【蘇我入鹿】の死因は暗殺?聖徳太子と同一人物説も探ってみました

蘇我入鹿は飛鳥時代に活躍した大臣です。小学校や中学校の歴史の授業で習った方が多いかもしれません。蘇我馬子の孫であり、蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿は大臣に就任すると、政治主導権を握りました。しかし、反蘇我派である中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足に暗殺され、生涯を閉じたとされています。

蘇我入鹿の活躍した時代は蘇我氏にとって全盛期とされていますが、蘇我入鹿、その父・蘇我蝦夷が亡くなってからは勢力を弱めていくこととなりました。蘇我氏全盛期で活躍した蘇我入鹿は実は聖徳太子と同一人物であったのではという同一人物説が存在します。今回はそんな蘇我入鹿の生涯や暗殺された理由、墓の場所や聖徳太子同一人物説についてご紹介いたします。

蘇我入鹿の生い立ち

蘇我入鹿がいつ、どこで誕生したのか明確にはわかっていません。しかし奈良時代に成立した日本の歴史書である『日本書紀』などに、父・蘇我蝦夷が用明天皇元年(586年)頃に誕生したと記されているため、蘇我入鹿は推古天皇8年から18年(600年から610年)頃に誕生したと考えられています。

父・蘇我蝦夷は蘇我馬子、物部尾輿娘・太媛(物部守屋妹)の次男とされています。

蘇我入鹿が誕生したのは日本の飛鳥時代にあたります。蘇我入鹿は青年期、僧・旻から学問を習っていたとされ、秀才でした。蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷は推古天皇末年頃から大臣に就任したとされています。大臣として権勢をふるった父・蘇我蝦夷でしたが、推古天皇が崩御した頃から息子である蘇我入鹿がすでに実権を掌握、国政を握っていました。

推古天皇亡き後、即位した舒明天皇の代も国政を握っていたとされる蘇我入鹿は、舒明天皇の崩御後、皇極天皇が即位した皇極天皇元年1月15日の翌年、父・蘇我蝦夷から大臣の座が譲られ、蘇我入鹿は正式に大臣に就任します。蘇我入鹿が父から大臣の座を譲られたことは実質的に蘇我氏の家督を継いだと考えられています。

蘇我入鹿vs反蘇我派

蘇我入鹿が大臣に就任した頃、皇室周辺では、天皇中心の政治制度を取り戻そうという考えが広まります。蘇我入鹿が就任するまで、政治主導権を握っていたのは天皇ではなく、蘇我氏でした。蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子も大臣として天皇に仕え、また蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷も大臣として天皇に仕えていました。蘇我入鹿もまた天皇に仕えているのですが、政治主導権を握っていたのはいつの時代も蘇我氏だったのです。

このように3代にわたって蘇我氏が政治主導権を握っていたことに対し、皇室周辺では不満が高まり、天皇中心の政治を取り戻そうといった動きがでたのです。

皇室周辺
天皇中心の政治を取り戻すため、蘇我氏を排除するぞ!!

蘇我入鹿ももちろん、祖父や父と同じように政治主導権を握っていたのですが、そんな蘇我入鹿と仲のいい人物がいました。それは古人大兄皇子という人物です。

この古人大兄皇子は、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の兄妹である蘇我法提郎女から誕生した子供で、蘇我入鹿にとって従姉にあたる人物です。

古人大兄皇子の父は舒明天皇であったため、次期天皇になれる人物でした。そんな古人大兄皇子は蘇我入鹿のいいなりのような存在で、蘇我入鹿にとって自分の思い通りに動く人物でもあったのです。


そのため蘇我入鹿は自分の思い通りに動く古人大兄皇子を天皇に擁立しました。
しかし、これに対し

天皇中心の政治を取り戻そうとする反蘇我氏派は山背大兄王(母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女、父は聖徳太子)を天皇に擁立します。

山背大兄王は蘇我馬子の娘の子供でもあるので、蘇我馬子にとって従兄弟にあたります。これによって古人大兄皇子を擁立した蘇我入鹿、山背大兄王を擁立した反蘇我氏派による対立が起こりました。

蘇我入鹿
次期天皇は古人大兄皇子だ!
 反蘇我氏派
いやいや、次期天皇は山背大兄王だ!

しかし、この対立は蘇我入鹿が反蘇我派が擁立した従兄弟でもある山背大兄王を自害に追いやったため蘇我入鹿の勝利に終わります。こうして蘇我入鹿を邪魔するものはいなくなり、蘇我入鹿は実質最高権力者として政治主導を行いました。しかし蘇我入鹿の思うような政治は長くは続きませんでした。

ライバル、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足による暗殺計画

蘇我入鹿の実質支配が続く中、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足は蘇我入鹿の暗殺を企てていました。

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中大兄皇子(後の天智天皇)とは、蘇我入鹿が擁立していた古人大兄皇子の異母弟で、舒明天皇が崩御した際、蘇我入鹿や古人大兄皇子と皇位継承を巡って対立していた人物です。中臣鎌足は蘇我入鹿とともに秀才と呼ばれていた人物でしたが、蘇我入鹿が政治主導権を握ることに反対しており蘇我氏体制打倒の意思を持っていた人物です。

このような蘇我入鹿のライバルとなる、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足は蘇我入鹿の暗殺計画を企て、とうとう皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、その計画が実行されるのでした。

中大兄皇子(後の天智天皇)

中大兄皇子の肖像画

出典画像:wikipedia

中臣鎌足

中臣鎌足の肖像画出典画像:wikipedia

蘇我入鹿の最期

蘇我入鹿の暗殺が実行されたのは皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)とされています。皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)この日、新羅、百済、高句麗から派遣された使者が天皇に対面する三国の調の儀式が行われました。蘇我入鹿は古人大兄皇子とともにこの儀式に参加します。中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足は蘇我入鹿が参加することを知って、事前に殿側に隠れ、暗殺するときを窺っていたとされています。暗殺の実行犯には他にも佐伯子麻呂、葛成稚犬養綱田がいました。

様子を窺っていた中大兄皇子(後の天智天皇)は蘇我入鹿の隙を狙い飛び出すと、それに続きが佐伯子麻呂、葛成稚犬養綱田が蘇我入鹿を斬りつけたとされています。
こうして蘇我入鹿の生涯は幕を閉じることとなったのでした。蘇我入鹿亡き後、中大兄皇子(後の天智天皇)たちは蘇我氏を支持する人々を説得し反蘇我派につけます。これを知った蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷は勝ち目はないと自宅に火をつけ自害しました。こうして4代に続いた蘇我氏の活躍は終わりを迎えたのです。

蘇我入鹿の墓の場所

奈良県高市郡明日香村にある蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の境内からほど近い場所に、暗殺によって亡くなった蘇我入鹿の首塚があります。

蘇我入鹿の首塚

蘇我入鹿の首塚

出典画像:wikipedia

また三重県松阪市飯高町舟戸にも蘇我入鹿の首塚とされる五輪塔があります。

聖徳太子と蘇我入鹿の同一人物説

蘇我入鹿と聖徳太子は同一人物だったのではという同一人物説が存在しています。

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この説は

歴史小説家・関裕二さんが著書『聖徳太子は蘇我入鹿である』
の中で唱えたものから誕生したとされています。蘇我入鹿が誕生した年は判明していませんが、聖徳太子が誕生したのは敏達天皇3年1月1日とされ、亡くなったのは推古天皇30年2月22日とされています。蘇我入鹿が活躍した出したのは、聖徳太子の死後、皇極天皇元年1月15日頃からです。この時にはすでに聖徳太子は亡くなっているので、蘇我入鹿と聖徳太子が同一人物であったとはいえません。

まとめ

蘇我入鹿の生い立ちや経歴をご紹介しました。蘇我入鹿は、大臣に就任後、実権をに握るも反蘇我派の中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足によって暗殺され亡くなりました。蘇我入鹿とその父・蘇我蝦夷が亡くなると、蘇我氏の勢力は弱まることとなりますが、蘇我入鹿の従兄弟である蘇我倉山田石川麻呂が再び蘇我氏を盛り上げました。

しかしる蘇我倉山田石川麻呂はその後、謀反の疑いをかけられ自害するなどし、蘇我氏は平安時代になると表舞台から姿を消すこととなります。

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