、デッサンならラファエロ並みに描けた
といいます。
一方で、他の科目の成績は思わしくありませんでした。中でも算数は大の苦手で、いつも居残りをさせられていました。好きな事はのめり込むけど、嫌いなことには全く無関心。その自由奔放さはこの頃からすでに発揮されていました。

天才ぶり発揮~わずか13歳で父を追い越す?

ある晩こんな出来事がありました。父ドン・ホセは、13歳になっていたピカソに、自分の作品の最期の仕上げを任せて外出しました。夜になって帰宅した父は、完成した絵を見て言葉を失いました。それは、自分が完成させるよりもずっと素晴らしい出来栄えだったからです。これをきっかけに、父は絵筆や絵の具、パレットなど自分の絵画の道具をまとめると、全てをピカソに差し出しこう言いました。

ピカソの父
パブロ。今日からこの道具は全部お前のものだ。
目を丸くするピカソに、父は真剣な目でこう告げました。
ピカソの父
聞きなさい、パブロ。今日おまえに任せた絵は素晴らしいできだった。父さんはとてもおまえの才能にはかなわない。父さんの分まで努力して、最高の画家を目指すんだ
わずか13歳でピカソは父を追い越してしまったのです。事実、父ドン・ホセはこの日以降、二度と絵は描かなかったといわれています。

妹の死~絵を描くことで救われる

「裸足の少女」1985年 油彩・キャンバス

やがて幼い妹コンチータが病気になりました。ジフテリアにかかり、ずっと寝たままの日々が続きます。しばらくの看病の末、家族たちの祈りもむなしくコンチータは亡くなってしまいました。子供用の小さな棺の中に、ピカソは自分で描いた絵を入れ、愛する妹とお別れをしました。

この頃、ピカソが描いた絵に 「裸足の少女」 という作品があります。特徴的なのは、この年代の少女にしては手や足が大きくどっしりと描かれています。のちにピカソが描くようになる重量感のある女性たちと同様に、安定感や生命力に満ちています。この少女にコンチータが投影されているかどうかは分かりません。ただピカソにとって非常に思い入れの深い作品だったことは確かです。というのは、ピカソの作品の多くは美術コレクターたちに売られたり、美術館に送られたりしましたが、この絵は手放すことなく手元に置かれていたからです。もしかしたらピカソは、幼くして死んでしまった妹に、絵の中で強い生命力を与えたくて、大きくてたくましい手足に描いたのはないでしょうか。あるいは大人になることができなかったコンチータに大人の手足を与えたかったのかもしれません。

16歳~世に初めて認知された代表作「科学と慈愛」

「科学と慈愛」1987年 油彩・キャンバス

ピカソが16歳の頃、「科学と慈愛」という病室の絵を描いています。白く塗られた石の壁の部屋で、病んで白い顔をした女性がベッドに横たわっています。その傍らには女性の腕に手を当てて脈をとっている医師がいます。その反対側には腕に子供を抱いた修道女がいます。

修道女・・・キリスト教の教会で神を信仰して暮らす女性
彼女が病気の女性に与えているのは、人が死ぬ前に最後に口に含む「末期の水」。本来、医師は病気から救ってくれる存在で、かたや修道女は死の道へいざなう存在です。しかしなぜか病気の女性は手動女の方を見つめています。その表情はどこか穏やかにも見えます。

この頃世の中では、人々は発達する近代医学に救いを求めていました。けれどピカソの絵では瀕死の女性を前にして、近代医学の医師は脈を取る事しかできず、病人にも正面から向き合っていません。それに対して修道女は、慈愛に満ちた眼差しで死にゆく女性を見守っています。

ピカソ
人間は必ずしも、医学によって長生きするだけが幸せではない。自分の寿命を受け入れて宗教的な安らぎの中で死んでいくのも一つの幸せなのではないか
この一枚には、ピカソのそんな思いがこめられています。

「科学と慈愛」もう一つの隠されたエピソード~初の代表作となった経緯

先述の「科学と慈愛」にはもう一つ隠されたエピソードがあります。医師であるヒゲの男性にはモデルがいて、それはピカソの父・ドン・ホセなのです。父は自身が絵を描くのを諦めて以来、ピカソに主題や技術面の指導をするほか、必要があればモデルも務めていました。
父は娘のコンチータが亡くなってから長いことふさぎこんでいました。

ピカソの父
もしかしたら自分の稼ぎが少ないためにコンチータを十分に医師に見せることができなかったのかもしれない
と責任を感じていたのかもしれません。そんな、毎日ふさぎこんでいる父の事をピカソは心配していました。

ピカソと父は、二人きりのアトリエで向かい合い、こう言いました。

ピカソ
父さん。僕ね、この絵をコンチータにささげようと思うんだ
父は、少し考えこんだ後こう言いました。
・・・・それはいい。きっと、いい絵になる
父が予想したように、「科学と慈愛」は展覧会で賞に選ばれました。ピカソの絵が世に認められた初めての代表作であり、十代のピカソを代表する作品となりました。

まとめ

いかがだったでしょうか。妹の死という、まだ小さかったピカソには受け入れがたい現実と直面し、そして生まれた作品「科学と慈愛」
苦難を乗り越えながらも、常に新しい表現に挑戦し続け20世紀を代表する天才芸術家となりました。その作品の数はなんと15万点といわれ、歴史上もっとも多い作品数となりました。

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