遣唐使【最澄】と【空海】の関係や違いとは?伝説やエピソードも解説

日本の仏教に大きな影響を与えた最澄と空海、2人について解説します。最澄と空海は、平安時代の同じ時期に現れ、同じ時期に遣唐使として唐に渡り、日本で天台宗と真言宗を開きました。その後の日本の歴史に大きく関わる寺院、比叡山延暦寺高野山金剛峯寺を創ったことでも知られています。同じ時代を生きた最澄と空海の関係と違いを、エピソードと伝説を交えて解説します。

唐に渡るまでの2人のエピソード

最澄と伝えられる肖像画

出典画像:Wikipedia

最澄が生まれたのは766年、または767年、空海は774年に生まれたと言われています。2人が遣唐使として唐に渡ったのは804年。ここまでの人生に大きな違いがあります。当時の仏教は、学問としての性質が強く、僧になるということは学問の道に進むと言うことでした。

最澄は12歳で仏門に入り、僧になってから学問の道に入ります。 一方で空海は、大学寮(国の官僚を養成する機関)で学問を始め、そこで学ぶことに飽き足らずに19歳で仏門に入ったと言われています。唐に渡ったときには最澄は36か37歳、空海は30歳。年齢以上に立場の違いがありました。

最澄はすでに仏教界で地位を築き、天皇との関係も構築していました。一方で空海は、中国語能力は高いとされていたものの、それほどの地位・評価を得ていたわけではありませんでした。つまり、

最澄は国の期待を背負った将来の幹部候補として留学、空海はその他大勢の留学生の1人として留学したのです。
立場の違う2人は同時に唐に渡りますが、最澄が2年程度の短期留学、空海が20年の長期留学を朝廷から命じられていたと言われています。

唐から帰国した2人

当時、遣唐使で唐に派遣され、帰国した人材は朝廷に重んじられました。帰国した最澄と空海もその後大きな仕事を成し遂げます。

最澄、天台宗を開く

唐に渡った1年後 、最澄は滞在中に書き写した大量の経典と共に帰国します。最澄はすぐ、桓武天皇から密教儀式の一つである、灌頂を行うように命じられます。そして翌年、天台宗を開くことが認められます。これは当時の宗派であった南都六宗(奈良時代から栄えている6つの宗派)に準じる宗派とされ、異例のことでした。

天台宗と言えば比叡山延暦寺ですが、実はこの延暦寺のもととなる寺院は、最澄が唐に渡る前、788年に一乗止観院として比叡山に作られています。延暦寺として寺を名乗ることが許されるのは、最澄の死後、823年のことです。

空海の帰国

一方、20年間の留学予定であった空海は、長安(現在の西安市)の西明寺、青龍寺で修行をしましたが、青龍寺の恵果は空海が十分に学問を修め、修行を積んでいることから、すぐに密教の奥義を伝授します。

この恵果の決定には唐の僧から異論も出たと言われていますが、恵果は唐の皇帝から3代に渡って師と仰がれている人物であり、奥義伝授はそのまま行われました。唐に渡るまで、空海は脚光を浴びることはなくとも、こつこつと学問を修め修行に励んできましたが、それがここで報われたことになります。

そして朝廷の許可を得て、留学を切り上げて帰国します。朝廷は許可はしましたが、あまりの早い帰国のため、809年まで平安京への立ち入り許可をしませんでした。その後、高野山金剛峯寺を開き、真言宗を宗派として確立し、823年に朝廷から宗派として認められます。

最澄と空海

空海の肖像画

出典画像:Wikipedia

日本に帰国した2人はそれぞれに活躍を始めますが、この頃すでに交流があったと思われています。空海の平安京入京許可が許された背景には、最澄の口添えがあったと言われています。そして2人の交流が本格的に始まると、奈良時代から栄えている南都六宗を凌駕する勢いで、天台、真言宗は教義を深め、宗派として地盤を強固なものにしていきます。

最澄、空海の弟子になる

資料によると、806年あたりから最澄は空海に経典を借りるようになります。印刷技術がほとんどなかった当時、そういったものは非常に貴重であり、持っている人に借りて書き写すというやり方が主流でした。そして812年に最澄は自分の弟子数人と共に、空海に弟子入りします。そのうち数人の弟子はそのまま空海のもとに置き、修行をさせます。空海は唐で密教の奥義を伝授、つまり、伝授のための「修行」をしています。唐で空海は、「修行」と「学問」をしているわけです。


一方で最澄は、日本仏教界のエース格として唐に渡ったので、そこで新たな修行をするよりも、学問を行い、その結果を日本に持ち帰ることが主な任務でした。
そのため、最澄が「正式な修行をして奥義を伝授されている空海」に弟子入りするのはそれほど不思議なことではありません。

最澄と空海の訣別

813年、最澄は空海に「理趣釈教」の借用を申し出ますが、空海はこれを拒否します。密教の本質は経典を研究するだけでなく、修行が必要であると空海が考えていたのがその理由とされています。この事と、先に最澄が空海のもとに置いた弟子の1人が最澄のもとに帰らなかったというエピソードも最澄と空海の訣別の原因とされています。
しかし最近になって、それが主な理由ではないのでは?と言われ始めています。なにはともあれ、816年頃には最澄と空海の2人は訣別しました。

訣別が生んだ日本仏教の発展

空海と訣別した最澄は、天台宗に密教の本質的な要素を入れることを諦めます。しかしこれが、考え方の多様性を生むこととなり、鎌倉仏教の繁栄につながったという考えがあります。空海は弘法大師ともよばれ、空海自身が信仰の対象となりました。
最澄はその後も仏教の研究を続け、仏教理論で南都六宗の僧と論戦をしながら独自の理論を作りあげます。

その結果、最澄がいる比叡山は仏教の総合大学のような形になります。鎌倉時代になると、鎌倉仏教と言われる6つの宗派が栄えますが、この6つそれぞれの宗派の祖となった6人のうち、法然、親鸞、日蓮、栄西、道元の5人は、いずれも延暦寺で学んだ、あるいは修行経験があります。

まとめ

同じ時代に最澄と空海という2人がいたことは、奇跡と言えるかもしれません。どちらが欠けても、日本の仏教も違ったものになっていたでしょう。その後の歴史で、最澄の作り上げた仏教理論は多くの宗派を生み、日本の仏教文化の多様性に大きな影響を与えています。

また空海は弘法大師として民間に深く浸透し、仏教が日本に定着するために大きな役割を果たしました。2人が本拠とした、比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺はその後の歴史で大きな役割を果たしています。延暦寺、金剛峯寺共に織田信長と敵対したことはよく知られている事実です。

以上、日本の仏教を大きな足跡を残した最澄と空海について解説しました。

 

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