【千利休】と秀吉の逸話!なぜ千利休は切腹を命じられたのか!?

千利休と言えば、わび茶を完成させ、茶道に大きな足跡を残した文化人です。その一方で、織田信長、豊臣秀吉に仕え、秀吉時代は政治でも発言力がありました。

しかし、突然秀吉の怒りを買い、切腹を命じられます。この理由については現在でも諸説あり、はっきりした理由は明らかになっていません。この記事では、千利休の生涯、逸話、秀吉との関係がなぜ壊れたのかに付いて解説します。

千利休の肖像画

出典:Wikipedia 

関連記事

千利休の生い立ち

千利休は堺の会合衆、または納屋衆と言われる家に生まれます。つまり商人の出身です。幼名は田中与四郎といいました。

堺というと、商人達が力を持っていた自治都市というイメージが強いのですが、千利休が幼い頃は、応仁の乱の影響が残っており、商人は苦しい商売を強いられていました。

しかし当時の商人は、文化人としての側面もあったので、千利休は17歳で茶道を始めます。師匠は諸説あり、明らかになっていません。残っている記録では、1544年、利休が22歳の時に初めて主催した茶会が開かれています。その後、堺を支配した三好氏とつながり、財を蓄えます。

1569年、堺は織田信長の直接支配を受けるようになります。この時、利休は信長に召し抱えられ、政治に近づいていきます。信長政権では茶道だけでなく、商人として信長と関わりました。武器調達などに活躍したとされています。

千利休という名前を名乗ったのは、1585年、60歳を過ぎてからでした。幼名は田中与四郎、そして20歳前後に宗易と名乗っています。正親町天皇との茶会において、町人の身分では天皇と面会できないため、「利休」という居士号(出家せずに修行をする仏教の信者を表す)を正親町天皇から与えられました。

豊臣秀吉との接近

信長が本能寺の変で倒れ、山﨑の戦いを経て政治の主導権を握ると、利休は秀吉に接近します。

秀吉は信長以上に茶の湯を重視しました。それには政治にとって重要な理由があったのです。

茶室は密談の場所

茶室、という言葉が定着したのは近世以降ですが、一般的に現在において茶室と言われている建築物は室町時代から存在しています。草庵形式の茶室で最古のものは、15世紀後半に足利義政によって作られた同仁斎ではないかと言われています。

狭い部屋に入れる人数は限られます。そして草庵形式であると、小さな建物周辺に警備の武士を配置すれば、政治的な密談にはもってこいの場所になります。

秀吉は相手を茶室に招き入れ、当時絶大な知名度を誇った茶人、千利休の茶でもてなし、政治的な密談を行ったと想像されます。

発言力を増す千利休

そのような政治的密談の場に立ち会っていた千利休は、徐々に豊臣政権内で政治的な発言力を持ち始めます。秀吉の弟であり、政治的手腕に長けていた秀長との関係も良好で、豊臣政権は、秀吉を頂点として弟秀長と千利休が支えるという形になっていきます。

「表向きは秀長に、内々の事は千利休に」とされており、秀吉からの信頼も厚かったと思われます。

しかし、秀長が1591年2月に亡くなり、政権バランスが崩れます。

突然の蟄居、そして切腹

秀長がなくなった直後、千利休は秀吉から突然蟄居を命じられます。そして切腹を命じられます。この理由は、「大徳寺三門に自分の像を設置し、その下を秀吉が通った事に秀吉自身が怒った」という説があります。

しかし実際は、様々な説があって本当の理由は確定していません。

秀吉と千利休の対立ポイント

豊臣政権を支えていた、秀吉、秀長、千利休ですが、秀吉と千利休にはいくつかの対立する事柄があります。

よく知られているのが、派手好みの秀吉と、素朴な雰囲気を好む千利休の茶の湯に対する思想の違いです。秀吉は当時、千利休の好む雰囲気はそれほど好きではなかったようです。

そして、秀吉の堺に対する政策が挙げられます。堺は千利休の本拠地であり、自治都市としての性質を持っていたのですが、秀吉は堺に重税をかけます。そして堺を守っていた堀などを埋め立ててしまい、武力的な抵抗もできないようにしてしまいます。

最後に、千利休の弟子であった山上宗二の処刑です。これは、北条攻めの際に、山上宗二の言葉に怒った秀吉が宗二の処刑を命じたという出来事です。ただし、ただの処刑ではなく、鼻と耳を削がれて処刑されるというものでした。これらに対して千利休が快く思うはずがありません。北野茶会の後から、徐々に2人の関係は悪化していったのではないでしょうか。

 利休切腹は秀吉主導か、三成主導か

秀吉の懐刀である石田三成は、千利休切腹のような事件では、必ず黒幕説が出てきます。

ただ考慮しておかなければならないのは、三成はその後徳川家康に敵対した、という事実です。

徳川家康に敵対した三成に対しては、江戸時代に入って、歴史書などで黒幕として何か企んだ、という印象操作が行われた事は否めません。しかし全く関係ない、ということもないと考えられています。千利休の失脚には三成も多少は関わっていたと思われます。

石田三成と千利休の関係

豊臣政権を現代の政治になぞらえると、秀長、千利休は大臣などの政治家、または政権に発言力のある有識者、といった所でしょう。一方で、石田三成らの奉行などは、官僚にあたります。

そうなりますと、政治的な対立軸は当然あると考えなければなりません。実際、千利休の本拠地、堺の奉行として税を増やしたりする政策の事務処理は石田三成が行っています。この点から、三成と千利休に対立があったのではないかと想像できますが、記録には三成と利休の関係が悪かったという事実はほとんど見当たりません。

三成と利休の関係、というよりも、秀吉と利休の関係が招いた切腹であり、その過程で三成が何らかの役割をしていたとしても、それは単に秀吉の意をくんで三成が動いただけなのかも知れません。

関連記事

諸説ある切腹の理由

今後、何か新しい資料が出てこない限りは、千利休切腹の理由は明らかにならないと考えられます。

現在言われている理由の代表的なものをいくつか挙げましょう。

茶器高額転売

茶碗など、茶道に用いる道具は、利休のお墨付きがあると高値で取引されたと言われています。利休は元々商人ですし、商売として茶道具の売買を行っていたとしてもおかしくありません。

また、茶碗の鑑定で少しでもいい評価を得ようと、その茶碗の持ち主が利休に賄賂を渡す事も考えられます。しかし、利休が使った道具はそれまでの道具と比べると高価ではないという事実もあります。

千利休作成と伝わる竹花入「音曲」

利休の娘

千利休には数人の娘がいました。そのうちの1人(次女という説あり)を秀吉の側室にという話がありました。

しかし利休はそれを断ったために秀吉の怒りを買った、という説があります。

この説は、利休の秘伝書と伝えられる南方録に記載があります。しかし現在、南方録は元禄時代に書かれたものであり、秘伝の書としては偽書と考えられています。

秀吉の朝鮮出兵を批判

利休が秀吉の朝鮮出兵を批判したという記録は、遡るとどうやら野上弥生子が書いた小説、「秀吉と利休」のようです。つまり、野上弥生子が小説、つまりフィクションとして書いたものが独り歩きしていた可能性が高いのです。

利休が秀吉の朝鮮出兵を批判したという記録は歴史書などには見当たりません。

まとめ

千利休が蟄居、切腹を命じられた時期は豊臣政権の実力者、秀長の死の直後です。このことから、秀長死後の政治闘争説がしっくりくる理由ではあります。しかし、別の理由で秀吉は利休の排除を考えていた可能性もあります。

秀長は利休を信頼しており、兄秀吉の意向とはいえ、

豊臣秀長
利休は豊臣政権の柱です。太閤が気に入らないからといって排除していいものでしょうか?排除すれば政権基盤が弱体化します。

と、利休の処罰には反対しただろうと予想されます。

そして別の理由として、

豊臣秀吉
千利休は役に立つ男だが、私にも遠慮なく物を言いすぎる。ここは上下関係をはっきりさせておこう。

と秀吉が考え、蟄居を命じました。秀吉は、すぐに利休が謝罪の態度を示してくると考えましたが、利休はそれを行いません。

さらに切腹を命ずれば利休は命乞いをするであろうと考えて、切腹を命じましたが、駆け回るのは弟子達のみで、本人は申し開きも謝罪もしなかったために、そのまま切腹させざるを得なかった、という可能性も、もしかしたらあるのではないでしょうか。

とはいえ、どれも想像の域を出ませんし、もっともらしい説も状況証拠しかありません。新しい資料が出てこない限りは、千利休の切腹は、ずっと謎に包まれているでしょう。

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ten − five =