ゲルニカなどの作品や功績を紹介【ピカソ】はさまざまな時代を描き続け、ギネスブックに載っている!

20世紀の美術史に大きな影響を与えた芸術家【パブロ・ピカソ】。彼は単に絵を描くだけでなく、例えば「ゲルニカ」という作品で戦争への恐怖や反戦への強い思いを訴えたりと、その偉大な功績は世界中の美術ファンを魅了し、高い評価を得ています。
ピカソが人生で描いた作品数は驚きの数で、最も多作な芸術家としてギネスブックに載っているほどです。また、ピカソは、作風が年代ごとに様々に変化した芸術がとして有名で、その作風ごとに「青の時代」「キュビスムの時代」など、「〇〇の時代」と呼びます。

この記事では、ピカソが絵を通して残した功績や、代表的な作風とその特徴を紹介したいと思います。

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ピカソの人生~偉大な功績

ピカソの功績を3つに分けて紹介します。

1.ゲルニカ~芸術を通して戦争に対抗した

「ゲルニカ」1937年

1937年4月、ドイツの爆撃機はスペイン・バスク地方の小都市ゲルニカに無差別爆撃を行いました。この攻撃に激しく怒ったピカソは、怒りと共に人の命を無残に奪う戦争への恐怖を表現した「ゲルニカ」を制作しました。何かを叫ぶように両腕を空へ突き出す人。歯をむき出して泣いている馬。うつろな表情をした牛。なかには首だけが飛んでいるように見える人もいます。そして目をむいて地面に横たわる人、分解されたような体・・・。「ゲルニカ」は黒・白・灰色のみで描かれた大きな作品(縦約3.5メートル、横約7.8メートル)で、パリ万国博覧会のスペイン館に展示され、多くの人に反戦の気持ちを起こさせました。「ゲルニカ」は単なる反戦絵画ではなく、人間の悲劇を描いた作品として現在も高く評価されています。長らくアメリカの美術館に預けられていましたが、1981年にスペインに戻され、現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターにあります。
また、晩年には朝鮮戦争をテーマにした衝撃的な作品「朝鮮の虐殺」を制作しました。これも「ゲルニカ」同様、戦争の残酷さを訴えた作品です。

「朝鮮の虐殺」1951年

ゲルニカはなぜ白黒で描かれているのでしょうか?

ゲルニカは白と黒で描かれているのを疑問に思う方もいると思います。普段のピカソは「色彩の画家」と呼ばれるほど鮮やかな色を使うのが特徴的な芸術家です。本来、燃えさかる炎はオレンジ色ですし、人が流す血を真っ赤に描くこともできるはずです。けれど、この絵に鮮やかな色がついていたら、ここまで迫力のある絵にならなかったのではないでしょうか。あえて白と黒(と灰色)のみの世界にし、人や建物の輪郭も極めて単純な線にしたからこそ、より恐怖が伝わってくるのではないでしょうか。
爆撃され、黒こげになったゲルニカの町は、色を失ったモノクロの世界でした。それがピカソの心が見た町の光景だったのだと思います。

 

泣く女

「泣く女」1937年

 

「ゲルニカ」の絵の中に登場する、泣き叫ぶ女だけを、独立して作品として仕上げたのが「泣く女」です。「ゲルニカ」の習作として描かれたため、複数の作品が残されています。ピカソならではの強烈なコントラスト(明暗の差)と、力強くするどい造形で、戦争へと向かう時代の不安と緊張感を表現しています。
「泣く女」のモデルは、当時ピカソの恋人の一人だったドラ・マールだといわれています。

2.歴史上もっとも多くの作品を生み出した

ピカソは91歳で亡くなるまでの間に、およそ1万3500点の油絵とデッサン、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作しています。もっとも多作な芸術家として「ギネスブック」に載っています。
子供の頃から絵の才能を認められていて、9歳の時に描いた、闘牛場で馬に乗る男の絵にも、すでにその才能が感じられます。また、80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、50点にも及ぶ連作などに取り組みました。作品を初期から最晩年まで追うと、色彩・形態・素材・作品のテーマが大きく変化しています。後述しますが、「青の時代」「バラ色の時代」などと時代を区切ることができ、ピカソが常に新しい手法を求め続けていたことが分かります。

3.批判を恐れずに新たな表現に挑戦し続けた

「アビニヨンの娘たち」1907年

アフリカの美術とセザンヌの絵画に共通するスタイルを見つけたピカソは、100枚以上の習作を重ねた末、「アビニヨンの娘たち」を完成させます。現在、この作品は「キュビスム」の始まりの絵として世界的に賞賛されていますが、最初は仲間たちに激しく否定されました。
しかし、ピカソはフランスの画家「ジョルジュ・ブラック」と共にキュビスムの絵を描き続けます。すると、しだいに世間でも評価されるようになり、やがて大ブームになりました。
それまでの絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、キュビスムでは現実の形を分解し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めています。ピカソのキュビスムは、約10年の間に様々に変化しました。

ジョルジュ・ブラック

ジョルジュ・ブラック(1882年5月13日-1963年8月31日)
フランスの画家、彫刻家、版画家。1906年にフォーヴィスムに参加し前衛芸術運動に参加し、その後、ピカソとともにキュビスムの発展に貢献しました。ピカソが移動に要する時間の差から生じる複数の視点に関心があったのに対し、ブラックは静止したオブジェを複数の視点から見つめることに関心がありました。1908年から1912年までのブラックは、ピカソと密接に共同制作していたこともあり、両者の作品の区別が付かないものも多数あります。

ガードルード・スタインの肖像

「ガートルード・スタインの肖像」1906年

パリのルーブル美術館にて、目・鼻・口が単純化され、極端に簡略化されたスペイン・イベリア半島の古代彫刻を見たピカソは感銘を受けました。そして、顔のつくりを非常に単純に描いた「ガートルード・スタインの肖像」を制作しました。女性の顔をまるで仮面のように描いています。
「絵画は現実の通りに描かなければいけない」というルールに縛られず、建物を組み立てるようにモデルの姿を組み立てて描く手法を用いたのです。

ピカソが描き続けた様々な時代

ピカソは、作風が年代ごとに様々に変化した芸術家として有名で、その作風ごとに「青の時代」や「キュビスムの時代」など、「〇〇の時代」と呼ばれています。代表的な作風とその特徴を紹介します。

青の時代 20歳~23歳頃

「二十歳の自画像」1901年

スペインに居た頃からの画家仲間で、ピカソの大親友だったカサヘマスが、1901年に失恋を苦に自殺をしてしまいました。その後3年間、ピカソは深い悲しみを表すような、寒々とした青を基調にした絵を描き続けました。しかも、家を失った人や貧しい人など社会的な弱者をモデルとしており、この頃描かれた自画像も、病人のように青白い顔をしています。今の言葉でいうと「病んでいた」といえるのでしょうか。
代表的な作品として「二十歳の自画像」などが挙げられます。

バラ色の時代 24歳~26歳の頃

「パイプを持つ少年」1905年

フェルナンドという恋人ができた事で、ピカソの生活は精神的に安定し一転して明るくなり、作品にもバラ色・おうど色・オレンジ色など華やかな色が使われるようになりました。この頃の時代は「サーカスの時代」とも呼ばれており、モデルはサーカス芸人が多く、特に旅芸人(サルタンバンク)を好んで描いていました。この時代の代表的な作品として「パイプを持つ少年」「サルタンバンクの家族」などが挙げられます。

キュビスムの時代 26歳~38歳の頃

 

 「素人闘牛士」1912年

  「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」1913年

20世紀初頭にピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向があった時代です。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収め、ルネサンス以来の一点透視図法を否定しました。1910年代のピカソとジョルジュ・ブラックの作品は、見分けがつかない程よく似ていました。二人は、パリにアトリエを構える多くの芸術家と交流したため、様々な新しい美術の活動に影響を与えました。また、20代後半になったピカソは、画廊へ作品が売れるようになり、安定した生活が送れるようになっていました。

新古典主義の時代 39歳~44歳の頃

「オルガの肖像」1917年

 「海辺を走る二人の女」1922年

ギリシャやローマ時代などの美術にふれたピカソは、古典絵画を連想させる写実的な表現を用いるようになります。この時期の人物像は、無表情・手足が体に対して大きい・ギリシャ彫刻のような額から続いた鼻が描かれている・などの特徴があります。

彫刻・陶芸 66歳~73歳の頃

引用:http://www.nmao.go.jp/

ピカソは絵画の他に、数百点の彫刻や陶芸も制作しています。1940年代後半、陶芸の町バロリス(南フランス)を訪れたピカソは、土・水・火という自然が作り出す陶芸の魅力に夢中になりました。この時、のびのびとしてユーモアに溢れる陶芸作品を多数生み出しました。

晩年の作品 74歳頃から

「接吻」

晩年のピカソの作品には、昔のテーマが描き直されている、多くの時代の特徴を合わせ持っています。色・形など全てが自由奔放、男女の愛情をテーマにする。といった特徴がみられます。晩年も芸術への意欲は衰えず、亡くなる前日もデッサンを続けていたそうです。

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