飛鳥寺の創建者【蘇我馬子】聖徳太子とはライバル?それとも仲間?崇峻天皇暗殺の真相

飛鳥時代に活躍した蘇我馬子という歴史人物をご存知でしょうか。日本史の授業で、聖徳太子とともに推古天皇の政治補佐を行った、あるいは飛鳥寺の創建者と習った方が多いかと思います。「馬子」という名前ですので、性別は女性かと思われる方もいるかと思いますが、性別は男性です。また蘇我馬子という名前は少し変わった名前ですが、実はこの名前は本名ではありません。

飛鳥時代において中国から伝来した仏教の普及活動に力を注いだ蘇我馬子は、実は崇峻天皇の暗殺を企てた人物でもありました。そんな蘇我馬子の生涯や本名・性別、また聖徳太子とは一体どのような関係であったのかをご紹介したいと思います。

 

本名と性別

蘇我馬子という名前は本名ではありません。後世の者によってつけられた名前です。しかし、本名は分かっていません。「馬子」という名前からして、女性だと思われる方がいるかと思いますが、名前が付けられた当時、男性にも「子」の漢字を使用するのは当たり前でした。
蘇我馬子の他にも男性でありながら「子」のつく漢字が使用されている人物として小野妹子、中臣鎌子(後の中臣鎌足)がいます。

小野妹子は飛鳥時代に活躍した官人で、大唐に派遣された人物です。中臣鎌子(後の中臣鎌足)は飛鳥時代に活躍した豪族で大化の改新を行った中心人物です。

 

蘇我馬子の誕生

蘇我馬子がいつ誕生したかは明確には分かっていませんが、「馬子」という名前から午年生まれであり、また歴代の朝廷の高官の名が記録されている『公卿補任』に、「在官五十五年」と記されていることから、蘇我馬子は、550年の庚午年前後に誕生したと考えられています。

蘇我馬子の父は蘇我稲目(506年~570年)とされ、母は分かっていません。姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)、妹に蘇我小姉君(欽明天皇妃)がいたとされています。

 

『日本書紀』『古事記』による経歴

大臣に就任

蘇我馬子の幼いころの記録などは残されていませんが、『日本書紀』『古事記』によると、敏達天皇元年(572年)敏達天皇(第30代天皇)が即位したのと同時に、大臣に就任したとされています。

『日本書紀』とは、720年に編纂された神代から持統天皇の時代までの出来事がまとめられた日本の歴史書で、日本に現存する最も最古の正史とされています。

主に日本の国家成立の歴史、また日本の歴史の正当性が示されています。一方『古事記』とは712年に編纂されたもので天武天皇の命令によって作られた歴史書です。いわば天皇家による私的な歴史書となっています。主に天皇家の歴史、また天皇家の歴史の正当性がまとめられています。

 

仏法を広める

大臣となった蘇我馬子は、播磨国にいた高句麗人の恵便と呼ばれる還俗者を師匠とし、仏教を学んだとされています。

還俗者とは1度出家したものの、俗人に戻った人物のこと。

仏教を学んだ蘇我馬子は石川の宅に仏殿を作ると、仏法広め始めました。

 

疫病にかかる

敏達天皇14年2月(585年)、蘇我馬子は病気を患います。一向に体調は回復に向かわなかったため、占い師に占わせたところ、蘇我馬子の病気の原因は父・蘇我稲目の代の頃、仏像が破棄された祟りである。と述べました。実は蘇我馬子が患っていた病気は、当時流行っていた病であり、多くの民がこの流行り病によって命を落とすこととなりました。

そのため仏教を厚く信仰していた蘇我馬子は仏教の力で疫病を収めようと考え、敏達天皇から仏法を祀る許可を得ます。こうして仏法を広めることによって疫病は収まると期待されましたが、収まる様子はなくますます、死者を出すばかりでした。同年3月、物部守屋と中臣勝海が疫病が流行したのは「蕃神を信奉したためだ」として、仏法の停止を敏達天皇にも申し出ます。

物部守屋

物部守屋出典画像:wikipedia

 

物部守屋と中臣勝海が主張した蕃神とは、異国の神のことをさしています。つまり、この場合の蕃神とは中国から伝来した仏教のことを指します。実は、仏教が中国から伝来したのは敏達天皇元年(572年)頃のことでした。それまで日本では神道が信仰されており、中国から伝来された仏教は異国の神であったのです。

蘇我氏はこれまで日本で信仰されてきた神道よりも、中国から伝来した最新の宗教である仏教を積極的に日本に取り入れようと考えていました。しかし物部氏・中臣氏は蘇我氏の考えとは違い、中国から伝来してきた仏教ではなく神道を大切にしよう。といった考えを持っていたのです。このような宗教観の違いから蘇我氏と物部氏は対立するようになっていました。

蘇我氏
中国からきた新しい仏教を取り入れたい
物部氏
もともと日本で信仰されている神道を大事にしたい

こうして物部氏は敏達天皇に仏法の停止を求め、疫病を抑えようとしましたが、結局疫病は収まることはなく、敏達天皇も物部守屋も疫病にかかってしまうのでした。
同年8月、敏達天皇が崩御します。これによって次期天皇となったのは蘇我馬子の姉・堅塩媛と欽明天皇の間に誕生した用明天皇でした。しかし用明天皇が即位した2年後の用明天皇2年4月(587年)用明天皇は病にかかります。そのため用明天皇は病を収めるために仏法を信仰することとなりました。しかし、程なくして用明天皇は崩御します。

 

崇峻天皇の即位

用明天皇崩御後、次期天皇の候補として挙げられたのは蘇我稲目の女・小姉君から誕生した

  • 崇峻天皇(弟)
  • 穴穂部皇子(兄)

でした。この2人は次期天皇の座を巡って争うこととなりますが、この後継者問題にも蘇我氏と物部氏は介入し

  • 崇峻天皇(弟)に蘇我氏
  • 穴穂部皇子(兄)に物部氏

が味方する形となりました。結果的に蘇我馬子は穴穂部皇子(兄)を殺害したため、崇峻天皇が第32代天皇となります。また蘇我馬子は穴穂部皇子(兄)のみならず、物部守屋・物部氏も滅ぼしたため、これによって蘇我氏に対抗する勢力はなくなりました。
こうして崇峻天皇が即位し、蘇我馬子が大臣として天皇の補佐をすることとなりましたが、政治主導権を握っていたのは蘇我馬子であったため、崇峻天皇は蘇我馬子に対し不満を抱くようになります。

 

崇峻天皇を暗殺する

蘇我馬子は崇峻天皇が自身に不満を抱いていることに気づきます。そこでなんと蘇我馬子は崇峻天皇の殺害を決意し、崇峻天皇5年11月(592年)蘇我馬子は自身の家臣・東漢駒に崇峻天皇の暗殺を命じます。蘇我馬子は、自身に不満を抱く崇峻天皇に命を狙われていると感じたのでしょう、殺される前に崇峻天皇を殺害してしまおうと考えたのです。こうして崇峻天皇は部下の東漢駒に暗殺され亡くなりました。

その後、蘇我馬子は次期天皇として、崇峻天皇の姉で、また敏達天皇の后でもある炊屋姫を即位させ、日本初となる女性天皇・推古天皇が誕生します。

推古天皇

推古天皇の画像出典画像:wikipedia

 

聖徳太子による摂関

第33代天皇となった推古天皇は、甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を自身の補佐役として皇太子にたてると、推古天皇に代わり厩戸皇子(聖徳太子)が政務を行うようになりました。

摂関を行うようになった聖徳太子は蘇我馬子と協力し

  • 仏教の普及
  • 冠位十二階の制定
  • 十七条憲法の制定
  • 遣隋使の派遣

などを行います。

聖徳太子

聖徳太子の肖像画出典画像:wikipedia

 

飛鳥寺の建立

推古天皇4年(596年)になると蘇我馬子は現在の奈良県高市郡明日香村に飛鳥寺を建立しました。この飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として建立されたもので、当時は「法興寺」と呼ばれていたとされています。

飛鳥寺本堂

出典画像:Wikipedia

 

蘇我馬子と聖徳太子は良き仲間でありライバル

その後、推古天皇28年(620年)蘇我馬子と聖徳太子は

  • 「天皇記」
  • 「国記」
  • 「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」

を記しました。蘇我馬子と聖徳太子は協力し合い、政務を行っていましたが、実は蘇我馬子は天皇の権力の強化を図る聖徳太子に警戒していたとされています。そんな聖徳太子が推古天皇30年(622年)亡くなります。

聖徳太子亡き後、蘇我馬子は新羅に数万の軍を派遣するなどの政務を行っていましたが、聖徳太子が亡くなってから4年後の推古天皇34年(626年)、蘇我馬子は75歳で亡くなりました。

 

まとめ

いかがでしたか?蘇我馬子は、物部氏を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺した人物でした。天皇を暗殺するなどあまりいいイメージのない蘇我馬子ですが、
4代の天皇に仕え(敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇)また中国から伝来した仏教の普及、飛鳥寺の建立、そして聖徳太子とともに冠位十二階の制定、十七条憲法の制定などを行うなど、蘇我氏の全盛期を築いたといっても過言ではない人物であったことが分かります。

しかし、蘇我馬子には後に活躍を果たす息子・蘇我蝦夷また孫である蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂といった子孫がおり、蘇我氏は蘇我馬子亡き後も活躍を見せるのでした。

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