【白河天皇(白河上皇)】が創った「院政」とは?後白河天皇とは同一人物?

白河天皇は1072年(延久4年)に天皇に即位し、院政 を始め、すぐに上皇となって政治の実権を握ります。そして、法勝寺の建立から始まり、その後6代目の天皇が朝廷の御願寺として、六勝寺を建てます。

白河天皇が、なぜ院政を始めたのか、そのきっかけや時代背景と、
白河天皇から近衛天皇まで続いて建てた勝が名前にある六勝寺について紹介していきます。そして、名前が似ている、後白河天皇とは同一人物なのかどうかも伝えていきます。

白河天皇とは

白河天皇のプロフィール

白河天皇の画像

出典画像:Wikipedia

白河天皇は後三条天皇の第一皇子として誕生しました。1072年に、20歳という若さで第72代目の天皇となります。1086年に、自分の子供を堀河天皇と譲位し、 白河天皇は院政をすることにより、白河上皇となって、政治の実権を握ります。

白河上皇は仏教を厚く信仰しています。後に僧侶となり、白河上皇から白河法皇と呼ばれます。
そして、白河天皇がはじめに法勝寺を建ててから、多くの寺や仏像を建てます。しかし、仏像や寺院を建てるには多大な費用がかかりるので財政難になってしまいます。
また仏教を保護しすぎていたので、寺院の力が強くなり、政治にまで口出しするようになってしまいます。このように財政難な上、寺院の勢力が強まる、白河上皇の政治は崇徳天皇まで約40年間続きます。

白河天皇と後白河天皇 同一人物?別人?

後白河天皇画像

出典画像:Wikipedia

白河天皇と第77代目の後白河天皇は、名前が似ていますが、別人です後白河天皇は白河天皇の曾孫にあたります。なぜ、とても似ている名前なのかというと、”後”がつく天皇は、”後”が付かない天皇に憧れ、そのような人物になりたいという願いで”後”を付けて、自分の名前を名乗ったそうです。 後白河天皇は、白河天皇にあこがれていた という事になります。

そして、白河天皇と後白河天皇は、二人共天皇から上皇になり、そして法皇になっています。同じような経歴ですので、間違えやすいです。

院政とは

まず、院政とはどのような政治かというと、

皇位を継承したとしても、前の天皇(上皇)が政治の実権を握っていて、天皇の代わりに政治を行う事です。

そして、院を強くする為に武士を使うようになります。

天皇の位を退いた前の天皇を上皇と呼びます。
当時、上皇の事を「院」と呼ばれていた為、”院政”と名付けられました。

なぜ院政は始まったのか 時代背景と理由・きっかけ

皇位継承問題

白河天皇が院政を行った時、皇位継承問題を抱えていました。父である、前天皇の後三条天皇は直径の皇子が生まれなかったので血統が近い人物が天皇になっていました男子が必ず生まれるわけではないので血が途切れてしまう可能性もあり、また兄弟間でも継承争いが起こる心配もありました。

院政にすると、上皇が天皇を指名していくので血が途切れたり、継承争いを減らすことが出来るというメリットがあります。

摂関家である藤原氏の政治勢力が弱まる

今まで、貴族や寺院は荘園で多くの土地を私有し、不輸不入の権 により徴税も出来ず、貴族や寺院に多くの財が流れ込むので貴族や寺院の力が強くなっていました。特に藤原氏は多くの荘園を持ち、朝廷の官僚で、政治勢力も大きく関わっていました

後三条天皇が延久の荘園整理令を実施

延久の荘園整理令 は今まで調査を行っていた国司と摂関家を使わず、記録荘園券喫所 という機関を設置し、その部署が荘園の調査にすることになりました。記録所は不法な荘園や、書類などの不備のある荘園を次々摘発し、土地を没収していきます。藤原氏の違法な荘園も没収したので勢力が弱まって行きました。

後三条天皇が、藤原の直径でない天皇だったので、藤原氏の勢いを無くす政策がとられたと言われています。

出家して白河法皇になる

法勝寺(六勝寺)を建てる

法勝寺の模型

出典画像:Wikipedia

白河上皇は1096年に出家し、 白河上皇から白河法皇 になりました。白河法皇は、仏教をとても深く信仰していたので、多くの寺や仏像を建立していきます。その中でも白河法皇が建てた有名な寺が現在の京都市左京区に建てられた 法勝寺 です。

法勝寺というのは 御願寺として、建てられました。
法勝寺には、金剛・経蔵・講堂鐘蔵・薬師堂・常行堂・阿弥陀堂などの大伽藍があり、とても大きな寺院です。

法勝寺は六勝寺の最初の寺

六勝寺とは白河法皇を含め、6人の天皇が【勝】という漢字が含む御願寺を建てています。それを 六勝寺 と呼びます。

建てた寺の名前と天皇は以下の通りです。

  1. 法勝寺 → 白河法皇
  2. 尊勝寺 → 堀河天皇
  3. 最勝寺 → 鳥羽天皇
  4. 円勝寺 → 崇徳天皇
  5. 成勝寺 → 近衛天皇
  6. 延勝寺 → 鳥羽中宮待賢門院藤原璋子

その後、全ての寺は中世、応仁の乱で焼かれてしまい廃絶になりました。

白河法皇のその後の政治

白河法皇は仏教の信仰が深く、沢山の寺院や仏像を建てますが、建立には多大な費用と労力がかかり、財政難になっています。また仏教を過保護にしたので、寺院の政治力が強くなり、口出しするようになり、世の中がまとまらず、天皇の力が弱まります。ですが、白河法皇は、そのまま院政をし続けて、堀河天皇・鳥羽天皇・崇徳天皇の約40年もの間、政治を行っていました。

まとめ

いかがでしたか?院政のメリットは、後継者を天皇が決める事が出来ます。そして、幼い年齢でも天皇に就かせることが出来るので継承争いなども防げます。白河天皇が院政を始められたのは、後継者になる男子が産まれず、藤原の血統が疎遠になったこと。

そして、前天皇の後三条天皇の荘園整理令により、藤原を始めとする高貴族・寺院の衰退したからです。
院政を出来たおかげで、後継者問題も起こらず、白河天皇は約40年も政治を行う事ができました。

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